UOMEDIA

魚へんの漢字

鰹の語源は「堅い魚」——国字と言われた字とかつお節の始まり

公開
更新
読む時間
約22分
共有B!LINE
難易度 初級

この字、読めますか?

鰹

訓
かつお
音
ケン
画数
22画
この記事の目次

毛利梅園(もうり・ばいえん)が天保四年(1833年)に写生したカツオの図の脇に、「日本上古無食生松魚 只為脯而其堅如石 故作堅魚」という書き込みがあります。大昔の日本ではカツオを生では食べず、干し肉にしたものが石のように堅かったから「堅魚」と書いた、というのです。「鰹」の語源を江戸の本で探していくと、字も名前も、泳いでいる魚より先に、干し上げた堅い保存食のほうから来たという説に行き着きます。

『梅園魚品図正』巻一に描かれたカツオ(NDL PID:1287112 コマ23)
左下の書き入れ「保四巳年四月廿有七日真寫」から、天保四年(1833年)四月二十七日に写生されたカツオ。左右の余白は名前と由来の書き込みで埋まっている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ23・著作権保護期間満了)

『梅園魚品図正』巻一のこのカツオは、腹の縞も背の青も、いま魚屋に並ぶものと変わりません。ただ絵の左右は文字でびっしり埋まっていて、この魚の名前の来歴が、出典つきで書き込まれています。

「鰹」の基本データ

読み
かつお(訓)/ケン(音)
画数
22画(魚へん11画+右側11画)
形
魚へんに「堅」
由来
『日本山海名産図会』は、延喜式や和名抄の「堅魚」の二字を合わせて作った日本の俗字と書いた
中国の字書
『康熙字典』の「鮦」の項に「鰹大鮦」。同じ形の字が別の魚の名として載る
難易度
初級

読みと画数は Unicode の Unihan Database(U+9C39)による

鰹=魚+堅うおへん堅いの堅

見出しは「堅魚」、図の題は「鰹」

カツオの話をいちばん詳しく載せていたのは、寛政十一年(1799年)刊の『日本山海名産図会(にほんさんかいめいさんずえ)』でした。諸国の名産を、とるところから仕上げるところまで絵と文章で見せる本で、国立国会図書館では巻ごとにPIDが分かれており、巻之四(PID:2575829)のコマ2に目録があります。

『日本山海名産図会』巻之四の目録(NDL PID:2575829 コマ2)
右端に「日本山海名産圖會巻之四」。最初の項目が「土佐堅魚 熊野」で、そのあとに「越前海膽」「桑名焼蛤」「讃州海鼠」「西宮白魚」「明石章魚」などが並ぶ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ2・著作権保護期間満了)

カツオはこの巻に並ぶ十の項目の最初の一つで、コマ3から11まで、土佐の鰹釣りから浜での加工、干して仕上げるまでを絵と文章で通しています。コマ3で始まる本文の見出しは、「鰹」ではなく「堅魚」でした。

『日本山海名産図会』巻之四、カツオの項の見出し「堅魚」の大写し
コマ3の本文の頭、見出しの「堅魚」を切り出したもの。右に小さく振り仮名がある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ3・著作権保護期間満了)

見出しは「堅魚」なのに、目録の次に出てくる見開き図の題は「鰹」で、一冊の中で二通りの書き方が使われています。「鰹」という字そのものについて書いた一行は、漁と加工の図をひととおり過ぎたコマ8にありました。

「鰹」は日本の俗字、と江戸の本は書いた

「鰹の字日本の俗字なり」。

『日本山海名産図会』巻之四「鰹の字日本の俗字なり」の大写し
コマ8の一列を上下二つに切って並べたもの。右が「鰹の字日本」、左がその続きの「の俗字なり」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ8・著作権保護期間満了)

「鰹」は日本の俗字だと言い切ったうえで、この本はつくり方まで書いています。

「是は延喜式和名抄等に堅魚とあるを二合して制りたるなり」。

『日本山海名産図会』巻之四、「鰹の字日本の俗字なり」の赤枠注釈と翻刻
赤枠は該当する2列。右がその翻刻と現代語訳。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ8・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

鰹の字日本の俗字なり是は延喜式和名抄等に堅魚とあるを二合して制りたるなり

現代語訳

「鰹」という字は日本の俗字(日本でつくられた字)である。延喜式や和名抄などに「堅魚」とあるのを、二字合わせて一字にこしらえたものだ。

延喜式や和名抄には「堅魚」と二字で書いてあり、それを合わせて一字にこしらえたのが「鰹」だ、という説明で、魚へんに「堅」という字のかたちが、そのまま説明になっています。

この本はすぐあとで、名前のほうにも触れています。カツヲという呼び名は「乾魚」の字音が転じたものだという『東雅』の説を紹介して、これを「是信じがたし」と退け、そのうえで「或云(あるいはいう)」として別の説を書き留めています。カツヲは「堅き魚」が転じた言葉で、もとは干したカツオのことだったのが、生きた魚の名前にも使われるようになった(「生物の名にも呼びならひたるなり」)、という説です。名前が干した保存食から来たという話は、この本では、ほかの説を退けたあとに「或云」として出てくる一説という扱いでした。

しかもこの本自身、干したカツオを「乾魚」と書いて「かつを」と読ませています。コマ8の終わり近くの「乾魚ハ本邦日用の物にして」では、「乾魚」の横に「かつを」と振り仮名がついています。

『日本山海名産図会』巻之四、「乾魚を磨て納む」の見開き図(NDL PID:2575829 コマ10)
左上の題は「乾魚を磨て納む」。棚に並べた身を運び出し、籠に詰めている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ10・著作権保護期間満了)

仕上げの工程を描いた見開きの題も「乾魚を磨て納む」で、見出しの「堅魚」、図の題の「鰹」、干した品の「乾魚」と、三通りの字がどれも「かつを」と読まれていたことになります。

古事記も万葉集も「堅魚」と書いていた

『大和本草』巻十三、カツオの表記に関する記述の赤枠注釈と翻刻
赤枠は該当する2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557359 コマ24・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

常陸國誌曰鰹魚古事記萬葉集皆作堅魚而無鰹字後世合為一字耳

現代語訳

『常陸国誌』にいう。カツオは古事記も万葉集もみな「堅魚」と書いており、「鰹」の字は無い。後世に二字を合わせて一字にしただけである。

同じことを、その90年前に貝原篤信(益軒)が書いています。宝永六年(1709年)の『大和本草』巻十三、松魚(カツヲ)の項の「古事記萬葉集皆作堅魚 而無鰹字 後世合為一字耳」で、古事記も万葉集もみな「堅魚」と書いていて「鰹」の字は無く、後世に二字を合わせて一字にしただけだ、という趣旨です。益軒はこれを『常陸国誌』からの引用として紹介していて、90年をへだてた二冊が、「鰹」はあとから日本で二字を合わせてできた字だ、と同じことを言っています。

ところが、中国の字書を開くと話が変わります。清の時代に勅命で編まれた『康熙字典(こうきじてん)』は日本でも安永九年(1780年)に刊行されていて、その「鮦(どう)」の字の項にこうあります。

「爾雅釋魚 鰹大鮦 小者鮵」。

『康熙字典』の「鮦」の項、「爾雅釋魚 鰹大鮦 小者鮵」と「名鰹 小者名鮵」の大写し
右が「爾雅釋魚 鰹大鮦小者鮵」、左がとなりの列の頭の「名鰹 小者名鮵」(前の列の末尾「其大者」に続く)。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『康熙字典』安永九年刊・NDL PID:2562615 コマ13・著作権保護期間満了)

『爾雅(じが)』という古い字書の魚の部に、鰹は大きな鮦で小さいものは鮵、とある、という引用で、続けて「其大者名鰹」、その大きいものを鰹と名づける、とも書かれています。「鰹」という形の字は中国の字書にもともと載っていたわけですが、指しているのは鮦という魚の大きいものでした。

江戸の二冊は、日本で「堅魚」の二字を合わせてつくった字だと書いています。同じ形の字が中国では別の魚の名として使われていたこととどうつながるのか、たまたま同じ形になったのか、字を借りたのかは、この二冊だけでは決められません。

なぜ「堅い魚」なのか

『梅園魚品図正』巻一コマ23、「堅魚」の由来を説明した箇所の赤枠注釈と翻刻
赤枠は該当する2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ23・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

日本上古無食生松魚只為脯而其堅如石故作堅魚

現代語訳

日本では上古、生のカツオを食べず、ただ脯(干し肉)にした。それが石のように堅かった。だから「堅魚」と書いたのである。

堅い理由を書いていたのが、冒頭の梅園の書き込みです。カツオを生で食べず、脯(ほじし=干し肉)にしたものが石のように堅かったので「堅魚」と書いた、と梅園が説明しているのは「堅魚」という書き方の理由で、字が指していたのは泳いでいる魚ではなく、干し上げた堅い塊のほうでした。いま買ってくるかつお節の、あの堅さです。呼び名のカツヲまで「堅き魚」から来たと書いていたのは、『日本山海名産図会』の「或云」のほうでした。

1280年前の荷札に、その字が残っている

この話は本の中だけのものではなく、奈良の都の跡から実物が出ています。

駿河国から「調 荒堅魚」を納めた荷札木簡(平城京跡出土・奈良文化財研究所蔵)
同じ木簡の表と裏。釈文は「駿河国駿河郡古家郷猪津里…調荒堅魚七連九節」(ColBaseによる)。
出典:ColBase(国立文化財機構)/奈良文化財研究所蔵 CC BY 4.0

天平十八年(746年)の荷札木簡は、伊豆国賀茂郡三嶋郷から都へ送られた荷につけられていたもので、書かれているのは「麁堅魚(あらがつお)」です。文化遺産オンラインの解説では「カツオのあらぼし」で、量は拾壱斤拾両(約7.8キロ)、納めたのは戸主・占部久須理(うらべのくすり)の戸に属する占部広庭(うらべのひろにわ)という人でした。長さ32センチ、幅2.7センチの細い板が、1280年前に干したカツオに結びつけられて都まで運ばれ、そのまま残っています。

上の写真は駿河国から届いた別の荷札で、釈文は「駿河国駿河郡古家郷猪津里…調荒堅魚七連九節」。奈良文化財研究所の解説によれば、荒カツオは「なまり節に似たカツオの加工品と考えられている」もので、貢進量が十一斤十両(約7.8キロ)と重さで決められていたので、身の数で調整したのだそうです。

目を留めたいのは数え方の「七連九節」で、同じ解説によれば一本を「一節」、十本を「一連」と数えました。かつお節と同じ「節」の字が、1200年以上前には、この魚を数える単位として使われていたのです。

都に運ばれた、三つのかたち

『本朝食鑑』の「鰹節」の項、延喜式の貢納国を挙げた箇所の赤枠注釈と翻刻
赤枠は該当する3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557334 コマ20・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

民部省ニ伊豆貢堅魚煎主計部ニ志摩相模安房紀伊土佐日向豊後貢之駿河貢堅魚及煮堅魚堅魚煎汁伊豆亦貢堅魚及煎汁

現代語訳

延喜式の民部省の条では、伊豆が堅魚煎を貢ぐ。主計部の条では、志摩・相模・安房・紀伊・土佐・日向・豊後がこれを貢ぐ。駿河は堅魚と煮堅魚と堅魚煎汁を貢ぎ、伊豆もまた堅魚と煎汁を貢ぐ。

元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』は、平安時代の法令集『延喜式』を引いて、カツオがどう納められていたかを書き出しています。

「民部省ニ伊豆貢堅魚煎 主計部ニ志摩相模安房紀伊土佐日向豊後貢之 駿河貢堅魚及煮堅魚堅魚煎汁 伊豆亦貢堅魚及煎汁」。

納められた形は、干し固めた堅魚、煮てから干した煮堅魚、そして字のとおり煎(い)り詰めた汁の堅魚煎汁の三つでした。三つめの「堅魚煎汁」については、『日本山海名産図会』がコマ11で延喜式のこの記事に触れて、「イカリは今ニトリといふ物なるべし」、いまニトリと呼んでいるものだろう、と書いています。

「鰹汁を運んだとされる土器」(奈良文化財研究所蔵)
首の細長い壺。奈良文化財研究所はこれを「鰹汁を運んだとされる土器」として公開している。
出典:ColBase(国立文化財機構)/奈良文化財研究所蔵 CC BY 4.0

液体ですから運ぶには容器が要り、奈良文化財研究所は、上のような首の細長い壺を「鰹汁を運んだとされる土器」として公開しています。納めた国として挙がるのは、伊豆・志摩・相模・安房・紀伊・土佐・日向・豊後・駿河です。

『本朝食鑑』のこの項は見出しが「鰹節」で、その下に小さく「即乾堅魚」、すなわち乾した堅魚、と添えてあります。

『本朝食鑑』の見出し「鰹節」と割注「即乾堅魚」の大写し
大きな字が見出しの「鰹節」。下の割注は右の列が「即乾」、左の列が「堅魚」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557334 コマ20・著作権保護期間満了)

元禄の本が鰹節を「乾した堅魚」と言い換えて、延喜式の「堅魚」と元禄の「鰹節」を、同じものとして並べているわけです。

浦島太郎も「堅魚」を釣っていた

『日本山海名産図会』は、コマ8の最後の行で万葉集の長歌(長哥)を引きはじめ、図をはさんだコマ11の頭へ続けています。水江(みずのえ)の浦島の子、つまり浦島太郎のもとになった伝説の男が、堅魚や鯛を釣るくだりで、そのあとに「萬葉は聖武の御宇の歌集なり」と注が付いています。浦島太郎が釣っていたのも、字の上では「堅魚」でした。

土佐の海で、どう釣っていたか

『日本山海名産図会』巻之四の「土州鰹釣」の見開き図(NDL PID:2575829 コマ4)
左上の題は「土州(土佐)鰹釣」。カツオの項で最初に出てくる見開き図で、手前の船では桶の中身を扱っている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ4・著作権保護期間満了)

カツオの項の絵は、「土州鰹釣」(土州は土佐のこと)の見開き図から始まります。船の上に人が並んで竿を出し、手前の船では桶に何かを移していて、その桶の中身は本文を読むと分かります。

餌は生きた鰯で、だからカツオ漁の前にはまず鰯網を引くのが決まりだった、と書かれています。鰯を二坪ほどの餌籠に入れて潮水にひたし、それを潮水を張った三石ほどの桶に移して、十四、五石ほどの釣舟に載せる。そして一人が長柄の柄杓で汐を汲み出し、もう一人が傍らからまた汲み入れて、鰯を生かしておくのです。

釣り人は一艘に十二人、竿の長さは一間(約1.8メートル)で、竿も手糸(釣り糸)もふつうのものより太い。生きた鰯を海面に放つとカツオが躍り上がって集まり、そこへ針を投げればたちまち食いつく、という手順は、いまの一本釣りとほとんど変わりません。

餌のいらない釣り方も出てきます。鯨の牙や犢牛(こうし)の角に針を通せば餌なしでも釣れ、牛の角は水に入ると光って鰯の群れと見まがうので、魚を集めたいときは牛の角に鶏の羽を加えて水面で振り動かす、と書いてあり、次の見開き(コマ6)の隅にはその道具の絵まで載っています。このあと本文は、天秤釣りなどのやり方もあるが、それらはみな土地の人の手すさび(慰みごと)で、本職の漁師の仕事ではない、と付け加えています。

群れに出くわすと、魚が自分から舟に飛び込んできて人の力では防げず、あまりに多いときは舟を沈めんばかりになるので、遠くから見つけたら急いで漕ぎ退いて、群れが通り過ぎるのを待つ、という記述まであります。

釣ったそばから、節にする

『日本山海名産図会』巻之四、浜での解体・加工の図(NDL PID:2575829 コマ6)
図の題は右ページの「海人釣舟迎て鰹魚を」から左ページの「汀に屠る」へ続く。浜に人が群がり、桶と板を並べて捌いている。左上の囲みはカツオ釣りの道具の図で、角の中へ鶏の首毛を込めて針をつける、と説明が添えてある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2575829 コマ6・著作権保護期間満了)

次の見開きは浜の光景で、船が着き、人が群がり、桶と板が並んで、老いも若きも男も女も総出で捌いています。本文によれば、釣舟を渚に寄せて魚を砂の上に上げると、浜の者がみな桶と板一枚と庖丁を持って集まり、桶の上に板を渡して俎(まないた)にする。まず頭を落とし、腹を開き、骨を除いて二枚におろし、それをさらに二つに切って、一尾を四片(へん)にします。釣る、浜に上げる、その場で四つに割るという、カツオが「節」になるまでの流れが、一枚の絵と数行の文に収まっています。

『水産小学』の「鰹節製造之圖」(味の素食の文化センター蔵)
右で捌き、左の釜で煮る。手前には燃料の薪。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

その先の工程を描いたのが、明治15年(1882年)刊の『水産小学』の一枚で、題は「鰹節製造之圖」。右の男が板の上で身を切り分け、左の男が釜で煮ていて、手前には燃料の薪が束ねてあります。捌いて、煮て、干して、「堅魚」が石のように堅くなるまでの現場です。

1799年の本に、すでに「タタキ」がある

『日本山海名産図会』のカツオの項の終わり、コマ11には「鰹魚のタゝキといふ物あり」という一行があり、勢州(伊勢)・紀州・遠江のものを上品とする、と続きます。カツオのタタキという名前が、200年以上前の本にそのまま出てくるわけです。ただし、すぐあとに「即醢(ひしお)なり」とあって、醢は塩辛のことですから、いまの土佐のタタキ(表面をあぶって切る料理)と同じものかどうかは、この一文だけでは決められません。名前だけが先にあって、中身があとで入れ替わった、ということもありえます。

「あの作り方」は、名前より先に本に載っていた

作り方のほうを探すと、もっと古い本に行き当たりました。

『傳演味玄集』の「火當膾」の項(味の素食の文化センター蔵)
右端の見出しが「同 火當膾」。左に続く数行に「鰹身」「串をさし」「火を焚て」「皮の方」「身の方」「冷水」といった語が読み取れる。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

延享二年(1745年)の写本『傳演味玄集(でんえんみげんしゅう)』は、諸星吮潮斎(もろほし・せんちょうさい)の著で、そのカツオの項に「同 火當膾(ひあてなます)」という、火に当てる鱠の見出しがあります。本文は写本のくずし字で全部は読み切れないものの、「鰹身」「串をさし」「火を焚て」「皮の方」「身の方」「白く」「冷水」という語ははっきり読めます。

カツオの身を串に刺し、火をおこして皮の側をあぶり、身の側も白くなるまであぶって、そのあとに「冷水」の字が出てくるという並びは、いまのカツオのタタキとほとんど同じ順番です。とはいえ名前が違ううえに、読み切れない行も残っていて、もっと古い記録が別の本にある可能性も消えないので、これを「タタキの起源」と呼ぶことはできません。言えるのは、「タタキ」という名前より先に、「皮を焼いて冷水にとる」という作り方のほうが本に載っていたということだけです。

梅園が並べた、五つの名前

『梅園魚品図正』巻一コマ23の右下、カツオの異名を出典つきで並べた部分
右から「東醫寶鑑出 松魚」「常陸国志出 鰹魚 或曰肥満魚」「古事記及萬葉集出 堅魚」「順和名抄曰 鰹魚 加豆乎」「雑字簿 鉛錘魚」。左端に「保四巳年四月廿有七日真寫」の日付。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ23・著作権保護期間満了)

冒頭の図に戻ると、梅園はカツオの脇に、名前を出典つきで並べていました。

  • 東医宝鑑出 松魚(カツヲ)
  • 常陸国志出 鰹魚(カツヲ)或曰肥満魚
  • 古事記及萬葉集出 堅魚(カツヲ)
  • 順和名抄曰 鰹魚 加豆乎
  • 雑字簿 鉛錘魚(カツホ)

どの名前がどの本に出てくるのかを一つずつ書き分けていて、「加豆乎(かつを)」は万葉仮名、「順和名抄」は源順(みなもとのしたごう)の『和名抄』のことです。その「鰹魚」の脇には小さく「式文用堅魚之二字」、延喜式の文は「堅魚」の二字を使う、と注があり、梅園の見た和名抄は「鰹魚」、延喜式は「堅魚」と書き分けています。『日本山海名産図会』が「延喜式和名抄等に堅魚とある」とひとまとめにしていたのとは、ここが少し食い違います。

左端の日付は「保四巳年四月廿有七日真寫」、天保四年(1833年、巳年)四月二十七日に実物を見て写した、という意味で、ここでも三番目に「古事記及萬葉集出 堅魚」が挙がっています。名前の出発点がどこにあるかを、梅園も承知していたわけです。

北斎の画集では「鰹」の一字

『北齋畫鑑』に描かれたカツオ(国文学研究資料館蔵)
下段中央に「鰹」の字。上段にタコ、下段にはスルメなど、ほかの魚介も並ぶ。
出典:国書データベース/国文学研究資料館蔵 パブリックドメイン

安政五年(1858年)刊の北斎の画集『北齋畫鑑』にもカツオがいて、下段の中央、「鰹(かつを)」の字のとなりに描かれ、上の段にはタコ、まわりにはスルメなどが並んでいます。学者が字と名前の由来を書き留めていたころ、絵の本のほうでは、この魚はもう「鰹」の一字で描かれていました。

いまのカツオ

学名は Katsuwonus pelamis (Linnaeus, 1758) で、サバ科の魚です。属名の Katsuwonus は日本語の「カツオ」をラテン語風にしたものだと説明されていて、種小名 pelamis のほうは、アリストテレスまでさかのぼる、マグロ類を指す古い呼び名から来ています。日本語の名前が、そのまま学名に入っているのです。

最大の記録は尾叉長(口先から尾びれの切れ込みまで)110センチ、重さ34.5キロで、分布は黒海を除く熱帯・温帯の全海域、水深0〜260メートル。表層で群れをつくり、鳥や漂流物、サメやクジラのまわりに集まる習性があります。

資源のほうは楽な状況ではなく、水産研究・教育機構が2025年6月23日に公表した予測では、その年6〜11月の常磐・三陸沖へのカツオの来遊量は「昨年及び過去10年の平均を下回る」と見込まれました。近海の一本釣りとまき網が対象にしている、あの夏から秋の群れのことです。

この記事で使った資料

資料

この記事で使った箇所

条件

『梅園魚品図正』巻一(毛利梅園・1833年写生/NDL PID:1287112)

コマ23=カツオの図・異名一覧・「堅魚」の由来

著作権保護期間満了

『大和本草』巻十三(貝原益軒・1709年/NDL PID:2557359)

コマ24=松魚の項「古事記萬葉集皆作堅魚」

著作権保護期間満了

『本朝食鑑』(人見必大・1697年/NDL PID:2557334)

コマ20=「鰹節」の項(割注「即乾堅魚」)、延喜式の貢納国

著作権保護期間満了

『日本山海名産図会』巻之四(法橋関月 画・1799年刊/NDL PID:2575829)

コマ2=目録/コマ3=見出し「堅魚」/コマ4=土州鰹釣図/コマ5=漁法/コマ6=浜の加工図/コマ8=「鰹の字日本の俗字なり」・名前の説/コマ10=乾魚を磨て納む図/コマ11=万葉集・延喜式・タタキ

著作権保護期間満了

『康熙字典』(安永九年〈1780年〉刊の和刻本/NDL PID:2562615)

コマ13=「鮦」の項「爾雅釋魚 鰹大鮦」

著作権保護期間満了

伊豆国からの鰹の荷札木簡(奈良文化財研究所蔵)

天平十八年(746年)「麁堅魚」拾壱斤拾両

文化遺産オンライン掲載情報

平城京木簡(奈良文化財研究所蔵)

駿河国からの「調荒堅魚七連九節」の荷札/鰹汁を運んだとされる土器

ColBase・CC BY 4.0

『傳演味玄集』延享2年(1745)諸星吮潮斎(味の素食の文化センター蔵)

コマ32=「同 火當膾」の項

国書データベース・CC BY-SA 4.0

『水産小学』明治15年(河原田盛美・味の素食の文化センター蔵)

コマ68=鰹節製造之圖

国書データベース・CC BY-SA 4.0

『北齋畫鑑』安政5年(国文学研究資料館蔵)

コマ18=鰹の図

国書データベース・パブリックドメイン

出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』巻一 / 『大和本草』 / 『本朝食鑑』 / 『日本山海名産図会』巻之四 / 『康熙字典』 / 文化遺産オンライン「伊豆国からの鰹の荷札木簡」 / ColBase「平城京木簡(駿河国 調荒堅魚)」 / 国書データベース『傳演味玄集』 / 国書データベース『水産小学』 / 国書データベース『北齋畫鑑』 / FishBase: Katsuwonus pelamis / The ETYFish Project: Scombriformes / 水産研究・教育機構「令和7年度常磐・三陸沖カツオ長期来遊資源動向予測」

名前は、干物のほうから来た

石のように堅いから「堅魚」と書き、その二字を合わせて「鰹」の字ができた、と江戸の本は書きました。同じ形の字が中国の字書に別の魚の名として載っていたことは、江戸の二冊の説明とまだうまくつながりませんが、カツオという名前が干し固めた保存食の名から生きた魚に移った、という説が江戸に書き留められていたことは確かです。

746年の荷札には「麁堅魚」と書かれ、延喜式では堅魚・煮堅魚・堅魚煎汁の三つの形で都へ運ばれ、江戸の土佐では十二人乗りの舟が生き餌でそれを釣り上げていました。だしを取るたびに、私たちはその名前を使っています。

鰹

  • 読みは「かつお」。魚へんに堅、22画
  • 古事記も万葉集も「堅魚」の二字で書いていた
  • 江戸の本は、その二字を合わせて「鰹」の字ができたと書いた
  • 同じ形の字は中国の字書にも、別の魚の名として載っている

UOMEDIA|uomedia.jp

カツオの図(横から見た姿)
カツオ(Katsuwonus pelamis)の図。FishBase の写真(4枚)、iNaturalist の写真(Clinton Duffy)、Wikimedia Commons の写真(Smithsonian NMNH の標本)に輪郭を重ねて形を確かめ、AIで作図しました。ひれの数などはFAO・Naturalis の同定資料(第1背びれ 棘14–16、小離鰭 背7–9・臀7–8、腹の縦縞)と照らしました。写真ではありません。 ほかの魚の図

この記事でわかったこと

  • 江戸時代の本には、干し固めた保存食の堅さから来たという説が書き留められています。

    『日本山海名産図会』巻之四(1799年)コマ8は、カツヲの名を「乾魚」の字音から来たとする『東雅』の説を「是信じがたし」と退け、「或云」として、カツヲは「堅き魚」が転じた言葉で、もとは干したカツオのことだったのが生きた魚の名にもなった、という説を記しています。また『梅園魚品図正』巻一コマ23は「日本上古無食生松魚 只為脯而其堅如石 故作堅魚」=日本では大昔、生のカツオを食べず脯(干し肉)にした、それが石のように堅かったので「堅魚」と書いた、と「堅魚」という書き方の理由を説明しています。

  • 江戸時代の本はそう書いています。

    『日本山海名産図会』巻之四(1799年)は「鰹の字日本の俗字なり」とし、「是は延喜式和名抄等に堅魚とあるを二合して制りたるなり」=延喜式や和名抄にある「堅魚」の二字を合わせて一字にしたものだ、と説明しています。『大和本草』(1709年)も『常陸国誌』を引いて「古事記萬葉集皆作堅魚 而無鰹字 後世合為一字耳」と書いています。一方で、『康熙字典』(安永九年刊の和刻本)の「鮦」の項には「爾雅釋魚 鰹大鮦」とあり、同じ形の字が中国の古い字書に、鮦という魚の大きいものを指す字として載っています。日本の「鰹」との関係は、これらの本だけでは決められません。

  • 『本朝食鑑』(1697年)が延喜式を引くところによれば、堅魚(干したもの)・煮堅魚(煮て干したもの)・堅魚煎汁(煮汁を煮つめたもの)の三つの形がありました。

    納めた国として伊豆・志摩・相模・安房・紀伊・土佐・日向・豊後・駿河が挙げられています。実物としても、天平十八年(746年)に伊豆国賀茂郡三嶋郷から麁堅魚を拾壱斤拾両(約7.8キロ)納めた荷札木簡が平城宮跡から出土しています。駿河国からの荷札には「調荒堅魚七連九節」とあり、奈良文化財研究所の解説によれば、一本を「一節」、十本を「一連」と数えました。

  • 『日本山海名産図会』巻之四(1799年)のカツオの項によれば、餌は生きた鰯で、カツオ漁の前にまず鰯網を引くのが常でした。

    鰯を餌籠に入れて潮水にひたし、潮水を張った桶に移して十四、五石ほどの釣舟に載せ、長柄の柄杓で汐を汲み出しては汲み入れて生かしておきます。釣り人は一艘に十二人、竿の長さは一間ほどで、竿も手糸もふつうより太いものを使いました。生きた鰯を海面に放つとカツオが集まり、そこへ針を投げると食いつく、と書かれています。

  • Katsuwonus pelamis (Linnaeus, 1758) はサバ科の魚です。

    ETYFish Project によれば、属名 Katsuwonus は日本語の「カツオ」をラテン語風にしたもの、種小名 pelamis はアリストテレスまでさかのぼるマグロ類の古い呼び名に由来します。FishBase では最大尾叉長110センチ、最大重量34.5キロ、黒海を除く熱帯・温帯の全海域に分布する高度回遊性の魚とされています。

  • 『日本山海名産図会』巻之四(1799年)に「鰹魚のタゝキといふ物あり」と名前が出てきますが、直後に「即醢(ひしお)なり」=塩辛だと続くため、いまの土佐のタタキと同じものかは決められません。

    一方、作り方のほうは延享二年(1745年)の写本『傳演味玄集』に「同 火當膾(ひあてなます)」という項があり、本文に「鰹身」「串をさし」「火を焚て」「皮の方」「身の方」「白く」「冷水」といった語が読み取れます。カツオを串に刺して皮と身をあぶり、そのあとに冷水が出てくる手順で、現在のタタキとよく似ています。ただしこれをタタキの起源と断定することはできません。

この記事で開いた原本

どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。

ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。

共有B!LINE