「江戸前」はもともとウナギの言葉だった。江戸の魚譜が書き残した産地と、同じころ西洋がつけた学名
まず、この見開きを見てください。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』2帖(著作権保護期間満了)
約190年前、江戸の博物家・毛利梅園(もうり・ばいえん)が描いたウナギです。
絵そのものより、右側の文字の量に目がいきます。ここには異名、分類、古典の引用、そして産地が書き込まれていました。
そのなかに、いまも私たちが使っている言葉があります。
1. 「江戸前」は、ウナギの産地表示だった

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「輪ノ内 筑地 両国川 及神田川筋ニテ釣ル者ヲ江戸前トス」。
築地や両国川、神田川筋で釣れたウナギを「江戸前」と呼ぶ、と書いてあります。
いまでは寿司の言葉として使われる「江戸前」ですが、江戸の魚譜のなかではウナギがどこで釣れたかを示す産地表示でした。
続きもあります。「又 本所 千住 高輪前ニテ釣ル河魚ノ味最上品トスヘシ」。本所・千住・高輪前で釣れた川魚は味が最上品だ、と。
地名を並べて、どこのものが上等かを書き分けている。産地でランク付けする感覚は、190年前からありました。
2. 古名は「ムナキ」——万葉集にさかのぼる

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
見出しは「鰻鱺魚(まんれいぎょ)」、読みは「ウナギ」。
その左に、小さくこう注記されています。「ムナキ 古名 萬葉集」。
万葉集にみえる古い呼び名は「ムナキ」だ、というのです。ウナギの「ウ」がまだ付いていない形です。
そして梅園は、その万葉集の歌そのものを引いていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「萬葉集第十六巻 大伴ノ家持 石麻呂ニワレ物申ス 夏ヤセニ ヨシトイフ物ゾ ムナギトリメセ」。
石麻呂どのに申し上げる。夏やせによいというものだ、ウナギを取って召し上がれ——。
夏バテにウナギ、という話が奈良時代の歌にすでにある。しかもそれを江戸の博物家が、魚の解説として引いている。
ウナギという魚をめぐる言葉が、千年以上つながっていることがわかります。
3. 梅園はウナギをどこに置いたか

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
ページの冒頭には「河魚類」とあり、続けて「多識扁 無鱗類出」と書かれています。
ウナギは川の魚で、鱗のない魚という位置づけです。
同じページには、ドジョウの仲間が並んで描かれています。「鰌魚(アカドジャウ)」と、ひげのある泥鰌の類。
細長くて、ぬるぬるしていて、鱗が目立たない魚どうしをまとめた。現代の分類ではウナギ目とコイ目に分かれる相手ですが、見た目でくくった判断そのものは筋が通っています。
4. 二つの頭を持つウナギ

出典:国書データベース/北海道大学附属図書館・国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)
江戸の記録には、こんなものも残っています。
『鴨村見聞三筆』という写本に描かれた「岐首鰻鱺(きしゅまんれい)」。頭が二つに分かれたウナギです。
珍しいもの、変わったものを見たら描いて残す。それも江戸の博物趣味の一部でした。
この図は国書データベースで公開されていて、北海道大学附属図書館の所蔵。CC BY-SAで、出典を書けば誰でも使えます。
5. 同じころ、西洋はこの魚に学名をつけた

出典:Biodiversity Heritage Library/Internet Archive(faunajaponicasi2sieb)著作権保護期間満了
梅園がこの魚譜を描いていた時代と重なるころ、オランダで『日本動物誌(Fauna Japonica)』の魚類編が刊行されはじめます。
シーボルトらが日本にいた1823〜1830年に集めた資料をもとに編まれた本で、魚類編は1842年から1850年にかけて出ました。
その第113図が上の図版です。図の右端には、こう刻まれています。

出典:Biodiversity Heritage Library/Internet Archive(faunajaponicasi2sieb)著作権保護期間満了
「II, ANGUILLA JAPONICA. I & III, CONGER ANAGO.」
図IIが Anguilla japonica、図Iと図IIIが Conger anago。ニホンウナギとマアナゴが1枚の図版に同居しています。
ここで名づけられた Anguilla japonica が、いまも使われているニホンウナギの学名です。
江戸の梅園は「鰻鱺魚」と書き、産地と古名を添えました。ヨーロッパの動物学者は同じ魚に世界共通の名前を与えました。ほぼ同じ時代に、まったく違うやり方で同じ魚が記録されていたことになります。
6. それでも、産卵場は2000年わからなかった
名前がついても、この魚がどこで卵を産むのかは誰も知りませんでした。
東京大学大気海洋研究所の資料は、この謎を「古代ギリシャのアリストテレスを悩ませた2000年におよぶウナギ産卵場の謎」と書いています。
決着がついたのは、つい最近です。
東京大学海洋研究所(現・大気海洋研究所)と水産総合研究センターは2008年から共同で調査を進め、2009年5月の新月、西マリアナ海嶺南端部で世界初となる天然ウナギの卵31粒を採集しました。
学術研究船「白鳳丸」や水産庁の漁業調査船「開洋丸」などを動員した大規模な航海の成果で、2011年2月1日付の Nature Communications に掲載されています。
梅園が産地を書き留めてから、およそ175年。ようやく「どこから来るのか」がわかりました。
ただし、状況は明るくありません。環境省は2013年2月1日に公表した第4次レッドリストで、ニホンウナギを絶滅危惧IB類(EN)に選定しました。漁獲量データにもとづく3世代(12〜45年)での減少率が72〜92%と推定されたためです。
江戸で「江戸前」と呼ばれ、神田川で釣れていた魚が、いまは絶滅危惧種になっています。
出典: 東京大学大気海洋研究所・水産総合研究センター「人類が初めて目にした天然ウナギ卵—ウナギ産卵場2000年の謎を解く—」(PDF) / 環境省「第4次レッドリストの公表について(汽水・淡水魚類)」(2013年2月1日)
7. これらの図版は、誰でも無料で見られます
この記事で使った図版は、すべて公開されていて、出典を書けば使えます。
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『梅園魚品図正』2帖(NDL PID:1287112) | コマ27=ウナギの図と解説 | 著作権保護期間満了 |
『鴨村見聞三筆』(北海道大学附属図書館蔵) | コマ49=岐首鰻鱺の図 | 国書データベース/CC BY-SA 4.0 |
『日本動物誌』魚類編 | 第113図=Anguilla japonica と Conger anago | BHL/Internet Archive・保護期間満了 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』2帖 / 国書データベース『鴨村見聞三筆』 / Fauna japonica, Pisces(Biodiversity Heritage Library/Internet Archive)
まとめ:「江戸前」の三文字が残っていた
ウナギ1匹の絵に、これだけのことが書き込まれていました。
どこで釣れたものを江戸前と呼ぶか。万葉の昔は何と呼ばれていたか。どの分類に置くか。同じ時代、ヨーロッパでは何と名づけられたか。
そして産卵場だけは、誰にもわからないまま2000年が過ぎ、2009年にようやく卵が見つかりました。
190年前の紙に書かれた「江戸前」の三文字は、いまも寿司屋の看板に残っています。もとはウナギの、産地の言葉として。
「江戸前」はもともとどういう意味だったのですか?
ウナギの古い呼び名「ムナキ」とは?
ニホンウナギの学名 Anguilla japonica はどこで見られますか?
ニホンウナギの産卵場所はいつわかったのですか?
ニホンウナギは絶滅危惧種なのですか?
SAKANA 編集部
良輔 × Claude(Anthropic)
論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 人間が判断し、AIが調査を支援する協働プロジェクトです。