江戸の魚図鑑はどこまで正確か——1835年のコイ写生図を検証した
この記事の目次
毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生図譜『梅園魚品図正』巻一のコマ6は、見開き2ページを丸ごと使って、コイを1匹だけ描いています。江戸の魚の図鑑のなかでもこの1枚が目を引くのは、絵の脇に、いつ、どこで手に入れた個体かが書き添えてあるからで、いまの図鑑や博物館の標本がかならず付けているラベルと同じ情報が、約190年前の紙の上にありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』巻一(NDL PID:1287112 コマ6・著作権保護期間満了)
写真ではなく絵の具で描かれた1匹で、鱗の1枚1枚、鰭の筋の1本1本まで手が入っています。日付と場所を書いた識語は、図の隅にありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ6・著作権保護期間満了)
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乙未秋七月朔日於武江尾久川得之真寫
現代語訳
乙未(きのとひつじ)の秋、七月朔日(ついたち)。武江(江戸)の尾久川でこれを得て、実物を写した。
「乙未秋七月朔日於武江尾久川得之真寫」。乙未(きのとひつじ)の秋、七月朔日(ついたち)に、武江(江戸)の尾久川でこれを得て実物を写した、という書き入れです。
国立国会図書館の書誌では、この本の序は天保6年(1835年)で、その年の干支が乙未にあたります。旧暦の七月一日に尾久川で手に入れた1匹ですが、自分で釣ったのか人から得たのかまでは書かれていません。尾久は、いまも東京都荒川区に残る地名です。以下、この1枚と、梅園がひとつ前の見開きに書き残した書き込みを、現代のコイの知見と突き合わせていきます。
口ひげが2対4本ある
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ6・著作権保護期間満了)
頭を拡大すると、口の脇から長いひげが1本、その少し前に短いひげが1本、見えている片側に2本が描かれています。反対側にも同じだけあれば、左右あわせて2対4本になります。
これは現代の分類でもコイの基本形質そのもので、愛知県のレッドデータブックはコイの形態を「やや側扁した紡錘形で吻部がとがり、口ひげが2対ある」と記載しています(愛知県「コイ(在来型)」PDF)。世界の魚類データベース FishBase も、コイをヨーロッパの他のコイ科魚類と区別する特徴として「2対のひげ」を挙げています。あとで出てくるフナにはこのひげがなく、ひげの有無はコイとフナを見分けるいちばんわかりやすい目印ですが、梅園はそれを190年前にきちんと描き分けていました。
「鱗は三十六枚」に合わないと書いたのは誰か
コイの絵のひとつ前の見開き(コマ5)には、びっしりと文字が書かれています。右上に「本草綱目第四十四巻」とあり、中国の本草書『本草綱目』のコイの項から、呼び名や昔の学者の説を書き写したページです。そのなかに、鱗の数を言う一節があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ5・著作権保護期間満了)
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其脇鱗一道從頭至尾無大小三十六鱗毎鱗有小黒点
現代語訳
脇の鱗のひとすじ(一列)は、頭から尾まで、大きなコイでも小さなコイでも三十六枚。どの鱗にも小さな黒い点がある。
「其脇鱗一道從頭至尾無大小三十六鱗毎鱗有小黒点」。脇の鱗のひとすじは、頭から尾まで、大きなコイでも小さなコイでも三十六枚で、どの鱗にも小さな黒い点がある、という説で、『本草綱目』が「蘇頌曰」として載せているものです。「一道」は「ひとすじ」の意味なので、体じゅうの鱗の数ではなく、体の脇を頭から尾へ走る一列の数を言っていると取れます。
コイには「六六魚(ろくろくぎょ)」という別名もあり、同じページの呼び名の一覧に、出典の『事物異名』とともに書き出されています。6×6で36になるので、このページでもあとで三十六鱗の話と結びつけられています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ6・著作権保護期間満了)
絵のほうでは、鱗が1枚ずつ律儀に描き分けられ、体の中ほどに、頭から尾へ向かって小さな黒い印がひと筋に並んでいます。脇の鱗のひとすじのどれにも小さな黒い点がある、という書き方とよく重なって見えるので、ここで終われば、江戸の人は中国の説をそのまま信じていたという話で済みます。ところがこのページには、三十六鱗説を写したあとに、こんな列が続いていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ5・著作権保護期間満了)
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彦藩重啓之如解其鱗三十六鱗ナラザル者及毎鱗小黒点ナキ者多シ鯉ニ數種ナキトイヘトモ三種アリト予友人漁夫語之未不分之ヲ
現代語訳
(彦藩の重啓の考えでは)その鱗が三十六枚でないものや、鱗ごとの小さな黒点がないものが多い。/鯉に何種類もあるわけではないが三種はある、と私の友人の漁師が語った。まだ見分けはついていない。
「其鱗三十六鱗ナラザル者及毎鱗小黒点ナキ者多シ」。その鱗が三十六枚でないものや、鱗ごとの小さな黒点がないものが多い、と言っています。権威ある本にはそう書いてあるが実物にはそうでないものが多い、という反論なので、梅園が自分でコイの鱗を数えて書いたのだと、最初は読みたくなります。
ところが、この文の書き出しのすぐ右、ひとつ前の列の下のほうをよく見ると、まわりより少し小さな字で、四文字の名前が書き込まれていました。
出典:『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ5・著作権保護期間満了
「彦藩重啓」。梅園の名は元寿といい、国立国会図書館の書誌でもこの本の撰者は「毛氏梅園元寿」なので、重啓は梅園とは別の人です。手がかりは同じページの別の列にあり、産卵の話の書き出しに「湖中産物圖證曰」、つまり『湖中産物図証』という本にこう書いてある、とありました。国立国会図書館の目録で『湖中産物図証』を引くと著者は藤居重啓で、この本も原本の画像が公開されています。巻頭はこうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『湖中産物図証』(NDL PID:2553387 コマ3・著作権保護期間満了)
「近江彦根藤居重啓撰」、近江の彦根の藤居重啓が書いた本で、題の「湖中」は、本文に「我カ琵琶湖」という言い方が出てくるとおり琵琶湖のことです。「彦藩」は彦根藩を縮めた書き方と見てよさそうなので、梅園のページの「彦藩重啓」は、この藤居重啓のことだと考えられます。
その『湖中産物図証』のコイの項を開くと(コマ6)、梅園のページと同じ順番で『本草綱目』の引用が並び、そのあとに「雖然重啓謹按其鱗三十六ナラサルモノ及毎鱗小黒點ナキモノ多シ」と続いていました。しかしながら重啓が謹んで考えるに、その鱗が三十六でないものや、鱗ごとに小さな黒点がないものが多い、という文です。
出典:『湖中産物図証』・NDL PID:2553387 コマ6・著作権保護期間満了
梅園のページの反論とほとんど同じ文で、違うのは、重啓が「重啓謹按(重啓が謹んで考えるに)」と自分の名で書き出しているところだけです。三十六鱗説に「合わないものが多い」と書いたのは、琵琶湖のコイを見ていた彦根の重啓で、梅園はそれを名前を添えたまま江戸の図譜に写したように見えます。
写したのはこの一文だけではなく、春の産卵のようす、仙人が乗った赤い鯉の話、琵琶湖の竹生島のコイの話も、『湖中産物図証』のコイの項にほぼ同じ文があります(コマ7・コマ10)。そのなかで、重啓の本の同じ箇所に見当たらない列がひとつあり、上の赤枠のいちばん左の列がそれです。
「鯉ニ數種ナキトイヘトモ三種アリト予友人漁夫語之未不分之ヲ」。コイに何種類もあるわけではないが三種はある、と私の友人の漁師が語った、まだ見分けはついていない、という趣旨に取れます。琵琶湖の観察を名前ごと写し、そこへ自分の友人の漁師の話を書き足しているので、この見開きは梅園ひとりの目ではなく、何人かの目を重ねてできていたことになります。
琵琶湖の産地を、江戸の川に入れ替えた
梅園が自分の言葉を足しているところは、コイの産地の話にもあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ5・著作権保護期間満了)
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鯉ハ食品ノ第一トス江戸ニテ江戸川尾久川下總ノ利根川荒川之産ヲ第一品トス近州琵琶湖中竹生嶋邊ノ鯉三十六鱗ナルモノ多シト云リ事物異名ニ所謂ノ六々魚是也
現代語訳
鯉は食品の第一とされる。江戸では、江戸川・尾久川・下総の利根川・荒川でとれたものを第一品とする。/近江の琵琶湖の竹生島あたりの鯉には三十六鱗のものが多いという。『事物異名』にいう六々魚とはこれである。
「鯉ハ食品ノ第一トス江戸ニテ江戸川尾久川下總ノ利根川荒川之産ヲ第一品トス」。鯉は食品の第一で、江戸では江戸川・尾久川・下総の利根川・荒川でとれたものを第一品とする、という文です。
重啓の本では、同じあたりにこう書かれています(コマ7)。竹生島のあたりは深さ七十尋で、「此邊ノ鯉鮒湖中第一ノ上品」と言い、続けて浅井郡田川、坂田郡相模浦、勢田橋下など琵琶湖まわりの地名を並べて、そこのコイはどれも上品だと結んでいます。琵琶湖の上品の産地が並んでいたところに梅園は江戸の四つの川を入れており、文の運びはそのままに、産地だけを自分の土地に置き換えたように見えます。
竹生島の一文も、少しだけ形が変わっていました。重啓は「我カ琵琶湖中竹生島邊」と自分の湖として書いていたのに、梅園の筆では「近州琵琶湖中竹生嶋邊ノ鯉三十六鱗ナルモノ多シト云リ」と、近江の琵琶湖では、と外から書き、「ト云リ」(〜という)と聞いた話の形にしています。そして冒頭の識語のとおり、梅園が描いたあの1匹は尾久川で手に入れたもので、梅園が書き入れた江戸の「第一品」の川のひとつです。文章は琵琶湖の本を写しながら、絵のほうは自分の土地の川のコイで描いていたことになります。
赤いコイ、ヒゴイと金鯉
梅園はコイの色変わりも、別の巻に描いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』巻二(NDL PID:1287113 コマ54・著作権保護期間満了)
題字は「河魚類 金鯉(ヒゴイ)」で、口元にはちゃんとひげがあります。図の脇には、こんな注記がありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287113 コマ54・著作権保護期間満了)
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證類本草ニ出赤鯉魚ハ真鯉ノ赤ナル者也金鯉ハ金魚ノ類也
現代語訳
『証類本草』に出てくる赤鯉魚とは、真鯉(マゴイ)の赤いもののことである。金鯉は金魚の類である。
「證類本草ニ出赤鯉魚ハ真鯉ノ赤ナル者也金鯉ハ金魚ノ類也」。『証類本草』に出てくる赤鯉魚とは真鯉(マゴイ)の赤いもののことで、金鯉は金魚の類である、と、見た目の似た赤いコイと金魚を分けようとしている注記です。同じ分け方は、小野蘭山の講義を記録した『本草綱目啓蒙』(文化2年・1805年の跋)にも見え、深い紅色のものを金鯉といい、これは金魚の品だ、という趣旨の記述があります(巻之四十、NDL PID:2555494 コマ6)。
そして、この図の題は「金鯉」です。注記の分け方に従えば、この赤い魚はマゴイの赤いものではなく金魚の仲間のほうに置かれていることになりそうですが、それでも口元には、コイと同じひげが描き込まれています。なお巻一のコイのページには、仙人の琴高・子英が乗った鯉は赤鯉でふつうの鯉ではない、という一節もあり、『列仙伝』を挙げたこの書き込みも『湖中産物図証』とほぼ同じ文です。
観賞用のコイといえば錦鯉ですが、新潟県によれば錦鯉の起源は「約200年以上前の江戸時代」、現在の小千谷市・長岡市の一部(かつての古志郡二十村郷)で、食用のマゴイから突然変異した個体を観賞用に飼ったこととされています(新潟県「にいがたの錦鯉」)。梅園がこの赤い魚を描いたのも、同じ江戸時代の後期です。
コイに似ているけれど、コイではない魚
図鑑としての『梅園魚品図正』が面白いのは、似た魚が同じ見開きに並んでいるところで、さきほどの金鯉と同じ見開きの右下には、この魚がいました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287113 コマ54・著作権保護期間満了)
題字は「鯽魚」、ふりがなは「フナ」「マフナ」で、口のまわりにひげがありません。コイとフナを並べて描き、ひげの有無と体型の違いをそのまま見せているのは、現代の図鑑の見分け方のページと同じことを1枚の紙の上でやっているようなものです。別のページには、さらにこの魚が描かれていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287113 コマ34・著作権保護期間満了)
題字は「本草綱目第四十四巻 河魚類 白魚(ハクギヨ)」で、その脇に小さく「ミゴイ」「ニゴイ」という和名が書かれています。「ミゴイ」には『和名抄』、「ニゴイ」には「彦根」と名の出どころが添えてあり、題字の左には「俗ニ似鯉」、鯉に似るという意味だ、という書き込みもあります。名前からしてすでに似ゴイで、コイに似ているけれどコイではない魚です。この魚の正体をめぐって、梅園は「貝原先生」「蘭山先生」、そしてここでも「彦藩重啓」の説を引きながら左ページの大半を費やしていますが、くずし字で読み切れない箇所が多いため、中身には立ち入りません。
産卵の記録、琵琶湖の本から写した「乗っ込み」
梅園のコイのページには産卵のようすを書いた列もあり、書き出しは「湖中産物圖證曰」、重啓の本からの引用です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ5・著作権保護期間満了)
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湖中産物圖證曰……漁者孕鯉ヲハラミト呼テ賣ヒサグ春月暖氣ニ至リ大雨ノ時山谷ノ流赤泥ノ濁水トナリ下ル時諸々ノ川口ニ鯉魚上リ到リ泥濁ノ水ヲ呑テ卵ヲ産ス
現代語訳
『湖中産物図証』にいう……漁師は卵を持ったコイを「ハラミ」と呼んで売り歩く。春、暖かくなって大雨が降り、山や谷の流れが赤い泥水になって下ってくるとき、あちこちの川口にコイがのぼってきて、濁った水を呑みながら卵を産む。
「春月暖氣ニ至リ大雨ノ時山谷ノ流赤泥ノ濁水トナリ下ル時諸々ノ川口ニ鯉魚上リ到リ泥濁ノ水ヲ呑テ卵ヲ産ス」。春、暖かくなって大雨が降り、山や谷の流れが赤い泥水になって下ってくるとき、あちこちの川口にコイがのぼってきて、濁った水を呑みながら卵を産む、という記録で、釣り人が「乗っ込み」と呼ぶ春の産卵の動きにあたります。もとは琵琶湖に注ぐ川口のようすを書いたものと見られます。
愛知県のレッドデータブックはコイの生態を「産卵期は4~7月で水草などに卵を産みつける」としていて、春から初夏に卵を産むという時期の点で、江戸の記録は今の記載と重なります。同じ引用のなかには、卵を持ったコイを漁師が「ハラミ」と呼んで売ることも書かれています。また梅園は「鯉ノ兒」の見出しのもとに、コイの子の呼び名として「乳鯉(コゴヒ)」に「江州」、「ハネカヱリ」に「江戸」と、土地の名を添えて並べています。
同じ江戸で、北斎はコイをこう描いていた
出典:東京国立博物館 ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-659)/CC BY 4.0
梅園が鱗を数えていたころ、同じ江戸でまったく別のコイが描かれていました。東京国立博物館が所蔵する葛飾北斎の「鯉の滝登り」で、滝を登るコイという画題の、江戸時代・19世紀の作です。梅園の写生とほぼ同じ時代のものなのに、鱗の扱いは正反対で、梅園は1枚ずつ数えられるように描き、北斎の鱗は扇形の模様として、水の勢いと魚の力を見せるための線になっています。同じ魚を、片方は「何枚あるか」で見て、もう片方は「どれだけ力強く見えるか」で見ていたわけで、江戸のコイはそれだけ多面的な存在でした。
出典: ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)「鯉の滝登り」葛飾北斎筆・東京国立博物館蔵
同じころ、西洋の科学者は同じ魚をこう描いた
出典:Biodiversity Heritage Library/Internet Archive(faunajaponicasi2sieb)著作権保護期間満了
梅園がこの1匹を写した数年後、オランダで日本の魚の大型図譜『日本動物誌(Fauna Japonica)』の魚類編が出はじめます。シーボルトらが日本にいた1823〜1830年に集めた資料をもとに編まれた本で、魚類編は1842年から1850年にかけて刊行されました。その第96図が上のコイで、図の右端にはCYPRINUS HAEMATOPTERUSと刻まれています。梅園の絵と決定的に違うのは、本図のわきに頭部だけを取り出した図が2点添えてあることです。
出典:Biodiversity Heritage Library/Internet Archive(faunajaponicasi2sieb)著作権保護期間満了
口を開いた頭部の線画で、見えている側の口ひげ2本と唇の構造が描き分けられています。こんな図が要るのは目的が違うからで、梅園が描いたのは「天保6年(1835年)旧暦7月1日に尾久川で手に入れた、この1匹」、こちらが描こうとしたのは「コイという種はどういう形をしているか」でした。種を定義するには1匹をきれいに写すだけでは足りず、同じ仲間と見分けるための部分図が要るので、頭部が別に描かれています。
それでも、決め手として口ひげを描き込んだ点は梅園とまったく同じで、江戸の博物家とヨーロッパの動物学者が、別々に同じところを見ていました。なお、この図に刻まれた学名が現在どう扱われているかは、次に触れる分類の議論とも絡むので、ここでは図に刻まれた名をそのまま記しておきます。
出典: Fauna japonica, Pisces(Biodiversity Heritage Library) / 同 Internet Archive版
いまの日本のコイは2つの系統に分かれる
ここまでは190年前の話で、「日本のコイ」はいま、2つの系統に分けて考えられています。国立環境研究所の馬渕浩司さんは、琵琶湖のコイと大陸のコイのDNAを比べ、その遺伝的な違いが予想外に大きいことを2005年に発表し、日本の湖沼で採集したコイ166個体のうち97個体が大陸由来だった、と報告しています(国立環境研究所ニュース36巻5号、2017年)。
かつて「野生型」と呼ばれていたほうが日本在来の系統で、体高が低く細長く、養殖・放流されてきた「飼育型」は背中の肉づきがよく体高が高い。愛知県のレッドデータブックによれば、在来型の確実な国内分布は現在琵琶湖北部地域のみとされ、瀬能宏さんは在来型に Cyprinus melanotus という学名を提案しています(ただし別種として広く受け入れられるには至っていません)。
1835年に江戸の尾久川で手に入れたあのコイが在来型なのか飼育型なのかは、DNAが絵に残らない以上、絵だけでは決められません。それでも、いつ・どこで採れた個体かを書き添え、鱗の枚数まで描き込んで残した梅園の1枚は、190年後の私たちがあのころのコイの姿を考えるための、数少ない手がかりになっています。
開いた本とコマ
『梅園魚品図正』と『湖中産物図証』は二冊とも国立国会図書館デジタルコレクションで全ページ公開されているので、並べて開けば、梅園がどこを写し、どこを書き足したのかを自分の目でたどれます。この記事で使った箇所は次のとおりです。
資料 | この記事で使った箇所 |
|---|---|
『梅園魚品図正』巻一(PID:1287112) | コマ5=コイの解説、コマ6=コイの写生図 |
『梅園魚品図正』巻二(PID:1287113) | コマ34=白魚(ニゴイ)、コマ54=金鯉・鯽魚(フナ) |
『湖中産物図証』藤居重啓(PID:2553387) | コマ3=巻頭、コマ6=「重啓謹按」、コマ7=竹生島と琵琶湖の産地、コマ10=産卵 |
『本草綱目啓蒙』巻之四十(PID:2555494) | コマ6=金鯉は金魚の品とする記述 |
『日本動物誌』魚類編(BHL/Internet Archive) | 第96図=Cyprinus haematopterus の図版と頭部図 |
「鯉の滝登り」葛飾北斎筆(東京国立博物館蔵) | ColBase で公開・CC BY 4.0 |
明治以降の学術的な魚類図説は、著作権の確認などの事情でインターネット公開されていないものが少なくないので、いま自由に見られる日本の魚類図鑑としては、江戸時代の彩色図譜がいちばん手に取りやすいと言ってよさそうです。
190年前の「図鑑」は、どこまでいけていたか
梅園のコイの見開きと、同じ図譜の近い魚の図を、現代の図鑑の項目に当てはめると次のようになります。
図鑑の項目 | 『梅園魚品図正』の記述 |
|---|---|
標本データ | 「乙未秋七月朔日於武江尾久川得之真寫」=入手した日付と場所つき |
形態 | 口ひげ、鱗の1枚ずつを描写。三十六鱗説には「合わないものが多い」という琵琶湖の観察(藤居重啓)を書き写す |
近縁種との区別 | フナ(ひげなし)・ニゴイを同じ図譜に収録 |
色彩変異 | 金鯉(ヒゴイ)を別図にし、注記で赤い真鯉(赤鯉魚)と金魚の類(金鯉)を分ける |
生態 | 増水期の産卵遡上(『湖中産物図証』から引用)、卵を持つ個体の呼称、稚魚の土地ごとの呼称 |
利用・産地 | 琵琶湖の産地を並べた文の運びのまま、江戸川・尾久川・利根川・荒川を第一品とする |
先行文献の検討 | 『本草綱目』『湖中産物図証』などを書き写し、友人の漁師の話を書き足す |
足りないのは学名と、DNAと、標本そのものだけで、その学名のほうは、ほぼ同じころにヨーロッパで進んでいました。権威ある本にそう書いてあっても、実物と合わなければ合わないと書く。その一文を書いたのは琵琶湖のほとりの重啓で、梅園はそれを名前ごと写し、自分の土地の川の名を書き足しました。190年前の紙の上に残っていたのは、ひとりの観察よりも、観察を人から人へ受け渡していくつながりのほうでした。
この記事でわかったこと
『梅園魚品図正』は、毛利梅園による魚類の彩色図譜です。
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており(この記事で使ったのはPID:1287112=巻一、PID:1287113=巻二)、著作権保護期間は満了しています。多くの図に入手や写生の日付が書き添えてあるのが特徴で、この記事で紹介したコイの図には「乙未秋七月朔日於武江尾久川得之真寫」=乙未(天保6年・1835年)の旧暦7月1日に、江戸の尾久川で得て写生した旨が記されています。書き込みには、『本草綱目』や藤居重啓『湖中産物図証』など他の本を写した部分も多く含まれます。
「三十六鱗」は『本草綱目』に引かれた蘇頌の説で、体の脇を頭から尾へ走るひとすじの鱗が、大きなコイでも小さなコイでも三十六枚で、どの鱗にも小さな黒点がある、というものです。
梅園のページでは、コイの別名「六六魚」とも結びつけられています。『梅園魚品図正』巻一コマ5はこの説を写したうえで、三十六枚でないものや黒点のないものが多いと書いています。ただしこの反論は、彦根の藤居重啓が『湖中産物図証』に「重啓謹按」として書いた文とほぼ同じで、梅園は「彦藩重啓」の名を添えて写しています。現代の魚類学では、コイを見分ける形態の指標として口ひげ2対や背鰭の軟条数などが使われています。
コイとフナの一番わかりやすい見分け方は口ひげです。
コイには2対4本のひげがありますが、フナにはありません。『梅園魚品図正』巻二コマ54では、ひげのある金鯉(ヒゴイ)とひげのない鯽魚(フナ)が同じ見開きに描かれており、190年前の絵でその違いを確認できます。
国立環境研究所の馬渕浩司さんらの研究により、日本のコイには日本在来の系統と、ユーラシア大陸由来で養殖・放流されてきた系統があることがわかっています。
日本の湖沼で採集した166個体のうち97個体が大陸由来だったと報告されています(国立環境研究所ニュース36巻5号、2017年)。愛知県のレッドデータブックによれば、在来型の確実な国内分布は琵琶湖北部地域のみとされています。
近代の学術的な図説には、著作権の確認などの事情でインターネット公開されていないものが少なくありません(その場合は国立国会図書館への来館や、個人向けデジタル化資料送信サービスの利用が必要です)。
一方、江戸期の彩色図譜は保護期間が満了しており、高精細画像を誰でも無料で閲覧・利用できます。
江戸の図譜と西洋の図鑑は、優劣というより目的が違います。
毛利梅園の『梅園魚品図正』は「天保6年(1835年)旧暦7月1日に尾久川で手に入れたこの1匹」を、入手の日付と場所つきで記録したものです。いっぽうシーボルトらの調査にもとづく『日本動物誌』魚類編(1842〜1850年刊)は「コイという種はどういう形か」を定義するための本で、本図のわきに頭部だけの線画が添えられています。ただし両者とも、コイを見分ける決め手として口ひげを描き込んでいる点は同じでした。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻1
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 湖中産物図証 3巻.[1]
藤居重啓
- 梅園魚品図正.巻2
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 本草綱目啓蒙 48巻.[23]
蘭山小野先生 口授・小野職孝士徳 録 文化2 [1805] [跋]
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