「俗に熨斗の字をかくは誤なり」——ご祝儀袋の「のし」は、もともとアワビだった
ご祝儀袋の右上に、細長い飾りがついています。
色紙を折った中に、黄色い短冊のようなものが挟まっている——あの「のし」です。
あれが何なのか、考えたことがあるでしょうか。
結論から言うと、アワビです。それも、薄く剥いて打ち延ばした干物。
そして江戸時代の本は、この「のし」について、いまも決着していない言い争いを書き残していました。「熨斗」という字を書くのは間違いだ、と。
0. 江戸時代の本は、いまそのまま読める
国立国会図書館デジタルコレクションには、江戸時代の本が撮影されたままの画像で公開されています。著作権はとうに切れているので、誰でも、無料で、1ページずつ拡大して読めます。
ただ、開けばすぐ目当ての一行に届く、というわけにはいきません。江戸の本に索引はないからです。
そこで先に開くのが『古事類苑』。明治から大正にかけて編まれた、古典籍の巨大な引用集です。テーマごとに、あちこちの本の該当箇所をまとめて並べてくれています。
その動物部でアワビを探すと、介(貝)の巻のコマ860から865に、平安時代の法令集から江戸の名産誌まで、引用がずらりと集まっていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ864・著作権保護期間満了)
その筆頭に置かれていたのが、『日本山海名産図会』という本の「制長鮑」という項目でした。
全国の名産品を、作り方の絵つきで紹介した本です。序の末尾には寛政十年(1798年)の年記があります。
その巻之三を開くと、見開きいっぱいの図がありました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ8・著作権保護期間満了)
右手前では海に潜る海女たち、左では浜に座り込んだ人々がアワビを剥いています。奥には、筵に広げて干している場面。
ご祝儀袋の飾りが作られている現場、ということになります。
1. 「打栗のごとく打延し」——だから、のし
まず、名前の由来から。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ6・著作権保護期間満了)
「さて是をノシといふは昔ハ打鮑とて打栗のごとく打延し、裁截などせし故に、ノシといひ」。
これを「ノシ」というのは、昔は打鮑(うちあわび)といって、打栗のように打ち延ばし、裁ち切ったりしたからだ——。
打栗は、栗を搗いて干した保存食です。それと同じように、アワビを叩いて延ばす。
延ばすから、のし。
続けて「又干あはびとも云へり」とあります。干しアワビとも呼ばれた、と。
この時点では、まだ純粋に食べ物の名前です。
2. 「俗に熨斗の字をかくは誤なり」
ところが、同じ本のひとつ前のページに、こんな一文が置かれていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ5・著作権保護期間満了)
「◯制長鮑」——長鮑(のし)を作る、という見出しです。
そして、いきなりこう始まります。
「俗に熨斗の字をかくは誤なり、熨斗は女工の具、衣裳を熨し」。
世間で「熨斗」の字を書くのは誤りである。熨斗とは女の仕事道具で、衣裳の皺を——。
次の列に続きがあり、皺を伸ばす器、つまり火のし(いまのアイロンにあたる道具)のことだ、と説明されています。
言われてみれば、「熨斗」という字にアワビの要素はどこにもありません。熨も斗も、布の皺を伸ばす道具の字です。
アワビを打ち延ばしたものに、なぜ火のしの字を当てるのか。名産図会の著者は、それがどうにも我慢ならなかったようです。
3. 「熨斗のように皺を伸ばすから」——正反対の説明
ところが、この百年前に書かれた本は、まったく逆のことを言っています。
元禄十年(1697年)の食物本『本朝食鑑』。医師の人見必大が書いた、江戸時代の食の百科事典です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557334 コマ59・著作権保護期間満了)
見出しは「長鰒」、訓は「ノシ」。そして釈名——名前の説明——の欄に、堂々とこうあります。
「釋名 熨斗」。
さらに理由まで書いてあります。
「言ハ引テ鰒片ヲ令長シテ、則如熨斗ノ之舒皺ヲ、故ニ名ク」。
アワビの片を引いて長く伸ばすと、熨斗が皺を伸ばすのに似ている。だからそう名づけたのだ——。
名産図会は「熨斗の字は誤り」と言い、本朝食鑑は「熨斗に似ているから熨斗なのだ」と言う。
百年をはさんで、正面からぶつかっています。
面白いのは、『古事類苑』が引く室町幕府の記録『殿中申次記』で、同じ本の中の別の月の条に「熨斗鮑千本」と「伸鮑千本」の両方が出てくることです。
「熨斗」と「伸」。江戸よりずっと前から、字は揺れていました。
4. もともとは、飾りではなく食べ物だった
いま「のし」といえば紙の飾りです。しかし名産図会は、そこにも念を押しています。
「飾物にはあらずして、食類たることも知るべし」——これは飾り物ではなく、食べ物だったことも知っておくべきだ。
根拠として挙げられているのが、天智天皇の大嘗会に干鮑の御饌があったこと、そして「延喜式諸祭の神供にも悉く加へらる」——平安時代の法令集『延喜式』の、各種の祭の神への供え物にもことごとく加えられている、という事実です。
もっと具体的な記録もあります。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』の建久三年(1192年)十二月の条、相模国吉田荘の年貢の送り状に「例進長鮑千百五十帖」。
例年どおり、のしあわびを1150帖。年貢として納められる品物だったわけです。
5. 頼朝の夢に出てきた、六十六本の打鮑
食べ物としての「のし」が、いちばん劇的に出てくるのは『平治物語』です。
伊豆に流される前の源頼朝が、供の者に語った夢の話として書かれています。
八幡宮の宝殿から高貴な声がして、天童が何かを持ってくる。何だろうと見ると——
「打鮑ト云物也」。
打鮑でした。「數ヘテ御覽ゼシカバ、六十六本アリ」。数えてみると、六十六本ある。
供の盛安は、この夢をこう解きます。
「又打鮑六十六本參リシハ、六十六箇國ヲ打被召候ハンズルト合セ申テ候ツ」。
打鮑が六十六本あったのは、日本六十六か国を手に入れるという意味です——。
天下取りの吉夢の小道具に、のしあわびが使われている。それだけ身近で、それだけ縁起のいい食べ物だったということです。
6. 飾りになったのは、足利義満から
では、いつから飾りになったのか。名産図会は、そこも書いています。
「今壽賀の席に、手掛或はかざりのしなどとして用ゆることは、足利將軍義滿の下知として…行はせらるより起る事、三儀一統に見えたり」。
いま祝いの席で「かざりのし」として使うのは、足利義満の下知で武家の礼法が定められたことに始まる、と『三儀一統』という本に見える——。
室町時代に武家の作法として制度化され、そこから今日のご祝儀袋の飾りにつながっていく、という筋書きです。
食べ物が、儀礼の記号になった瞬間がここにあります。
7. 志摩の国崎から、伊勢神宮へ
そして、この話には産地があります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ7・著作権保護期間満了)
「毎年六月朔日、志州国崎村より両大神宮へ長鰒を献ず、故に其地をノシサキとも云へり」。
毎年六月一日、志摩国の国崎(くざき)村から、伊勢の内宮・外宮へ「のし」を献上する。だからその土地をノシサキとも呼ぶ——。
地名になるほど、この村と熨斗鮑は結びついていました。
『本朝食鑑』も同じ地域を挙げています。長鰒の作り方を詳しく述べたあと、「近世伊勢志摩多ク造テ以貢獻之」——近ごろは伊勢・志摩で多く作って献上している、と。
ちなみに、のしはアワビだけではありませんでした。同じページに「又今西国の方より烏賊のし、海老のし、或は生海鼠のしなど出せり」とあります。
イカののし、海老ののし、ナマコののし。西国からはそんなものも出ている、というのです。
薄く剥いて延ばして干す、という手法そのものが「のし」だったことが分かります。
8. 貝の内側と、片思いの歌
最後に、アワビそのものを見ておきます。
江戸の旗本で博物画家でもあった毛利梅園が、『梅園介譜』にアワビを描いています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園介譜』・NDL PID:1286918 コマ39・著作権保護期間満了)
殻を上下に二つ。上が内側、下が外側です。真珠層の虹色が、丁寧に塗り分けられています。
そして図の左に、梅園は歌を書き入れていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園介譜』・NDL PID:1286918 コマ39・著作権保護期間満了)
伊勢の海人が朝な夕なに潜って採るという、「アワビノ貝ノ片思ヒ」——万葉集の歌です。
同じ歌は『日本山海名産図会』にも引かれていて、そちらでは「あはびの貝のかた思ひにして」と読める形で書かれています。
アワビは二枚貝のように見えて、殻が片方しかない。だから片思いの比喩に使われました。
ちなみに名産図会は、名前の由来までその線で説明しています。「アハビ」というのは合わない貝、つまり「合はぬ実」の意味だろう、と。
9. のし袋の右上にあるもの
まとめます。
ご祝儀袋の「のし」は、アワビを薄く剥いて打ち延ばした干物でした。延ばすから「のし」。
それはもともと飾りではなく食べ物で、『延喜式』の神への供え物であり、年貢の品目であり、頼朝の吉夢の小道具でもありました。飾りになったのは室町時代からです。
そして「熨斗」という字については、江戸の本のあいだで意見が割れていました。『本朝食鑑』は「火のしのように皺を伸ばすから」と言い、『日本山海名産図会』は「その字を書くのは誤りだ」と言う。
いま私たちが何気なく書いている「熨斗」の二文字は、二百年以上前に一度、正面から異議を申し立てられた字だったわけです。
次にご祝儀袋を手に取ったら、右上の飾りを見てみてください。あの黄色い短冊は、志摩の海で採られ、打ち延ばされ、伊勢へ運ばれていったアワビの、いちばん最後の姿です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『日本山海名産図会 5巻』[3] / 『本朝食鑑』 / 『梅園介譜』 / 『古事類苑』動物部
💡 この記事でわかったこと
- 01
ご祝儀袋の「のし」は、もともとアワビです。
薄く剥いて打ち延ばし、干したもので、「打鮑(うちあわび)」「長鮑(のしあわび)」と呼ばれました。江戸時代の『日本山海名産図会』巻之三は、その名の由来を「さて是をノシといふは昔ハ打鮑とて打栗のごとく打延し、裁截などせし故に、ノシといひ」と説明しています。打栗のように打ち延ばしたから「のし」というわけです。いまのご祝儀袋についている黄色い短冊は、その名残にあたります。
- 02
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』は、火のしに似ているからだと説明しています。
「長鰒」の釈名の欄に「熨斗」と掲げ、「言ハ引テ鰒片ヲ令長シテ、則如熨斗ノ之舒皺ヲ、故ニ名ク」——アワビの片を引いて長く伸ばすと熨斗が皺を伸ばすのに似ているので、そう名づけたのだ、と書いています。ただし江戸後期の『日本山海名産図会』は正面から反対していて、「俗に熨斗の字をかくは誤なり」と述べ、熨斗とは衣裳の皺を伸ばす道具(火のし)のことにすぎない、としています。
- 03
志摩国の国崎(くざき)村が知られていました。
『日本山海名産図会』巻之三に「毎年六月朔日、志州国崎村より両大神宮へ長鰒を献ず、故に其地をノシサキとも云へり」とあり、毎年六月一日に伊勢の内宮・外宮へ献上していたこと、そこからその土地が「ノシサキ」とも呼ばれたことが記されています。『本朝食鑑』も長鰒の作り方を詳述したあとで「近世伊勢志摩多ク造テ以貢獻之」と、伊勢志摩が主産地であることを書いています。
- 04
のしあわびは、もとは飾りではなく食べ物でした。
『日本山海名産図会』は「飾物にはあらずして、食類たることも知るべし」と念を押し、天智天皇の大嘗会に干鮑の御饌があったこと、『延喜式』の諸祭の神供にもことごとく加えられていたことを挙げています。鎌倉時代の『吾妻鏡』には相模国吉田荘の年貢として「例進長鮑千百五十帖」とあり、年貢の品目でもありました。祝いの席の「かざりのし」として使われるようになったのは、足利義満の下知で武家の礼法が定められて以降だと同書は説明しています。
- 05
アワビが片思いの比喩に使われるのは、殻が片方しかないからです。
二枚貝と違って合わせる相手がいないため、万葉集の時代から片思いの歌に詠まれてきました。毛利梅園は『梅園介譜』のアワビの図に、伊勢の海人が朝な夕なに潜って採るという歌を書き入れ、「アワビノ貝ノ片思ヒ」と記しています。『日本山海名産図会』も同じ歌を引いたうえで、「アハビ」という名前自体が「合わない貝=合はぬ実」の意味だろうという説を述べています。
SAKANA 編集部
良輔 × Claude(Anthropic)
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