魚図鑑

「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり」——広島のカキは、江戸時代から養殖だった

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スーパーのカキのパックを裏返すと、産地に「広島県」と書いてあることがよくあります。

数字で見ると、その印象は正しいものでした。広島県のかき生産量は令和5年(2023年)で16,129トン(むき身)、全国の62.9%を占めて堂々の1位です(広島市農林水産振興センター/農林水産省統計に基づく)。

では、いつからそうなのか。

江戸時代の本を開くと、答えが書いてありました。しかも「広島産が多い」どころではありません。関西で食べるカキは、ほぼ全部が広島産だったというのです。

0. 江戸時代の本は、いまそのまま読める

国立国会図書館デジタルコレクションには、江戸時代の本が撮影されたままの画像で公開されています。著作権はとうに切れているので、誰でも、無料で、1ページずつ拡大して読めます。

ただ、開けばすぐ目当ての一行に届く、というわけにはいきません。江戸の本に索引はないからです。

そこで先に開くのが『古事類苑』。明治から大正にかけて編まれた、古典籍の巨大な引用集です。テーマごとに、あちこちの本の該当箇所をまとめて並べてくれています。

その動物部で牡蠣を探すと、介(貝)の巻のコマ866から867に引用が集まっていました。その中に、養殖のやり方を細かく書いた一点があります。

『日本山海名産図会』——全国の名産品を、作り方の絵つきで紹介した本です。序の末尾には寛政十年(1798年)の年記があります。

その巻之三は伊勢のアワビから始まり、丹後のブリ、讃岐の鰆と続いて、いちばん最後にこの見開きで終わります。

『日本山海名産図会』巻之三の見開き図。右上の題字は「廣島牡蠣畜養之法(ひろしまかきちくやうのほふ)」
干潟に竹の垣が林立し、人々が腰まで浸かってカキを掻き集めている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ29・著作権保護期間満了)

題字は「廣島牡蠣畜養之法」。広島のカキ養殖のやり方、という意味です。

竹が林のように立ち並ぶ干潟。腰まで水に浸かった人々が、長い柄の道具と籠で作業しています。沖には舟。

江戸時代の養殖場が、そのまま絵になっています。

1. 「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり」

図の前のページに、本文があります。

『日本山海名産図会』巻之三「牡蠣」の書き出しと翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)

見出しは「◯牡蠣 一名石花」。そして、いきなりこうです。

「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり、尤名品とす」

畿内——京・大坂を中心とする地域——で食べているものは、みな芸州広島の産である。もっとも上等とされる、と。

「多い」でも「有名」でもなく、。二百年前から、関西のカキは広島でした。

続きが、さらに踏み込んでいます。

「播州紀州泉州等に出すものは大にして自然生なり、味佳ならず」

播磨・紀伊・和泉などから出るものは大きいけれど天然物で、味はよくない——。

天然より養殖のほうが上、とはっきり書いてあります。しかも理由まで添えられています。

「広島に畜養て大坂に售る物、皆三年物なり」

広島で養殖して大坂で売るものは、みな三年もの。だから味に過不足の議論がない、と続きます。

大きさも育ちもばらばらな天然物に対して、三年で揃えて出荷する。品質が均一であることを、江戸の本はすでに価値として書いていました。

2. 「ひび」と「一口」——養殖のしくみ

では、どう育てていたのか。

『日本山海名産図会』巻之三、「ひび」の作り方を記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)

「潟の砂上に大竹を以て垣を結ひ列ぬること、凡一里許、号てひびと云」

干潮のとき、干潟の砂の上に大竹で垣を結んで並べる。その長さおよそ一里。これを「ひび」という——。

図に描かれていた、あの竹の林です。カキの幼生をこの竹に付着させる。いまも使われる「ひび建て」の原型です。

そして、数え方が独特でした。

「高一丈余、長一丁許を一口と定め、分限に任せて其数幾口も畜へり」

高さ一丈余り、長さ一丁ほどを「一口」と定め、身代(財力)に応じてその数をいくつでも仕込む——。

「一口」は、いまでいう区画の単位です。何口持っているかが、そのまま経営の規模になる。すでに産業として動いていたことが、この一語から分かります。

垣の形にも工夫がありました。「垣の形への字の如く作り、三尺余の隙を所々に明て」——「へ」の字型に組み、三尺余りの隙間をところどころ空けておく。

この隙間には理由があって、原文には、そこに集まってきた魚も捕る、と続きます。カキの垣が、そのまま漁具を兼ねていたわけです。

3. 備中鍬で掻き落とし、三年待つ

ひびは、立てたら終わりではありませんでした。

原文には、潮が来るたびに小さなカキや海苔が付いて残るので、二月から十月までの間は、備中鍬でときどきこれを掻き落とす、という趣旨の記述があります。

いまでいう「間引き」と「付着物の除去」です。放っておけば密集して育たない、というのは現代の養殖でも同じです。

そのうえで、竹垣で囲った築山のような場所の砂中に一尺ほど掘り埋め、三年育てて成熟とする、と書かれています。

ちなみに、同じページには「海苔は広島海苔とて賞し」という一節もあります。カキの副産物として海苔も採れた、と。広島の干潟が、いくつもの産物を同時に生んでいたことが分かります。

4. 大坂の浜に停まっていた、カキ船

育てたカキは、どうやって売られたのか。

『日本山海名産図会』巻之三、大坂での販売を記した2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)

原文はまず、船に積んで大坂の浜々に繋ぐと書きます。そして——

「艘の中に草津仁保浦より出る者十が七八にして、其畜養する事至て多し」

その数艘のうち、草津・仁保浦から出るものが十のうち七、八を占める。そこの養殖量はきわめて多い、と。

草津も仁保も、いまの広島市内の地名です。二百年前の主産地が、そのまま名指しされています。

そして、いちばん面白いのが次の一行です。

「大坂に泊ること、例歳十月より正月の末に至て帰帆す」

大坂に停泊するのは例年十月から正月の末まで。それから帰る——。

広島から船でカキを運び、大坂の川岸に船ごと繋いだまま、シーズンいっぱい売る。これがかき船です。

船は店舗であり、倉庫であり、宿でもありました。カキのシーズンが終わると、船は広島へ帰っていく。年に一度、季節とともに移動する商売です。

5. 「牡蠣田」と「蠣苗」——漢詩人が見た広島湾

この光景は、旅人の目にも強い印象を残したようです。

『古事類苑』は、幕末の漢詩人・梁川星巌の詩集『星巌乙集』から、広島湾を詠んだ一節を引いています。

『古事類苑』動物部二十 介下に引かれた〔星巌乙集 一〕の一節
「卽牡蠣田也」「一夜寒風長蠣苗」の語が見える。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ867・著作権保護期間満了)

「遍插刺竹、望之若水柵然、卽牡蠣田也」

一面に竹が挿してあり、遠くから見ると水の柵のようだ。これが牡蠣田である——。

牡蠣の田んぼ。海に立つ竹の林を、詩人は田と呼びました。

土地の人の話として、五、六月に種を下ろすと翌年の八、九月に苗が生じ、他州の産より肥えて美味い、とも書き添えられています。

そして詩の一句が、こうです。

「一夜寒風長蠣苗」——一夜の寒風が、蠣苗を育てる。

を下ろし、が生える。稲作の言葉がそのまま海に持ち込まれています。採るものではなく育てるものとして、カキが見られていたことが、この語彙から分かります。

6. 江戸の絵師が写したカキ

最後に、実物を見ておきます。

江戸の旗本で博物画家でもあった毛利梅園が、『梅園介譜』にカキを描いています。

『梅園介譜』1帖のカキの彩色図。殻付きの重なりと、剥き身が一緒に描かれている
年記は「甲午九月六日 葛飾某氏送之 真寫」。人から送られてきた現物を写している。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園介譜』・NDL PID:1286918 コマ36・著作権保護期間満了)

ごつごつと重なった殻の手前に、白くふくらんだ剥き身。カキの、あのかたちです。

見出しは「蛤蚌類 牡蠣(カキ)」。年記に「九月六日」とあり、送られてきた現物をその場で写したことが分かります。

『日本山海名産図会』が「九、十月から春三月までが味よし」という趣旨を書いているのと、季節が合っています。

7. 二百年前から、広島だった

まとめます。

広島のカキ養殖は、江戸時代にはすでに完成していました。

干潟に一里にわたって竹の「ひび」を並べ、「一口」という単位で区画を持ち、備中鍬で手入れをして、三年かけて育てる。船で大坂まで運び、十月から正月末まで川岸に繋いだまま売る。

そして江戸の本は、天然物より養殖物のほうが旨いと書き、漢詩人はその干潟を「牡蠣田」と呼びました。

いまスーパーで手に取る広島産のカキは、この二百年の続きにあります。パックの「三年もの」という表示を見かけたら、それは『日本山海名産図会』と同じ言葉です。

出典国立国会図書館デジタルコレクション『日本山海名産図会 5巻』[3] / 『古事類苑』動物部 / 『梅園介譜』 / 広島市農林水産振興センター「広島かきの生産量等」

💡 この記事でわかったこと

  1. 01

    広島のカキ養殖は、少なくとも江戸時代には産業として確立していました。

    寛政十年(1798年)の序をもつ『日本山海名産図会』巻之三は「廣島牡蠣畜養之法」と題した見開き図を載せ、干潟に竹を並べる「ひび」の作り方から出荷までを記録しています。同書は「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり、尤名品とす」と書いていて、当時すでに京・大坂で食べられていたカキはほぼ広島産だったことが分かります。

  2. 02

    「ひび」とは、干潟に立てた竹の垣のことです。

    『日本山海名産図会』は「潟の砂上に大竹を以て垣を結ひ列ぬること、凡一里許、号てひびと云」と記しています。この竹にカキの幼生を付着させて育てました。同書は「高一丈余、長一丁許を一口と定め、分限に任せて其数幾口も畜へり」とも書いていて、高さ一丈余・長さ一丁ほどを「一口」という単位で数え、財力に応じて口数を増やしていたことが分かります。

  3. 03

    カキを積んだ船を港に繋いだまま商売する、季節限定の店です。

    『日本山海名産図会』は、広島から船に積んで大坂の浜々に繋ぐこと、「大坂に泊ること、例歳十月より正月の末に至て帰帆す」——例年十月から正月の末まで停泊し、それから帰る——と記録しています。同書によれば、その船の十のうち七、八は草津・仁保浦(いずれも現在の広島市内)から出たものでした。

  4. 04

    江戸時代に高く評価されていたのは、天然ではなく養殖のカキでした。

    『日本山海名産図会』は、播州・紀州・泉州などから出るものについて「大にして自然生なり、味佳ならず」——大きいけれど天然物で味はよくない——と書いています。一方、広島の養殖ものは「皆三年物なり、故に其味過不及の論なし」。三年かけて育てるため品質が揃っていて、味について過不足の議論が起きない、という評価でした。

  5. 05

    江戸時代にも、カキを「種」から「苗」に育てるという考え方はありました。

    『古事類苑』が引く漢詩人・梁川星巌の『星巌乙集』は、広島湾の竹林を「卽牡蠣田也」——これが牡蠣田である——と表現し、土地の人の話として五、六月に種を下ろすと翌年の八、九月に苗が生じると記しています。詩の一句は「一夜寒風長蠣苗」。稲作と同じ「種」「苗」の言葉が、そのまま海の養殖に使われていました。

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SAKANA 編集部

良輔 × Claude(Anthropic)

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