広島のカキ養殖の歴史は江戸から——「畿内に食する物、皆芸州広島の産」
この記事の目次
寛政十年(1798年)の序をもつ『日本山海名産図会』は、牡蠣の項を「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり、尤名品とす」と書き出しています。京・大坂で食べるカキはみな広島産だというのですから、広島のカキ養殖の歴史は、寛政のころにはもう、本が関西の食卓を一手に引き受けていると書くところまで来ていたことになります。
いまも、スーパーのカキのパックを裏返すと産地に広島県とあることがよくあり、広島県のかき生産量は令和5年(2023年)で16,129トン(むき身)、全国の62.9%を占めて1位です(広島市農林水産振興センター/農林水産省統計に基づく)。名産図会は、竹を立てるところから大坂へ運ぶところまで、その養殖の手順も書き残していました。
『古事類苑』から「廣島牡蠣」へ
神宮司庁が編んだ古典籍の引用集『古事類苑』の動物部で牡蠣を探すと、「介下」の冊(明治43年刊)のコマ865から867に引用が集まっていて、その中に、養殖のやり方を細かく書いた一点がありました。全国の名産品を作り方の絵つきで紹介した『日本山海名産図会』で、巻之一の序の末尾には「寛政戊午臘月上浣」、寛政十年(1798年)の十二月上旬の年記があります(NDL PID:2575826 コマ5)。国立国会図書館で公開されているのはのちの時代に刷られた本で、書誌の刊年は「[18--]」です。
巻之三の目録は伊勢の鰒(アワビ)から始まって、丹後の鰤、讃州の鰆などと続き、最後の項目が「廣島牡蠣」です(コマ2〜3)。牡蠣の本文をめくると、この見開きが出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ29・著作権保護期間満了)
題字は「廣島牡蠣畜養之法」、広島のカキ養殖のやり方です。竹が林のように立ち並ぶ干潟で、水に入った人々が長い柄の道具や網、籠を手にしていて、沖には舟が出ています。
「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり」
本文は、図の前のページにあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
畿内に食する物、皆芸州広島の産なり、尤名品とす、播州紀州泉州等に出すものは大にして自然生なり、味佳ならず、又武州参州尾州にも出せり、広島に畜養て大坂に售る物、皆三年物なり、故
現代語訳
畿内で食べているものは、みな芸州広島の産である。もっとも上等とされる。播州・紀州・泉州などから出るものは大きいが天然物で、味はよくない。武州・参州・尾州からも出る。広島で養殖して大坂で売るものは、みな三年もの。だから味に過不足の議論がない。
見出しは「◯牡蠣 一名石花」で、そこからいきなり、畿内、つまり京・大坂を中心とする地域で食べているものはみな芸州広島の産で、もっとも上等とされる、と始まります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)
多いでも有名でもなく、皆です。ただ、いつもそうだったわけではなさそうで、それより百年ほど前、元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』巻十は、牡蠣の産地を「以参州苅屋江上者爲上品」、三河の苅屋の入り江のものを上品とすると書き、尾勢(尾張・伊勢)がこれに次ぎ、江東・房総が最も多いとしていて(NDL PID:2557334 コマ60)、この段に広島の名は出てきません。名産図会のほうは三河を「又武州参州尾州にも出せり」の一行で済ませていますから、百年のあいだに、本の中でのカキの主役が入れ替わっているように見えます。
名産図会はさらに踏み込んで、「播州紀州泉州等に出すものは大にして自然生なり、味佳ならず」、播磨・紀伊・和泉などから出るものは大きいけれど天然物で、味はよくないと書き、広島のものについては「広島に畜養て大坂に售る物、皆三年物なり」、広島で養殖して大坂で売るものはみな三年もので、だから味に過不足の議論がない、と続けています。大きさも育ちもばらばらな天然物より、三年で揃えて出す養殖物を評価しているわけで、その三年がどこで数えられていたのかは、少し先を読むと分かってきます。
竹の「ひび」と、区画の「一口」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
の時、潟の砂上に大竹を以て垣を結ひ列ぬること、凡一里許、号てひびと云、高一丈余、長一丁許を一口と定め、分限に任せて其数幾口も畜へり、垣の形への字の如く作り、三尺余の隙を所々に明て
現代語訳
干潮のとき、干潟の砂の上に大竹で垣を結んで並べる。長さおよそ一里ほど。これを「ひび」という。高さ一丈余り、長さ一丁ほどを「一口」と定め、身代に応じてその数をいくつでも仕込む。垣の形は「へ」の字のように作り、三尺余りの隙間をところどころ空けておく。
養殖場は城下から一里、あるいは三里も沖に及ぶといい、干潮のときに「潟の砂上に大竹を以て垣を結ひ列ぬること、凡一里許、号てひびと云」、干潟の砂の上に大竹で垣を結んでおよそ一里並べ、これを「ひび」と呼んだ、とあります。図に描かれていた、あの竹の垣です。
数え方も独特で、「高一丈余、長一丁許を一口と定め、分限に任せて其数幾口も畜へり」、高さ一丈余り、長さ一丁ほどを「一口」と定め、身代(財力)に応じていくつでも仕込むというのですから、一口は区画の単位で、口数がそのまま商いの規模になっていたように読めます。垣も「垣の形への字の如く作り、三尺余の隙を所々に明て」、への字型に組んで三尺余りの隙間をところどころ空けておき、原文はその隙間に集まってきた魚を捕ると続くので、カキの垣が漁の仕掛けも兼ねていたように見えます。
備中鍬で掻き落として、囲いの中で三年
ひびは立てたら終わりではなく、潮が来るたびに小さなカキや海苔が付いて残り、それを二月から十月までの間、ときどき備中鍬(びっちゅうぐわ)で掻き落とす、と原文は書いています。掻き落とすと聞くと、竹に付いたよけいな物を落とす手入れのように読めますが、次の一文は「又」で始まり、もうひとつ別の場所が出てきます。五間か十間四方ほど、高さ一丈ほどの、同じく竹垣で囲った「籞(いけす)の如き物」で、その中の砂に一尺ほど掘って埋め、「畜ふこと三年にして成熟とす」と結ばれます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)
二つの文をつなげて読むと、掻き落としたのはひびに付いた小さなカキそのもので、それを囲いに移して埋め、三年かけて育てた、という手順に見えます。竹のひびは小さなカキを付けるための場所で、大きくするのは別の囲いですから、さきの「皆三年物なり」の三年も、この囲いの中の三年のように読めます。同じページには、海苔は「廣島海苔」と呼ばれて賞されるという一文もあり、ひびにはカキと一緒に海苔も付くので、干潟からはカキと海苔の両方がとれていたようです。
大坂の浜に繋がれた広島の船
養殖する所としては「草津」「爾保浦」、それに「たんな」「ゑは」「ひうな」「おふこ」と仮名で書かれた地名が並び、五、六か所だとあって、そこからカキを船に積んで大坂の浜々に繋ぐのだそうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』[3]・NDL PID:2575828 コマ28・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
艘の中に草津爾浦より出る者十が七八にして、其畜養する事至て多し、大坂に泊ること、例歳十月より正月の末に至て帰帆す
現代語訳
(大坂の浜々に繋ぐ)数艘のうち、「草津爾浦」から出るものが十のうち七、八を占め、その養殖する量はきわめて多い。大坂に停泊するのは例年十月から正月の末までで、それから帰帆する。
「艘の中に草津爾浦より出る者十が七八にして、其畜養する事至て多し」。その数艘のうち、「草津爾浦」から出るものが十のうち七、八を占め、そこの養殖量はきわめて多い、というのですが、二列前では「草津、爾保浦」と書いていたのに、ここは「爾浦」で「保」の字がありません。明治の『古事類苑』もこの箇所は「爾浦」のまま活字にしていて、草津と爾保浦を縮めて書いたのか、別の浦を指すのかは、この本だけでは決められません。
次の一行が「大坂に泊ること、例歳十月より正月の末に至て帰帆す」で、大坂に停泊するのは例年十月から正月の末まで、それから帰るとありますから、秋から正月明けまで、広島の船が大坂の浜に繋がれていたことになります。本が書いているのはここまでで、船の上でどう売ったのかまでは書かれていません。
漢詩人が見た「牡蠣田」と「蠣苗」
広島の干潟の竹の列は、詩人の目にも留まっていて、『古事類苑』は名産図会のすぐ後に、漢詩人・梁川星巌(1789〜1858)の詩集『星巌乙集』巻一から一節を引いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』第49冊・NDL PID:1874269 コマ867・著作権保護期間満了)
書き出しは、広島の城の南の一帯がみな塩気のある土地だという話で、そこに「遍插刺竹、望之若水柵然、卽牡蠣田也」、一面に竹が挿してあって遠くから見ると水の柵のようで、これが牡蠣田だ、と続きます。海に立つ竹の列を、詩人は田と呼んだのです。
土地の人の話として、五、六月に種を下ろすと翌年の八、九月に苗が生じ、他州の産より肥えて美味いとも書き添えられていて、詩の結びは「一夜寒風長蠣苗」、一夜の寒風が蠣苗を育てる、という一句です。種を下ろし苗が生えるという稲作の言葉がそのまま海に持ち込まれていて、カキが採るものではなく育てるものとして見られていたことがうかがえます。
梅園が写したカキと、冬春の味
毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生図譜『梅園介譜』には、葛飾の某氏が獲って送ってくれたというカキが描かれています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園介譜』・NDL PID:1286918 コマ36・著作権保護期間満了)
ごつごつと重なった殻の手前に、殻を開いた白い身があり、右ページの上には「蛤蚌類」とあります。名前の「牡蠣」には「本草綱目曰」と添えてあって、中国の本草書『本草綱目』から引いた名だと分かり、振り仮名は「ボレイ」、和名は「加幾(かき)」と書かれています。
図の脇の書き入れは季節にもふれていて、「冬春味美ナル故取商フ」、冬と春は味がよいので採って商い、「初夏ヨリ後秋ニ至ル迄不食」、初夏から秋の終わりまでは食べないとあり、『本朝食鑑』巻十も「自九十月至春三月味美」、九、十月から春三月までが美味いと書いています(NDL PID:2557334 コマ60)。広島の船が大坂の浜に繋がれていた十月から正月の末は、ちょうどこの季節に入っていました。
干潟に一里にわたって竹のひびを並べ、一口という単位で区画を持ち、ひびに付いた小さなカキを備中鍬で掻き落として竹垣の囲いの砂に埋め、三年育ててから船で大坂へ運び、十月から正月の末まで浜に繋ぐ。江戸の本は、そうして届いた畿内のカキを「皆芸州広島の産」と書き、漢詩人はその干潟を「牡蠣田」と呼びました。スーパーで手に取る広島産のカキのパックの向こうには、二百年あまり前の干潟が続いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『日本山海名産図会 5巻』[3] / 同 [1](序) / 『古事類苑』第49冊(動物部) / 『本朝食鑑』[3](巻十) / 『梅園介譜』 / 広島市農林水産振興センター「広島かきの生産量等」
この記事でわかったこと
広島のカキ養殖は、少なくとも江戸時代には産業として成り立っていました。
寛政十年(1798年)の序をもつ『日本山海名産図会』巻之三は「廣島牡蠣畜養之法」と題した見開き図を載せ、干潟に竹を並べる「ひび」の作り方から大坂への出荷までを記録しています。同書は「畿内に食する物、皆芸州広島の産なり、尤名品とす」と書いていて、当時すでに京・大坂で食べられていたカキはほぼ広島産だったことが分かります。
「ひび」とは、干潟に立てた竹の垣のことです。
『日本山海名産図会』は「潟の砂上に大竹を以て垣を結ひ列ぬること、凡一里許、号てひびと云」と記しています。潮が来るたびにこの竹に小さなカキが付き、それを備中鍬で掻き落として、竹垣で囲った籞(いけす)のような場所の砂に埋め、三年育てたと読めます。同書は「高一丈余、長一丁許を一口と定め、分限に任せて其数幾口も畜へり」とも書いていて、ひびを「一口」という単位で数え、財力に応じて口数を増やしていました。
『日本山海名産図会』によると、広島のカキは船に積んで大坂の浜々に繋ぎ、「大坂に泊ること、例歳十月より正月の末に至て帰帆す」——例年十月から正月の末まで停泊し、それから帰る——というものでした。
その数艘のうち十の七、八は「草津爾浦」から出た船だと書かれています。船の上でどのように売ったのかまでは、同書には書かれていません。
『日本山海名産図会』が高く評価しているのは、天然ではなく養殖のカキです。
播州・紀州・泉州などから出るものについて「大にして自然生なり、味佳ならず」——大きいけれど天然物で味はよくない——と書き、広島の養殖ものは「皆三年物なり、故に其味過不及の論なし」、三年かけて育てるので味について過不足の議論が起きない、としています。
ありました。
『古事類苑』が引く梁川星巌の詩集『星巌乙集』は、広島の干潟の竹の列を「卽牡蠣田也」——これが牡蠣田である——と表現し、土地の人の話として五、六月に種を下ろすと翌年の八、九月に苗が生じると記しています。詩の一句は「一夜寒風長蠣苗」。稲作と同じ「種」「苗」の言葉が、そのまま海の養殖に使われていました。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 日本山海名産圖會 5巻.[1]
法橋關月 画 [18--]
- 日本山海名産圖會 5巻.[3]
法橋關月 画 [18--]
- 本朝食鑑 12巻.[3]
丹岳野必大千里 著 [江戸時代]
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 梅園介譜
〔毛利梅園//画〕
ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。



