「百姓の業、田作はせず、唯鯡をとりて」——松前で、ニシンは魚ではなく年貢だった
ニシンそば、身欠きニシン、おせちの数の子。いま私たちがニシンに持っているイメージは、だいたい「食べもの」です。
ところが江戸の記録を読むと、この魚はまず年貢でした。
0. 『古事類苑』で見つけた、聞いたことのない本
国立国会図書館デジタルコレクションには、江戸時代の本が撮影されたままの画像で公開されています。著作権はとうに切れているので、誰でも、無料で、1ページずつ拡大して読めます。
ただ、江戸の本に索引はありません。そこで先に開くのが『古事類苑』。明治から大正にかけて編まれた、古典籍の巨大な引用集です。テーマごとに、あちこちの本の該当箇所をまとめて並べてくれています。
その動物部十七でニシンを探すと、コマ736から737の2ページに、『本朝食鑑』『重修本草綱目啓蒙』『大和本草』『物類称呼』『魚鑑』が並んでいました。ここまでは、いつもの顔ぶれです。
そのいちばん最後に、見たことのない書名が一つ混じっていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
『蝦夷行記(えぞこうき)』。松前——いまの北海道南部——の様子を書き留めた記録です。
この一段が、ニシンという魚の立ち位置を、数行で言い切っていました。
1. 「百姓の業、田作はせず」

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
「百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて」。
百姓の仕事は、田を作らない。ただニシンをとる——。
そのあとが本題です。
「十五の一を以て運上とし、餘分を以て衣食とす」。
とれたニシンの十五分の一を運上(うんじょう)として納め、残りで衣食をまかなう。運上とは、いまでいえば税です。
そして、こう締めくくられます。
「是松前中の收納物也」——これが松前一帯の収納物である。
収納物、つまり年貢。米ではなく、魚で納めていたことになります。
2. 漁は二十日。「誠に田作の秋と異なる事なし」
では、その年貢はどうやって集められたのか。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
「獵時分は武家をはじめ、松前中の者老幼男女上下一同、此業にかゝる事」。
漁の時期は、武家をはじめ、松前じゅうの者が、老いも若きも、男も女も、身分の上下もなく、全員でこの仕事にかかる。
そして次の一句です。
「誠に田作の秋と異なる事なし」。
まことに、稲刈りの秋と異なるところがない——。
田がない土地で、ニシン漁が「秋の稲刈り」に喩えられている。米の代わりだ、と言っているのと同じです。
期間は短く、「春分より初り凡二十日ほどに取仕廻て」。春分から始まって、二十日ほどで終わる。
その二十日で、翌年までの暮らしが決まりました。「獵を得れば翌年迄の渡世ゆたかに濟なり」。
3. 干したニシンは、近江の田を肥やした
とれたニシンは、松前の中だけで終わりません。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
「此干鯡をこやしに用ゆる國々は、南部津輕出羽北國近江へかけて是を用ひ」。
干したニシンを肥やしに使う国々は、南部・津軽・出羽から北国、そして近江にまで及ぶ——。
近江は琵琶湖のほとり、いまの滋賀県です。北海道の魚が、そこまで運ばれて畑や田に入っていた。
運んだのは船でした。同じ記述の少しあとに、こう書いてあります。「鯡數の子それぐゝに干あげ俵物とし、小船に積で江刺へ廻す、此時江指へは北國船いりこみ、鯡數の子の相場を立て買取、其國々へ積廻す」。
干し上げて俵物(たわらもの)にし、小舟で江差(えさし)へ回す。江差には北国船が入り込んで、相場を立てて買い取り、それぞれの国へ積んで回す——。
魚の年貢が、俵に詰められて、本州の田畑の肥料になっていく。ニシンは食べものである前に、米をつくるための資材でもあったわけです。
4. 江戸の人は、ニシンを「二親魚」と書いた
ここで、この魚の姿を見ておきます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
江戸の博物家・毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生です。左上に橙色の袋が浮いていますが、これは後で出てきます。
注目したいのは、図の右肩に立てた見出しです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
「青魚」と書いて「カド」、「二親魚」と書いて「ニシン」。
ニシンに「二親魚」の字を当てています。二親、つまり父と母です。
なぜその字なのか。元禄十年(1697年)の食物百科『本朝食鑑』が、理由を推しています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
「二親者父母也、凡人之多子者依于父母」——二親とは父母のことである。人の子が多いのは、父母によるものだ。
「故鰊之數子其多非他魚所能及、是以名乎」——だからニシンの数の子の多さは、ほかの魚の及ぶところではない。それでこの名がついたのだろうか。
卵の多さから、父母の魚。字の当て方に、そういう説明がついていました。
5. 「かずのこ」は、もともと「かどの子」だった
さきほどの図の、左上の橙色の袋にもどります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
「此青魚ノ腹中ニ孕ム者、青魚ノ之鯑」。
この青魚(カド)の腹に孕んでいたもの。カドの鯑(こ)である——。
ニシンの別名がカドで、その卵だからカドの子。
ここで『本朝食鑑』にもどります。人見必大は、この呼び名について妙なことを書いていました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
「加登乃古、加豆乃古、同一物也」——カドノコとカズノコは、同じものである。
そして、こう続けます。
「以登豆二訓相通、而誤以鰊子爲數子歟」。
「ト」と「ヅ」の二つの訓が通じてしまうので、誤ってカドの子(鰊子)を「数の子」としたのだろうか——。
つまり必大の見立てでは、「かずのこ」は「かどのこ」の言い間違いだということになります。
もっとも彼自身、断定はしていません。「暫從世稱用數子字爾」——しばらくは世間の呼び方に従って「数子」の字を使っておく、と書いて先へ進んでいます。
百年ほどのちの『重訂本草綱目啓蒙』も、数の子について「カドノコの転語だともいう」という趣旨の説明を載せています。同じ理解が、江戸を通じて受け継がれていたことになります。
6. 昔は、卵だけ食べて身は食べなかった
もうひとつ、『本朝食鑑』に短い一行があります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
「自古多用數子、而不知食鰊、近來略爲貴人之食也」。
昔から数の子ばかりが使われて、ニシンそのものを食べることは知られていなかった。近ごろになって、ようやく身分の高い人の食べものになった——。
元禄の時点で、ニシンの身はまだ「新しい食べもの」だったわけです。
江戸後期の『重訂本草綱目啓蒙』になると、背の肉だけを干したものを「みがきにしん」と呼ぶこと、まるごと干したものは京都まで来ないが背肉を干したものは多く来ること、が書かれています。身欠きニシンという名は、そのまま「身を欠いた」姿を指していました。
7. 魚であり、税であり、肥料であり、祝いの品だった
『蝦夷行記』の数行を並べ直すと、ニシンの江戸での姿がそのまま出てきます。
- 松前の百姓は田を作らず、ニシンをとる。十五分の一が年貢になる
- 漁は春分から二十日。全員総出で、それは「田作の秋」と変わらない
- 干したものは肥料になって、南部から近江までの田畑に入る
- 卵は「天下一同に用ひて、すくなしとせず」——正月の祝いの品として、全国で使われる
食べるための魚、というより、米のかわりに回っていたものという感じがします。
そしてその卵は、「かどの子」から「かずのこ」へ、名前を少しずらしたまま、いまも正月の重箱に入っています。
この記事で使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『古事類苑』動物部十七 魚中(NDL PID:1874269) | コマ737=所引『蝦夷行記』(年貢・漁期・肥料・俵物と江差) | 著作権保護期間満了 |
『本朝食鑑』巻八(人見必大・1697年/NDL PID:2557333) | コマ179=「鰊」の見出しと釈名/コマ180=二親魚の由来、カドノコとカズノコ、身を食べなかったこと | 著作権保護期間満了 |
『梅園魚譜』1帖(毛利梅園/NDL PID:1286914) | コマ56=ニシンと卵巣の彩色図、見出し「青魚(カド)/二親魚(ニシン)」、卵巣の書き入れ | 著作権保護期間満了 |
『重訂本草綱目啓蒙』(小野蘭山/NDL PID:2555647) | コマ8=みがきにしんと、数の子=カドノコの転語という説 | 著作権保護期間満了 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『古事類苑』動物部 / 『本朝食鑑』 / 『梅園魚譜』1帖 / 『重訂本草綱目啓蒙』
💡 この記事でわかったこと
- 01
『古事類苑』動物部十七に引かれた『蝦夷行記』に、そう読める記述があります。
「百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて、十五の一を以て運上とし、餘分を以て衣食とす、是松前中の收納物也」——松前の百姓は田を作らず、ニシンをとってその十五分の一を運上(税)として納め、残りで衣食をまかなう。これが松前一帯の収納物である、と書かれています。同じ記述は漁の時期についても「誠に田作の秋と異なる事なし」——まことに稲刈りの秋と変わらない——と述べています。
- 02
江戸時代の文献は、ニシンの別名「カド」の子、つまり「カドノコ」が転じたものと説明しています。
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻八は「加登乃古、加豆乃古、同一物也、以登豆二訓相通、而誤以鰊子爲數子歟」——カドノコとカズノコは同じもので、「ト」と「ヅ」の訓が通じるため、誤ってカドの子を「数の子」としたのだろうか——と書いています。ただし著者の人見必大自身が断定を避け、「暫從世稱用數子字爾」(しばらく世間の呼び方に従って「数子」の字を使っておく)と続けています。
- 03
『梅園魚譜』(毛利梅園)のニシンの図には、見出しに「青魚(カド) 二親魚(ニシン)」とあり、「二親魚」に「ニシン」のルビが振られています。
『本朝食鑑』巻八はその由来を「二親者父母也、凡人之多子者依于父母、故鰊之數子其多非他魚所能及、是以名乎」と推しています。二親とは父母のことで、人の子が多いのは父母によるのだから、ニシンの数の子の多さはほかの魚の及ぶところではない、それでこの名がついたのだろうか、という説明です。
- 04
『蝦夷行記』に「此干鯡をこやしに用ゆる國々は、南部津輕出羽北國近江へかけて是を用ひ」とあります。
干したニシンを肥やしに使う国々は、南部・津軽・出羽から北国、近江にまで及ぶ、という記述です。同じ箇所には、ニシンと数の子を干し上げて俵物とし、小舟で江差へ回すと、そこへ北国船が入り込んで相場を立てて買い取り、それぞれの国へ積んで回した、とも書かれています。
- 05
背の肉だけを取って干した姿から来ています。
江戸後期の『重訂本草綱目啓蒙』は、津軽では生のものをニシンといい、背の肉だけを干したものを「みがきにしん」と呼ぶこと、まるごと干したものは京都まで来ないが、背肉を干したものは多く来ることを記しています。まるごとの姿から身を欠いた形、というのがこの名の由来にあたります。
SAKANA 編集部
良輔 × Claude(Anthropic)
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