松前でニシンは年貢だった——「百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて」
この記事の目次
松前の百姓は田を作らず、とれたニシンの十五分の一を運上として納め、残りで衣食をまかなっていた。江戸の記録『蝦夷行記』は、松前のニシンが年貢のように納められていたことを、こんな数行で書き留めています。ニシンそばや身欠きニシン、おせちの数の子と、いまのニシンはだいたい食べものとして思い浮かぶ魚ですが、江戸の松前では、税であり暮らしの元手であり、遠く近江まで運ばれる肥やしの原料でもありました。まずは、江戸の絵師が描いたニシンから。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚譜』・NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
『古事類苑』のニシンの項の、最後の一冊
この話の入り口は、神宮司庁が編んだ古典籍の巨大な引用集『古事類苑』でした(動物部のこの冊は明治43年刊)。テーマごとにあちこちの本の該当箇所を並べた本で、動物部十七でニシンを引くと、おもにコマ736から737の見開き2つに『和漢三才図会』『物類称呼』『本朝食鑑』『重修本草綱目啓蒙』『魚鑑』などが並んでいます。ここまではいつもの顔ぶれですが、項のいちばん最後に、見たことのない書名が一つありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
それが『蝦夷行記』で、引かれているのは松前、いまの北海道南部の暮らしを書き留めた一段です。数行のなかに、ニシンという魚の立ち位置が言い切られていました。
「百姓の業田作はせず」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
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〔蝦夷行記〕商賣は皆旅人にして、百姓と稱する者は皆國人なり、百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて、十五の一を以て運上とし、餘分を以て衣食とす、是松前中の收納物也、此鯡獵誠に天下一の大
現代語訳
商売をしているのは皆よそから来た旅人で、百姓と称する者は皆この土地の人である。百姓の仕事は田を作らない。ただニシンをとって、その十五分の一を運上(税)として納め、残りで衣食をまかなう。これが松前一帯の収納物である。このニシン漁は、まことに天下一の大漁だろう。
「百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて」、百姓の仕事は田を作ることではなく、ただニシンをとることだ、と始まり、本題はそのあとに来ます。
「十五の一を以て運上とし、餘分を以て衣食とす」。とれたニシンの十五分の一を運上(うんじょう)、いまでいえば税として納め、残りで衣食をまかなう。そして「是松前中の收納物也」、これが松前一帯の収納物である、と締めくくられます。
ここに「年貢」という言葉は出てこず、書かれているのは「運上」と「収納物」です。それでも、米をつくる村なら年貢として納めるのも一年の暮らしを支えるのも米であるところを、松前ではその両方をニシンが担っていたことは、この数行から十分に読み取れます。
漁は二十日、「誠に田作の秋と異なる事なし」
漁の様子も、同じ一段に書いてあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
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て、獵を得れば翌年迄の渡世ゆたかに濟なり、獵時分は武家をはじめ、松前中の者老幼男女上下一同、此業にかゝる事、誠に田作の秋と異なる事なし、春分より初り凡二十日ほどに取仕廻て、鯡
現代語訳
漁が得られれば翌年までの暮らしが豊かにまかなえる。漁の時期は、武家をはじめ松前じゅうの者が、老いも若きも男も女も身分の上下もなく、全員でこの仕事にかかる。まことに稲刈りの秋と異なるところがない。春分から始めて、およそ二十日ほどで取り仕舞う。
「獵時分は武家をはじめ、松前中の者老幼男女上下一同、此業にかゝる事」。漁の時期には、武家をはじめ松前じゅうの者が、老いも若きも、男も女も、身分の上下もなく全員でこの仕事にかかる、というのです。続く一句が「誠に田作の秋と異なる事なし」で、田を作らない土地のニシン漁が、よその土地の稲の取り入れに喩えられています。
期間は短く、「春分より初り凡二十日ほどに取仕廻て」、春分から始まって二十日ほどで終わり、その二十日で翌年までの暮らしが決まりました。「獵を得れば翌年迄の渡世ゆたかに濟なり」とあるとおり、漁がよければ翌年まで豊かに暮らせたのです。
干したニシンは、近江まで肥やしになった
とれたニシンは、松前の中だけで使われたわけではありません。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
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獵成べし、さればこそ此干鯡をこやしに用ゆる國々は、南部津輕出羽北國近江へかけて是を用ひ、かずの子は天下一同に用ひて、すくなしとせず、此魚年來敢而不獵と云事なく、其とる時分に
現代語訳
だからこそ、この干しニシンを肥やしに使う国々は、南部・津軽・出羽から北国、近江にまで及んでこれを用いている。数の子は天下じゅうで用いられ、少ないということがない。この魚は年来、獲れないということがまったくなく、その獲れる時期には——
「此干鯡をこやしに用ゆる國々は、南部津輕出羽北國近江へかけて是を用ひ」。干したニシンを肥やしに使う国々は、南部・津軽・出羽から北国、そして琵琶湖のほとり、いまの滋賀県の近江にまで及んでいて、北の海の魚がそこまで運ばれていたことになります。
運んだのは船で、同じ記述の少しあとに「鯡數の子それ〴〵に干あげ俵物とし、小船に積で江刺へ廻す、此時江指へは北國船いりこみ、鯡數の子の相場を立て買取、其國々へ積廻す」とあります。干し上げて俵物(たわらもの)にし、小舟で江差(えさし)へ回すと、江差には北国船が入り込んでいて、相場を立てて買い取り、それぞれの国へ積んで回す。松前のニシンは俵に詰められて船で本州へ渡り、田畑の肥やしとして使われていきました。
「二親魚」という字
ここで、冒頭の絵をもう一度見ておきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
江戸の博物家・毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生で、左上に浮いている橙色の袋は後で出てきます。いま目を留めたいのは、図の右肩に立てた見出しのほうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
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青魚(カド) 二親魚(ニシン) 本草綱目 青魚
現代語訳
「青魚」と書いて「カド」、「二親魚」と書いて「ニシン」。『本草綱目』では青魚という——梅園が図の右肩に立てた見出し。
「青魚」と書いて「カド」、「二親魚」と書いて「ニシン」。ニシンに当てた「二親魚」の二親は、父と母のことです。なぜその字なのかを、元禄十年(1697年)の食物百科『本朝食鑑』が推しています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
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借用歟、二親者父母也、凡人之故鰊之數子其多非他魚所能
現代語訳
(この魚は東の海にだけ出て、ほかの国ではあまり見かけないので、「東」を含む字を)借りて用いたのだろうか。二親とは父母のことである。おおよそ人の子が多いのは父母によるのだから、ニシンの数の子の多さはほかの魚の及ぶところではない。それでこの名がついたのだろうか。
「二親者父母也、凡人之多子者依于父母」、二親とは父母のことで、人の子が多いのは父母によるものだ。「故鰊之數子其多非他魚所能及、是以名乎」、だからニシンの数の子の多さはほかの魚の及ぶところではなく、それでこの名がついたのだろうか、と続きます。卵の多さから父母の魚、という説明が、字の当て方についていました。
「かずのこ」は「かどの子」だったのか
梅園の図の、左上の橙色の袋にもどります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1286914 コマ56・著作権保護期間満了)
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此青魚ノ腹中ニ孕者、青魚(カド)ノ之鯑(コ)
現代語訳
この青魚の腹の中に孕んでいたものは、青魚(カド)の鯑(こ)である。
「此青魚ノ腹中ニ孕者、青魚ノ之鯑」。この青魚の腹に孕んでいたものはカドの鯑(こ)である、という書き入れで、二つめの「青魚」には「カド」と振り仮名があります。カドの卵だから、カドの子です。
いまの私たちにとってこの魚の名前はニシンなので、「カドはニシンの別名」と書きたくなるところですが、元禄の『本朝食鑑』で「鰊」の項の書き出しを見ると、順番が逆になっています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ179・著作権保護期間満了)
見出しの字は「鰊」で、その下の小さな二行(割注)のうち、右の「德紅切」は字の音の注記、左の「訓加登」が日本での読み方です。「加登」は漢字の音を借りて仮名のかわりにした書き方で「カド」と読むので、この本は「鰊」をまずカドと読ませていることになります。ニシンの名は、隣の列の「釋名(しゃくみょう)」、つまりほかの呼び名を並べる欄に、「二親魚」の字で出てくるだけです。
同じ並びは、『古事類苑』の見開きで『蝦夷行記』のすぐ右に引かれていた『採藥使記』にもあり、重康という人の話として書かれています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部十七・NDL PID:1874269 コマ737・著作権保護期間満了)
「蝦夷松前ノ海ニカドト云フ魚アリ、一名ハニシントモ云フ」。名前はカドで、ニシンは「一名」の扱いです。梅園の見出しも「青魚(カド)」が先で「二親魚(ニシン)」があとでしたから、卵が「カドの子」と呼ばれていたのは、ごく自然なことに見えてきます。その『本朝食鑑』は、卵の呼び名について、さらに妙なことを書いていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
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(鰊鯑ハ)卽數子也、鯑字未詳、加登乃古、加豆乃古、同一物也、以登豆二訓相通、而誤以鰊子爲數子歟、暫從世稱用數子字爾
現代語訳
「鰊鯑」とはすなわち数子(かずのこ)のことである。「鯑」の字の出どころは分からない。カドノコとカズノコは同じものだ。「ト」と「ヅ」の二つの訓が通じるので、誤ってカドの子(鰊子)をカズノコとしたのだろうか。しばらくは世間の呼び方に従って「数子」の字を用いておく。
「加登乃古、加豆乃古、同一物也」、カドノコとカズノコは同じものだ、と言ったうえで、「以登豆二訓相通、而誤以鰊子爲數子歟」、「ト」と「ヅ」の二つの訓が通じてしまうので、誤ってカドの子(鰊子)を「数の子」としたのだろうか、と続けます。必大の見立てでは、「かずのこ」は「かどのこ」の言い間違いだということになりますが、彼自身は断定していません。「暫從世稱用數子字爾」、しばらくは世間の呼び方に従って「数子」の字を使っておく、と書いて先へ進んでいます。
百五十年ほどのち、弘化四年(1847年)刊の『重訂本草綱目啓蒙』も、数の子について「又カドノコノ轉語ナリトモ云」と書いていますが(出典:同書・NDL PID:2555647 コマ8)、こちらも「〜ともいう」で、一説としての扱いです。
卵だけ食べて、身は食べなかった
『本朝食鑑』には、もうひとつ短い一行があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
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自古多用數子、而不知食鰊(カド)、近來略爲貴人之食
現代語訳
昔から数の子ばかりを多く用いて、鰊(カド)そのものを食べることは知らなかった。近ごろは、ほぼ身分の高い人の食べものとなっている。
「自古多用數子、而不知食鰊、近來略爲貴人之食也」。昔から数の子ばかりが多く使われて、身そのものを食べることは知られていなかったが、近ごろはほぼ身分の高い人の食べものになっている、という意味で、この一行の「鰊」にも、右に小さく「カドヲ」と振り仮名があります。本文の中でも、この魚はカドと読まれていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ180・著作権保護期間満了)
元禄の時点では、身を食べるのはまだ新しいことだったようです。百五十年後の『重訂本草綱目啓蒙』になると、呼び名がさらに細かく書き分けられていて、南部の方言ではこの魚をカドといい、背の肉だけを干したものをニシンといい、津軽では生のものをニシンという、とあります。同じ「ニシン」が、土地によって干物の名だったり、生の魚の名だったりしたわけです。
さらに「脊肉ノミ乾タルヲミガキニシント云、全ク乾タルモノハ京師ニ來ラズ、脊肉ノ乾タルモノハ多ク來ル」と、背の肉だけを干したものをミガキニシンといい、丸ごと干したものは京都には来ないが背の肉を干したものは多く来る、と書いています(出典:同書・NDL PID:2555647 コマ8)。いま「身欠きニシン」と書くこの干物を、啓蒙は片仮名で「ミガキニシン」と書くだけで、字は当てていません。
魚であり、税であり、肥料であり、祝いの品だった
『蝦夷行記』の数行を並べ直すと、江戸のニシンの姿がそのまま出てきます。
- 松前の百姓は田を作らず、ニシンをとる。十五分の一を運上として納め、残りで暮らす
- 漁は春分から二十日ほど。全員総出で、それは「田作の秋」と変わらない
- 干したものは肥やしになって、南部・津軽から近江までの国々で使われる
- 卵は「天下一同に用ひて、すくなしとせず」——天下じゅうで使われて、少ないということがない
食べるための魚というより、米のかわりに松前の暮らしを回していたもので、その卵は、江戸の学者が「カドの子」の言い誤りではないかと考えた「かずのこ」の名のまま、いまも正月の重箱に入っています。
この記事で使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『古事類苑』動物部十七 魚中(NDL PID:1874269) | コマ737=所引『蝦夷行記』(運上・漁期・肥やし・俵物と江差)、所引『採藥使記』(カドの一名ニシン) | 著作権保護期間満了 |
『本朝食鑑』巻八(人見必大・1697年/NDL PID:2557333) | コマ179=「鰊」の見出しと訓「加登」、釈名「二親魚」/コマ180=二親魚の由来、カドノコとカズノコ、身を食べなかったこと(「鰊」の振り仮名「カドヲ」) | 著作権保護期間満了 |
『梅園魚譜』1帖(毛利梅園/NDL PID:1286914) | コマ56=ニシンと卵巣の彩色図、見出し「青魚(カド)/二親魚(ニシン)」、卵巣の書き入れ | 著作権保護期間満了 |
『重訂本草綱目啓蒙』(小野蘭山口授・弘化4年/NDL PID:2555647) | コマ8=南部・津軽での呼び名、ミガキニシン、数の子=カドノコの転語という説 | 著作権保護期間満了 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『古事類苑』動物部 / 『本朝食鑑』 / 『梅園魚譜』1帖 / 『重訂本草綱目啓蒙』
この記事でわかったこと
『古事類苑』動物部十七に引かれた『蝦夷行記』に、それに近い記述があります。
「百姓の業田作はせず、唯鯡をとりて、十五の一を以て運上とし、餘分を以て衣食とす、是松前中の收納物也」——松前の百姓は田を作らず、ニシンをとってその十五分の一を運上(税)として納め、残りで衣食をまかなう。これが松前一帯の収納物である、と書かれています。原文の言葉は「年貢」ではなく「運上」で、納めるのはとれた分の十五分の一です。同じ記述は漁の時期についても「誠に田作の秋と異なる事なし」——まことに田作りの秋と変わらない——と述べています。
江戸時代の文献には、この魚の呼び名「カド」の子、つまり「カドノコ」が転じたものだという説明があります。
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻八は、見出しの「鰊」に「訓加登」(読みはカド)と注したうえで「加登乃古、加豆乃古、同一物也、以登豆二訓相通、而誤以鰊子爲數子歟」——カドノコとカズノコは同じもので、「ト」と「ヅ」の訓が通じるため、誤ってカドの子を「数の子」としたのだろうか——と書いています。ただし著者の人見必大自身が断定を避け、「暫從世稱用數子字爾」(しばらく世間の呼び方に従って「数子」の字を使っておく)と続けています。弘化四年(1847年)刊の『重訂本草綱目啓蒙』も「又カドノコノ轉語ナリトモ云」と、一説として載せています。
『梅園魚譜』(毛利梅園)のニシンの図には、見出しに「青魚(カド) 二親魚(ニシン)」とあり、「二親魚」に「ニシン」のルビが振られています。
『本朝食鑑』巻八はその由来を「二親者父母也、凡人之多子者依于父母、故鰊之數子其多非他魚所能及、是以名乎」と推しています。二親とは父母のことで、人の子が多いのは父母によるのだから、ニシンの数の子の多さはほかの魚の及ぶところではない、それでこの名がついたのだろうか、という説明です。
『蝦夷行記』に「此干鯡をこやしに用ゆる國々は、南部津輕出羽北國近江へかけて是を用ひ」とあります。
干したニシンを肥やしに使う国々は、南部・津軽・出羽から北国、近江にまで及ぶ、という記述です。同じ箇所には、ニシンと数の子を干し上げて俵物とし、小舟で江差へ回すと、そこへ北国船が入り込んで相場を立てて買い取り、それぞれの国へ積んで回した、とも書かれています。
弘化四年(1847年)刊の『重訂本草綱目啓蒙』に「脊肉ノミ乾タルヲミガキニシント云」——背の肉だけを干したものをミガキニシンという——とあります。
丸ごと干したものは京都には来ないが、背の肉を干したものは多く来る、とも書かれています。ただし片仮名で「ミガキニシン」と書くだけで、「身欠き」の字も名前の由来も書かれていません。同じ本には、南部の方言ではこの魚をカドといい背の肉を干したものをニシンという、津軽では生のものをニシンという、という書き分けもあります。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚譜
毛利大江元寿梅園白石瑛<毛利梅園>//撰輯
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 本朝食鑑 12巻.[2]
丹岳野必大千里 著 [江戸時代]
- 重訂本草綱目啓蒙 48巻.[17]
蘭山小野先生 口授・小野職孝士徳 録・井口望之蘇仲 訂 弘化4 [1847]
ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。



