鮎の漢字の由来は三説あった——中国ではナマズを指す字だった
この字、読めますか?
鮎
- 訓
- あゆ
- 音
- ネン
- 画数
- 16画
この記事の目次
毛利梅園(もうり・ばいえん)は、アユの図の脇に「故ニ以魚占ト云意ヲ取テ鮎字ヲ用ル古實トナレリ」と書き込んでいます。神功皇后が釣りで占った魚だから魚へんに「占」と書く、という鮎の漢字の由来の説明ですが、同じページで梅園は、この字をアユに使うこと自体を「非也」とも書いていました。「鮎」は中国ではナマズを指す字で、アユの意味で使うのは日本だけです。
江戸時代には、梅園のほかに貝原益軒と新井白石もこの字について書いていて、三人の説明はそれぞれ違い、しかも三人ともアユをふだんは「鮎」以外の字で書いていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
「鮎」の基本データ
- 読み
- あゆ(訓)/ネン(音)
- 画数
- 16画(魚へん11画+右側5画)
- 形
- 魚へんに「占」
- 由来
- 毛利梅園は「魚占」の意を取った字と書き、新井白石は「年」と音が近いので借りたかと推した
- 中国では
- ナマズの字。アユに使うのは日本だけ
- 難易度
- 初級
読みと画数は Unicode の Unihan Database(U+9B8E)による
梅園の『梅園魚品図正』は、魚を写生して集めた天保6年(1835年)の序がある手書きの本で、国会図書館には巻一・巻二の2冊が残っています。手書きの本なので、どこに何の魚があるかは1コマずつめくって探すしかなく、巻一のコマ29の見開きでアユに行きあたりました。図の脇は文字でびっしり埋まっていて、梅園は魚の図の余白に古い本からの抜き書きを書き込んでいるので、このページは彩色図であると同時に、古典の抜き書き帳にもなっています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
その書き入れのテーマが、「鮎」という字でした。「鮎」は、中国ではナマズを指す字です。江戸の学者たちはそのことをよく知っていて、では日本でなぜこの字がアユになったのかを考えるとき、梅園が手がかりにしたのが『日本書紀』でした。
皇后は裳の糸で釣った
梅園はまず、『日本書紀』神功皇后紀の一場面を書き写しています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
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翻刻
日本記神功皇后記曰、夏四月壬寅朔甲辰、北到火煎国松浦縣而進食於玉嶋里河之側、於是皇后勾針爲釣、取粒爲餔、抽取裳系爲緡、登河中ノ石上而投釣祈之曰、朕西方欲求財国、若有成事者河魚飲釣、因以擧竿、乃獲細鱗魚、時皇后曰希見物也、故時人號其処曰梅
現代語訳
『日本書紀』神功皇后紀にいう。夏四月の壬寅朔甲辰、北のかた火煎国(肥前国)松浦県に至り、玉嶋里の川のほとりで食事をした。そこで皇后は針を曲げて釣り針とし、粒(飯粒)を取って餌とし(梅園の字は「餔」)、裳の糸を抜き取って釣り糸とした。川の中の石の上に登って釣り針を投げ、祈って言った。「わたしは西の方に財の国を求めようと思う。もし事が成るのであれば、河の魚よ、この釣り針を飲め」。そして竿を挙げると、細鱗魚(あゆ)が掛かった。皇后は言った、「めずらしい物である」と。だから当時の人はその場所を「梅(豆邏)」と呼んだ——。
場所は肥前国松浦県の玉嶋里で、梅園の字では「火煎国」と書かれています。川のほとりで食事をした皇后は、「勾針爲釣、取粒爲餔、抽取裳系爲緡」、針を曲げて釣り針にし、粒(飯粒)を餌にし、裳(も)の糸を抜き取って釣り糸にした。「餌」にあたる字を梅園は「餔」と書いていて、手元にあるものだけでその場で釣り道具を作ったことになります。
川の中の石の上に登った皇后は、釣り針を投げて「朕西方欲求財国、若有成事者河魚飲釣」と祈ります。わたしは西の方に財の国を求めようと思う、もし事が成るのであれば河の魚よこの釣り針を飲め、という祈りで、これは釣りというより占いです。竿を挙げると魚が掛かっていて、「乃獲細鱗魚」、この細鱗魚がアユです。
梅園はこの字をページの見出しにも使っていて、右ページのいちばん右に大きく「細鱗魚」と書いて「アユ」と振り仮名をつけ、すぐ右に小さく「日本記神功皇后記」と出どころを書き添えています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
めずらしい物、が地名になった
魚を見た皇后は「希見物也」、めずらしい物である、と言い、この一言がそのまま地名になりました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
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翻刻
豆邏ト、今曰松浦ト訛焉、是以其國人毎ニ當四月上旬以釣投河中ニ捕年魚於今不絶、唯男夫雖釣以不能獲魚云々、故ニ以魚占ト云意ヲ取テ鮎字ヲ用ル古實トナレリ、鮎魚ト同名、亦鰋魚モ鮎魚ノ別物也、既ニ以右ノ二字ヲ和名抄ニアユト載セタリ誤也
現代語訳
「梅豆邏(めづら)」といい、今は訛って「松浦(まつら)」という。それゆえその国の人は毎年四月の上旬になると釣り針を川に投げて年魚(あゆ)を捕り、今に至るまで絶えない。ただし男が釣っても魚を獲ることはできない、という。——だから「魚占(うおうら)」という意味を取って「鮎」の字を用いるのが古来のならわし(古実)となった。(この鮎は)鮎魚(ナマヅ)と同じ名である。また鰋魚も鮎魚(ナマヅ)の別物である。すでに右の二字を『和名抄』が「アユ」と載せているのは誤りである。
「故時人號其処曰梅豆邏ト、今曰松浦ト訛焉」。だから当時の人はその場所を「梅豆邏(めづら)」と呼び、それが訛っていまは「松浦(まつら)」という、という地名起源譚です。続く「是以其國人毎ニ當四月上旬以釣投河中ニ捕年魚於今不絶、唯男夫雖釣以不能獲魚云々」は、その国の人は毎年四月の上旬になると釣り針を川に投げてアユ(年魚)を捕り、いまも絶えていないが、男が釣っても魚は獲れない、という意味です。
誰が釣るのかについて、梅園の写しは「其國人」、その国の人としか書いていません。ところが明治43年(1910年)に神宮司庁が出した『古事類苑』動物部は、古い本の記事を活字で集めた本で、同じ日本書紀の記事を引いたそちらでは、ここが「是以其國女人」、その国の女たちになっています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29/『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ686・著作権保護期間満了)
梅園の写しでは「國」のすぐあとが「人」で、「女」の一字が抜けています。男が釣っても獲れないのは釣るのが女たちだったからで、皇后が自分の裳の糸で釣った話とちょうど対になっているように見えます。
魚に占と書く
書き入れは、ここから梅園自身の言葉になり、冒頭に引いた「故ニ以魚占ト云意ヲ取テ鮎字ヲ用ル古實トナレリ」が出てきます。「魚占(うおうら)」という意味を取って「鮎」の字を用いるのが、古来のならわし(古実)となった、というのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
占いに使われた魚だから魚へんに占、と読むと、梅園はこの説明を掲げて「鮎」という字を認めた人のように見えます。
それでも梅園はこの字を「非」と書いた
書き入れには続きがあって、「鮎魚ト同名」の「鮎」の横には小さく「ナマツ」と振り仮名がついています。アユに当てたこの字はナマズの「鮎魚」と同じ名だ、ということで、書き入れの最後は「既ニ以右ノ二字ヲ和名抄ニアユト載セタリ誤也」、右の二字を『和名抄』がアユと載せているのは誤りだ、と結ばれています。『和名抄』は『倭名類聚抄』の略で、古い辞書です。
同じページの中ほど、アユの雌と雄の違いを書いた段の終わりにも、もう一か所あります。
「国俗鮎ノ字ヲ用非也 鮎魚ハナマツ也」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
梅園は、「鮎」がなぜアユの字になったのかを「魚占」で説明しながら、その字を使うこと自体は二度にわたって「誤」「非」と書き、見出しに立てたのも「鮎」ではなく日本書紀の「細鱗魚」でした。「魚占」は字がこうなったいきさつの説明で、字が正しいと認める理由ではなかったように見えます。
貝原益軒は鮎をナマズとした
「鮎」をナマズとする見方は、梅園より前の本にも出てきます。宝永6年(1709年)刊の『大和本草』で、貝原益軒(篤信)はこう書いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557359 コマ7・著作権保護期間満了)
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又鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸書ヲ考ルニナマツナリ日本紀神功皇后紀ニ細鱗魚ヲアユトヨメリ
現代語訳
また「鮎」を「アユ」と読むのも誤りである。「鮎」は諸書を考えるとナマズである。『日本書紀』神功皇后紀では「細鱗魚」を「アユ」と読んでいる。
「又鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸書ヲ考ルニナマツナリ」。続けて「日本紀神功皇后紀ニ細鱗魚ヲアユトヨメリ」、日本書紀の神功皇后紀では「細鱗魚」をアユと読んでいる、と添えていて、鮎はナマズでアユに当てるのは誤り、という結論は梅園と同じです。
ただ、益軒自身がアユの項の見出しに立てた字は、細鱗魚でもありませんでした。ひとつ前のコマ6を開くと、見出しはこうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『大和本草』・NDL PID:2557359 コマ6・著作権保護期間満了)
「鰷魚」、振り仮名は「アユ」で、先の「鮎ヲアユトヨムモ誤也」はこの鰷魚の項の終わりに出てくる一文です。ところが梅園のページにはこの字についても書き入れがあって、『多識編』という本が鰷魚をアユと読むのは「非也」、條(鰷)魚はハヱだ、と書いています(「多識以鰷魚訓アユト非也 條魚ハハヱ也」)。鮎はナマズという点では二人は一致しているのに、代わりに立てた字は益軒が「鰷魚」、梅園が「細鱗魚」と、アユを何と書くかはここでも割れていました。
新井白石は「年」を嫌ったのかと推した
別の角度から説明したのが、新井白石の『東雅』です。開いたのは明治36年(1903年)に吉川半七が活字で出した版で、巻十九「鱗介」に「鮎 アユ」の項があります。白石もこの項を神功皇后が裳の糸で細鱗魚を釣った話から書き起こし、そのうえでなぜ「鮎」の字なのかを考えています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『東雅』明治36年刊の活字本・NDL PID:993111 コマ30・著作権保護期間満了)
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の一名と見えし鮎の字を用ひて。アユとなして。食經年魚の註を併錄せし事は。或は舊俗年魚の字を嫌ひ忌む事ありて。年と鮎と我國の方言近き故に。鮎の字を借用ひ
現代語訳
(『倭名抄』が、鮧の)一名として見える「鮎」の字を用いて「アユ」とし、『食経』の「年魚」の注を併せて記したのは、あるいは、昔の世に「年魚」の字を嫌い忌むことがあって、「年」と「鮎」がわが国の言葉では音が近いために、「鮎」の字を借りて用い——(文は次のページへ続き、「アユと呼んでいたのを、『倭名抄』もその訛りを正すまでには至らなかったのかもしれない」と結ばれる)
「或は舊俗年魚の字を嫌ひ忌む事ありて。年と鮎と我國の方言近き故に。鮎の字を借用ひ」。昔の人が「年魚」という字を嫌い忌むことがあって、「年」と「鮎」が日本の言葉では音が近いので「鮎」の字を借りて用い、と文は続き、ページをめくった次のコマ31で「アユと云ひしを。倭名鈔に其訛も正すに及ばざりしも知るべからず」と結ばれます。アユと呼んでいたのを、『倭名鈔』もその訛りを正すまでには至らなかったのかもしれない、という推測の書き方で、白石は言い切っていません。
手がかりとして白石が添えるのが、「今も俗間にアユは壽筵には。用ゆまじき物なりなどいふ事もあるなり」という一文です。寿筵(じゅえん)は長寿を祝う宴のことで、「年魚」の字を嫌う話のすぐあとに、長寿の祝いの席ではアユを避けるという言い伝えを並べているのは、一年で終わる魚を長寿の祝いに出すのをはばかった、という含みのように見えます。それでも白石は「鮎の字を用ひし事の緣も。今は詳ならず」とも書いていて、年を忌んだという説は、本人も確かだとは言っていない推測でした。
- 梅園——「魚占」の意味で鮎の字を使うのが古実になった。ただし、その使い方は「誤」「非」
- 益軒——鮎はナマズ。アユと読むのは誤り
- 白石——「年魚」の年を忌み、音の近い鮎を借りたのではないか。ただし「今は詳ならず」
益軒の『大和本草』(1709年)から梅園の図譜(1835年の序)まで、この一字には百年以上、別々の説明がつけられていたことになります。
誤りの出どころ、『和名抄』の「鮎」の項
梅園も白石も、アユに「鮎」の字を当てた出どころを『和名抄』(倭名鈔)に見ていました。その本文は、狩谷棭斎が注をつけた『箋注倭名類聚抄』の、明治16年(1883年)に印刷局が活字にした版で読めます。巻八の「鮎」の項を開くと、まず本草書を引いて「鮧魚」、その一名が「鮎魚」とあり、白石はこの鮧魚を「ナマヅといふ物」だと書いていました(『東雅』コマ30)。同じ項には、崔禹の『食経』からの引用が続きます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『箋注倭名類聚抄』明治16年刊の活字本・NDL PID:991791 コマ29・著作権保護期間満了)
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翻刻
崔禹食經云、貌似鱒而小、有白皮、無鱗、春生夏長秋衰冬死、故名年魚也、
現代語訳
崔禹の『食経』にいう。姿はマスに似ていて小さく、白い皮があって鱗がない。春に生まれ、夏に育ち、秋に衰え、冬に死ぬ。だから「年魚」と名づけたのである。
「春生夏長秋衰冬死、故名年魚也」。
春に生まれ、夏に育ち、秋に衰え、冬に死ぬから「年魚」と名づけた、一年で一生を終える魚だから「年」の字を使う、という説明です。ナマズの字としての「鮎」と、一年で終わる魚「年魚」の説明がひとつの項に並んでいて、梅園や白石が誤りの出どころと見たのは、この並びだったように見えます。
字は本ごとに違っていた
三つの説明のどれが正しいのかは、ここで見た本だけでは決められません。はっきりするのは、「アユ」という呼び名はひとつなのに、当てる字は本ごとに違っていた、ということです。日本書紀の細鱗魚と年魚、益軒の鰷魚、そして鮎のほか、梅園の図の周りにも香魚、銀口魚、溪鰛魚と、異名がぎっしり書き並べられています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
ひとつの魚にこれだけの字が当てられ、そのうちの一字が、川の石の上で釣り糸を垂れた皇后の話と結びつけて説明されて、いまも私たちが使う「鮎」になっています。
鮎
- 読みは「あゆ」。魚へんに占、16画
- 中国で鮎はナマズの字。アユに使うのは日本だけ
- 毛利梅園は「魚占」の意を取った字と書きつつ、字の使い方は「非也」とした
- 新井白石は「年」と音が近いので借りたかと推し、「今は詳ならず」と書いた
UOMEDIA|uomedia.jp
使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『梅園魚品図正』巻一(毛利梅園撰輯、天保6年=1835年序の写本/NDL PID:1287112) | コマ29=アユの彩色図と、図の脇の書き入れ(『日本書紀』神功皇后紀の引用、松浦の地名、「魚占」と鮎字、「国俗鮎ノ字ヲ用非也」、見出し「細鱗魚」、『多識編』の鰷魚への批判) | 著作権保護期間満了 |
『大和本草』巻十三(貝原篤信〔益軒〕、宝永6年=1709年刊/NDL PID:2557359) | コマ6=見出し「鰷魚」、コマ7=「鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸書ヲ考ルニナマツナリ」 | 著作権保護期間満了 |
『東雅』巻十九 鱗介(新井白石。明治36年=1903年 吉川半七刊の活字本、大槻如電校/NDL PID:993111) | コマ30=「鮎 アユ」の項。「年魚の字を嫌ひ忌む事ありて」以下、コマ31=文の結び、「壽筵」の言い伝え、「今は詳ならず」 | 著作権保護期間満了 |
『箋注倭名類聚抄』巻八 龍魚部(狩谷棭斎。明治16年=1883年 印刷局刊の活字本/NDL PID:991791) | コマ29=『倭名類聚抄』本文「鮎」の項。鮧魚の一名鮎魚、崔禹『食経』所引「春生夏長秋衰冬死、故名年魚也」 | 著作権保護期間満了 |
『古事類苑』第49冊 動物部(神宮司庁編、明治43年=1910年刊/NDL PID:1874269) | コマ686=所引『日本書紀』神功皇后紀の「是以其國女人」 | 著作権保護期間満了 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『梅園魚品図正』巻一 / 『大和本草』 / 『東雅』 / 『箋注倭名類聚抄』 / 『古事類苑』動物部
この記事でわかったこと
「鮎」がアユを指すのは日本だけの用法です。
毛利梅園は『梅園魚品図正』巻一コマ29のアユの図の脇に「故ニ以魚占ト云意ヲ取テ鮎字ヲ用ル古實トナレリ」——「魚占(うおうら)」という意味を取って「鮎」の字を用いるのが古来のならわしとなった——と書き入れています。『日本書紀』神功皇后紀で、皇后が魚を釣って事の成否を占った故事にもとづく説明です。ただし梅園は同じページで「国俗鮎ノ字ヲ用非也 鮎魚ハナマツ也」とも書き、字の使い方そのものは誤りとしています。
中国では「鮎」はナマズを指す字です。
江戸の学者たちもこれを知っており、貝原益軒は『大和本草』巻十三で「又鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸書ヲ考ルニナマツナリ」——「鮎」を「アユ」と読むのは誤りで、諸書を考えるに鮎はナマズである——と書いています。益軒自身はアユの項の見出しを「鰷魚」とし、毛利梅園は日本書紀の「細鱗魚」を見出しにしています。
神功皇后が肥前国松浦県の玉嶋里で、川の魚を釣って事の成否を占ったという『日本書紀』の記事です。
毛利梅園の書き写しによると、皇后は針を曲げて釣り針とし、粒(飯粒)を餌に、裳(も)の糸を抜き取って釣り糸にしました。川中の石の上に登って釣り針を投げ「朕西方欲求財国、若有成事者河魚飲釣」——わたしは西方に財の国を求めようと思う、もし事が成るなら河の魚よ釣り針を飲め——と祈ったところ、細鱗魚(アユ)が掛かりました。
『日本書紀』は、神功皇后がアユを釣り上げたときの一言が「松浦」の地名になったと伝えています。
皇后が魚を見て「希見物也(めずらしい物である)」と言ったことから、当時の人はその場所を「梅豆邏(めづら)」と呼び、それが訛って「松浦(まつら)」になった、という説明です。続けて、その国の人が毎年四月上旬に川へ釣り針を投げてアユを捕り、男が釣っても獲れないことが記されています。『古事類苑』に引かれた日本書紀では、釣るのは「其國女人」、その国の女たちです。
『倭名類聚抄』(和名抄)の「鮎」の項は、崔禹の『食経』を引いて「春生夏長秋衰冬死、故名年魚也」——春に生まれ、夏に育ち、秋に衰え、冬に死ぬ。
だから「年魚」と名づけた——と記しています。一年で一生を終える魚だから「年」の字を使う、という説明です。国会図書館では、狩谷棭斎の『箋注倭名類聚抄』巻八(明治16年刊の活字本)で読めます。
新井白石は『東雅』巻十九で、「或は舊俗年魚の字を嫌ひ忌む事ありて。
年と鮎と我國の方言近き故に。鮎の字を借用ひ」——昔の人が「年魚」の字を嫌い忌むことがあって、「年」と「鮎」が日本の言葉では音が近いので「鮎」の字を借りたのではないか——と書いています。続けて、いまも世間ではアユを寿筵(長寿の祝い)に使ってはいけないと言うことがある、と添えています。ただし白石は「鮎の字を用ひし事の緣も。今は詳ならず」とも書き、確かな説とはしていません。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻1
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 大和本草 16巻附録2巻諸品図2巻.[7]
貝原篤信 宝永6 [1709]
- 東雅 : 20巻目1巻.4(巻之17-20)
新井白石 編・大槻如電 校 1903
- 箋注倭名類聚抄.巻第8
狩谷棭斎 著 1883
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