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江戸の大イカ記録——町奉行の届書にあった「長さ二間半」

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この記事の目次

江戸の町奉行が、役所の届書に「古今稀なる大イカ」と書いています。上総の海で拾われ、三つに切られて江戸の魚問屋へ運ばれたそのイカは、長さ二間半、およそ4.5メートルあったと書き添えられていて、奉行は最後に、これは真イカではない、アオリイカだろうか、と種類を決めかねたまま筆を置いていました。

大イカの記録として江戸に残るこの一件は、ふつうのイカの姿と並べると大きさがよく分かります。下は同じころの博物家が写したイカで、細部まで描き込まれています。

『梅園魚品図正』巻1(1帖)。見開きいっぱいに一杯のイカが描かれている
胴の細かな斑点から、腕にならぶ吸盤の粒まで描き込まれている。右に「柔魚」の見出し。周囲は余白ではなく、書名を挙げた考証で埋まっている。上の札の「2帖」は全2帖という意味で、右上の番号「01-034」がこの図は1帖目にあることを示している。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ34・著作権保護期間満了)

幕府の記録集に、届書が丸ごと残っていた

届書を見つけたのは、明治から大正にかけて編まれた古典籍の引用集『古事類苑』の動物部十八で、イカの記事をたどっていくと、コマ800から801に『続視聴草』という記録集の「三集二」から一通がそっくり引かれていました。日付は子(ね)の年の十一月一日で、書き出しはこうです。

『古事類苑』動物部十八に収められた「大烏賊」の届書の書き出しと翻刻
左が原本の該当する列(赤枠)、右がその翻刻と現代語訳。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ800・著作権保護期間満了)
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翻刻

〔續視聽草三集二〕大烏賊大烏賊乘込之儀承糺、上總國天羽郡金谷村彥三郞海中より取上候、古今稀成大いかニ而、右體之

現代語訳

『続視聴草』三集二より「大烏賊」。——大烏賊が乗り込んできた(運び込まれた)件について取り調べましたところ、上総国天羽郡金谷村の彦三郎が海中から取り上げたもので、古今まれな大イカでございまして、このような品は……(次のページへ続く)

「大烏賊乘込之儀承糺、上總國天羽郡金谷村彥三郞海中より取上候、古今稀成大いかニ而」。大イカが運び込まれた件について取り調べたところ、上総国天羽郡金谷村の彦三郎が海中から取り上げたもので、古今稀なる大イカでございまして、と続きます。上総国は、今の千葉県の中部から南部にあたります。

『古事類苑』動物部十八コマ800の「古今稀成大いか」
届書の書き出しの列から「古今稀成大いか」の7字を切り出したもの。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部十八・NDL PID:1874269 コマ800・著作権保護期間満了)

人の力では獲れない、サメに食われて浮いてきた

届書の本文と翻刻
赤枠は該当する3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ801・著作権保護期間満了)
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翻刻

品中々人力ニては漁事難相成趣御座候、足を鰐ニ喰切られ浮出候を取上候由ニ而、三切ニ致し、去月廿二日、本小田原町一丁め尾張屋次右衞門方へ乘込候旨、尤其節温氣ニ而日數相立多くハ腐候而取捨候由ニ相聞申候、依之別紙麁繪圖面入御覽申候、此段申上候、以上、

現代語訳

このような品は、とても人の力では漁ができるものではないとのことでございます。足をサメに食い切られて浮いてきたのを取り上げたとのことで、三切りにして、先月二十二日に本小田原町一丁目の尾張屋次右衛門方へ持ち込まれた由。もっともその節は陽気がよく日数も経っていて、多くは腐ってしまい捨てたと聞いております。これにより別紙の粗い絵図面を御覧に入れます。この段、申し上げます。以上。

「品中々人力ニては漁事難相成趣御座候」、こういう品はとても人の力では漁ができるものではないそうで、手に入ったのは「足を鰐ニ喰切られ浮出候を取上候由ニ而」、足をサメに食い切られて浮いてきたのを拾い上げたからだといいます。「鰐(わに)」は、古い言葉ではサメを指すことの多い語です。

そのあとの扱いが豪快で、「三切ニ致し、去月廿二日、本小田原町一丁め尾張屋次右衞門方へ乘込候旨」、三切りにして、先月二十二日に本小田原町一丁目の尾張屋次右衛門方へ運び込んだとあります。届書の日付が十一月一日なので先月は旧暦の十月、暦の上では冬の入りで、一匹のままでは運べないほど大きかったように見えます。

結末は少し気の毒で、「尤其節温氣ニ而日數相立多くハ腐候而取捨候由ニ相聞申候」、その時分は陽気がよく日数も経っていたので、多くは腐って捨てたと聞いております、と報告したうえで、「依之別紙麁繪圖面入御覽申候」、別紙の粗い絵図面を御覧に入れますと、絵まで添えて上に差し出していました。

長さ二間半、足の太さ二尺

届書の末尾には、日付と差出のあとに追記があります。

届書の日付・差出と、寸法を書き添えた追記の翻刻
赤枠は該当する2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ801・著作権保護期間満了)
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翻刻

子十一月朔日  町奉行猶以眞烏賊ニ而者無御座候、あをりいかに御座候哉、長サ貳間半、橫六尺餘、足之丸サ貳尺程、○圖略

現代語訳

子の年の十一月一日 町奉行。なお、真イカではございません。アオリイカでございましょうか。長さ二間半、横六尺あまり、足の太さ二尺ほど。(「○圖略」は『古事類苑』編者の註で、絵図は省略したという意味)

「子十一月朔日 町奉行」と記した後ろに、「猶以眞烏賊ニ而者無御座候、あをりいかに御座候哉」、なお真イカではございません、アオリイカでございましょうか、と書き足していて、奉行自身が種類を決めかねていたことが分かります。そこから一字分あけて、寸法が並びます。

「長サ貳間半、橫六尺餘、足之丸サ貳尺程」。一間を約1.8メートルとして換算すると、次のようになります。

  • 長さ二間半 = 約4.5メートル
  • 横六尺余 = 約1.8メートル以上
  • 足の太さ(周囲)二尺 = 約60センチ

足の周囲が60センチというのは、太ももほどの太さの腕が生えていたということです。最後に小さな「○」に続けて「圖略」とありますが、『古事類苑』で「○」のあとに小さな字で入るのは引用元の文ではなく編者の註なので、この「圖略」は町奉行の言葉ではなく、明治の編者が書き入れた断りです。届書に添えられていたはずの絵を『古事類苑』は載せず、私たちに見られるのは寸法の数字だけになりました。

なぜアオリイカの名が出たのか

奉行がアオリイカを持ち出した手がかりは、同じ時代の本にあります。小野蘭山の講義を門人が書き留めた『本草綱目啓蒙』は、中国の薬物書『本草綱目』の項目ごとに日本での呼び名や産地を書き並べた本で、ここで開くのは弘化4年(1847年)に出た重訂版『重訂本草綱目啓蒙』の巻四十です。

その「烏賊魚」の項にはコブイカ、ミヅイカ、アヲリイカ、ミヽイカ、ヒイカ、シボイカ、タツイカ、ハリイカとイカの種類がずらりと並び、続く「柔魚」の項にはスルメイカ、サバイカが出てきます。アヲリイカの説明は「常ノイカヨリ廣大ニシテ障泥ノゴトシ」、ふつうのイカより広く大きく、障泥のようだというものでした。

『重訂本草綱目啓蒙』巻四十コマ56の「障泥ノゴトシ」
アヲリイカの説明の列から「障泥ノゴトシ」の部分を切り出したもの。「障泥」の右に小さく「アヲリ」と振り仮名がある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『重訂本草綱目啓蒙』巻四十・NDL PID:2555647 コマ56・著作権保護期間満了)

「障泥」の脇には小さく「アヲリ」と振り仮名がついていて、障泥(あおり)は馬の鞍の両脇に垂らす泥よけの革のことですから、胴のまわりの広いひれをこの革に見立てた名のように見えます。元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』も、泥障烏賊を「比常之烏賊則稍廣大」、ふつうのイカに比べてやや広く大きいと書いていて(『古事類苑』動物部十八 コマ798)、江戸の本がアオリイカについて言っているのは、長さではなく幅の広さです。

届書の寸法にも長さのほかに「橫六尺餘」、横幅1.8メートル以上とあったので、奉行がアオリイカを思い浮かべたのは、この幅のせいだったのかもしれません。『重訂本草綱目啓蒙』のアヲリイカの説明は少し先で「熊野ニハ常ノイカニモ大サ六尺許ナルモノアリト云」と続き、熊野にはふつうのイカでも六尺(約1.8メートル)ほどのものがあるといいますから、人の背丈ほどのイカの話は江戸の本にすでにあったわけですが、届書の二間半(約4.5メートル)は、その倍をさらに超えています。

カラスを捕るから「烏賊」

イカをカラスの賊と書く理由も、同じ『重訂本草綱目啓蒙』の烏賊魚の項に出てきます。項はまず足の話から入り、「八足ノ外ニ白鬚二條アリ」、八本の足のほかに白い鬚が二本あるとしていて、八本の腕と二本の触腕といういまの数え方とぴったり合っています。この二本は一尺より長く、「カクレ足」と呼ぶとも書いてあり、その続きに字の由来が来ます。

『重訂本草綱目啓蒙』烏賊魚の項、二本の長い鬚と字の由来に触れた箇所と翻刻
赤枠は該当する3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『重訂本草綱目啓蒙』巻四十・NDL PID:2555647 コマ55・著作権保護期間満了)
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翻刻

長サ尺ニスグコレヲカクレ足ト云ツ子ニ自ラ海上ニ浮ブ飛烏見テ以テ死セリトシ啄スレハコノ鬚ヲモツテマキ捉水ニ入テ食フ因テ烏賊トナヅク

現代語訳

(八本の足のほかにある二本の白い鬚は)長さ一尺を超える。これをカクレ足という。いつも自分から海面に浮かんでいる。飛んでいるカラスがそれを見て死んでいると思い、ついばもうとすると、この鬚で巻き取って水に引き入れ、食べてしまう。だから烏賊と名づける。

「ツ子ニ自ラ海上ニ浮ブ飛烏見テ以テ死セリトシ啄スレハコノ鬚ヲモツテマキ捉水ニ入テ食フ因テ烏賊トナヅク」。「ツ子ニ」の「子」は片仮名の「ネ」の代わりで、「つねに」と読みます。イカがいつも海面に浮かんでいるのを、飛んでいるカラスが死んでいると思ってついばむと、この鬚で巻き取って水に引き入れて食べてしまうので烏賊と名づける、という説明です。

浜で聞いた言い伝えを蘭山が書き留めたようにも読めますが、この本がもとにしている『本草綱目』を開くと、見え方が変わります。明の李時珍がまとめた薬物の書で、日本でも承応2年(1653年)に訓点つきの版が出ていて、その烏賊魚の項に『南越志』という中国の書物からの引用として「飛烏見之以爲死而啄之乃卷取入水而食之因名烏賊」(『本草綱目』承応2年刊・NDL PID:2556596 コマ95)とあるのです。

突き合わせると、「飛烏見テ以テ死セリトシ啄スレハ」は「飛烏見之以爲死而啄之」を、「マキ捉」は「卷取」を、「因テ烏賊トナヅク」は「因名烏賊」を、そのまま日本語の順に読み下したもので、少なくともこの一節は日本の浜の話ではなく中国の本の一文でした。ただ一か所、「コノ鬚ヲモツテ」だけは中国の文になく、蘭山はカラスを巻き取るのは直前に書いた二本の長いカクレ足だと読み添えたように見えます。実際のイカがカラスを食べるわけではなく、「烏賊」という字は、こういう説明と一緒に中国から入ってきたことになります。

『梅園魚品図正』巻1(1帖)コマ34に描かれた柔魚(スルメイカ)
左下に「癸巳十月八日 真寫」と書き添えられた写生(癸巳は天保4年・1833年にあたる)。八本の腕と、それより長い二本の触腕が描き分けられている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ34・著作権保護期間満了)

「烏賊八百隻」、1250年以上前の荷札

イカの記録は、江戸よりずっと古くまでさかのぼれて、奈良の平城京跡からは、こんな木簡が出ています。

「烏賊八百隻」と書かれた付札木簡(奈良文化財研究所蔵)
同じ木簡の表と裏。奈良時代、平城京左京三条一坊二坪の出土。縦165×横33×厚さ9ミリ。釈文は「烏賊八百隻」。
出典:ColBase(国立文化財機構)/奈良文化財研究所蔵 CC BY 4.0

書かれているのは「烏賊八百隻」の五文字だけで、イカ八百ぱいの荷札です。所蔵する奈良文化財研究所の解説によれば、「隻(せき)」は鳥や魚、ウリ、船などを数える単位として使われ、「烏賊」は『延喜式』では若狭・出雲・隠伎・豊前の調、若狭の交易雑物、丹後・筑前・豊前の中男作物にみえ、木簡としては丹後・出雲・隠伎の荷札が知られています。令の規定では正丁(成人男子)一人が納める量は三十斤(小斤)で、遠い国から都へ八百ぱいも運ぶのなら、干したもの、つまりスルメだったと考えたくなります。

梅園が書き込んだ、スルメの1000年

江戸の本もそう読んでいて、上のイカの図を描いた毛利梅園(もうり・ばいえん)は、絵のわきにこう書き込んでいます。

『梅園魚品図正』巻1(1帖)コマ34、スルメと延喜式について記した書き込みと翻刻
赤枠は該当する箇所。「烏賊」の二字は、原本では人偏・口偏を添えた字形で書かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ34・著作権保護期間満了)
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翻刻

風乾スルヲ閩書ニ明〓ト云又螟〓ニ作ル即柔魚ナリ本朝式鯣ノ字ヲ用ユ延喜ノ神祇民部主計式ニ若狭丹後隠岐ヨリ烏賊ヲ貢ニスト云フ者皆スルメナリ今肥前五島ヨリ出スモノ最品ナリ伊豆ノ産亦美味也

現代語訳

風で干したものを『閩書』では「めいふ」と呼び、別の字でも書く(〓は読み切れない字。どちらにも「メイフ」と振り仮名がある)。これがすなわち柔魚(スルメ)である。日本の式(延喜式)は「鯣」の字を用いている。延喜の神祇式・民部式・主計式に、若狭・丹後・隠岐から烏賊を貢いだとあるものは、みなスルメである。いま肥前の五島から出るものが最上で、伊豆の産もまた美味である。

「本朝式鯣ノ字ヲ用ユ延喜ノ神祇民部主計式ニ若狭丹後隠岐ヨリ烏賊ヲ貢ニスト云フ者皆スルメナリ」。延喜式は「鯣」の字を用いていて、神祇式・民部式・主計式に若狭・丹後・隠岐から烏賊を貢いだとあるのはみなスルメだ、という意味ですが、この一文は梅園が自分で考え出したものではなさそうです。元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』に「延喜式神祇民部主計等部、有若狹、丹後、隱岐、豐後貢烏賊者、是皆今之鯣也」(『古事類苑』動物部十八 コマ799)とほとんど同じ漢文があり、梅園の書き込みはこれを仮名まじりに読み下したもので、違いは豊後が抜けているくらいです。

その先には産地の話が続き、「今肥前五島ヨリ出スモノ最品ナリ 伊豆ノ産亦美味也」、いま肥前の五島から出るものが最上で、伊豆の産もまた美味だとあります。『本朝食鑑』の同じ箇所は「近世以自肥之五島來爲上品、丹後、但馬、伊豫次之」で、五島を上品とし丹後・但馬・伊予が次ぐとしていて、伊豆の名はここにはありません。

『重訂本草綱目啓蒙』はその五島のスルメについて「コレハアヲリイカヲ用ユト云」と書き添えていて(コマ57)、最上のスルメは、あの幅の広いアオリイカから作られていたことになります。奈良時代の若狭・丹後・隠岐から江戸の五島へと、スルメの名産地は時代とともに移っていったように見えます。

あの大イカは何だったのか

長さ4.5メートル、腕の周囲60センチで、江戸の奉行がアオリイカかと首をひねったあのイカを、いまの知識で考えると、日本の海でいちばん大きくなるイカはダイオウイカです。国立科学博物館が公開している記録では、日本で得られた個体の大きさは次のとおりです。

  • 2010年・新潟に漂着した個体——全長3.4メートル、外套長1.7メートル、体重109.2キロ
  • 2007年・島根県沖の個体——外套長1.35メートル、全長6.7メートル超
  • 2004年に小笠原沖で撮影された個体——外套長約1.7メートル、全長8メートル超と推定

同館の記事によれば、ダイオウイカを食べるマッコウクジラは小笠原近海で日中800〜1000メートル、夜間400〜500メートルまで潜り、餌のイカもそのあたりにいる可能性が高いとされていて、日本海側の山陰地方や能登半島では、冬に稀に海岸へ漂着します。生きた姿が世界で初めて撮影されたのは2004年9月30日、小笠原諸島父島付近でのことで、撮影に成功したのは同館の窪寺恒己らのチームでした。

4.5メートルという数字はこの範囲にきれいに収まりますが、手元にあるのは寸法の数字と失われた絵図への言及だけで、奉行自身も種類を決めかねていたのですから、ダイオウイカだったと決めることはできません。言えるのは、江戸のある年の冬のはじめ、人の力では獲れないほど大きなイカが上総の海に浮かび、三つに切られて江戸へ運ばれ、腐って捨てられ、役人がそれを文書に残した、というところまでです。

手続きの文書だから残ったもの

この届書は、珍しい生き物が見つかったから記録したものではなく、「大烏賊乗込之儀承糺」、大イカが運び込まれた件を取り調べた結果の報告です。どこの誰が拾い、どうやって手に入れ、どこの店に運び込まれ、いまどうなっているかを、行政の手続きとして書いたからこそ、産地も日付も問屋の名前も寸法も残りました。絵まで添えられていたのに、その絵だけが、いま私たちの手元にありません。

使った資料

資料

この記事で使った箇所

条件

『古事類苑』動物部十八 魚下(NDL PID:1874269)

コマ800〜801(1557〜1558頁)=『続視聴草』三集二から引かれた町奉行の届書「大烏賊」全文/コマ798〜799=『本朝食鑑』烏賊魚・鯣の項

著作権保護期間満了

『重訂本草綱目啓蒙』巻四十(小野蘭山口授・弘化4年刊/NDL PID:2555647)

コマ55=「烏賊」の字の由来、八足と白鬚二条・カクレ足/コマ56〜57=イカの品種の列挙、アヲリイカ「常ノイカヨリ廣大ニシテ障泥ノゴトシ」、熊野の六尺のイカ、五島のスルメとアヲリイカ

著作権保護期間満了

『本草綱目』(李時珍/承応2年刊・NDL PID:2556596)

コマ95=烏賊魚の項、『南越志』を引く「飛烏見之以爲死而啄之…因名烏賊」

著作権保護期間満了

『梅園魚品図正』巻1(1帖・毛利梅園/NDL PID:1287112)

コマ34=柔魚(スルメイカ)の彩色図と、延喜式・五島に触れた書き込み

著作権保護期間満了

平城京木簡「烏賊八百隻」(奈良文化財研究所蔵)

奈良時代・平城京左京三条一坊二坪出土の付札。釈文と『延喜式』の貢納国の解説

ColBase・CC BY 4.0

国立科学博物館「ダイオウイカ ― 深海のミステリー」

日本での漂着・回収個体の大きさ、マッコウクジラの潜水深度、2004年の世界初撮影

国立科学博物館

出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『古事類苑』動物部 / 『重訂本草綱目啓蒙』 / 『本草綱目』承応2年刊 / 『梅園魚品図正』巻1 / ColBase「平城京木簡(烏賊八百隻)」 / 国立科学博物館「ダイオウイカ ― 深海のミステリー」

この記事でわかったこと

  • 江戸時代の町奉行の届書に、上総国天羽郡金谷村で揚がった大イカの記録が残っています。

    『古事類苑』動物部十八が『続視聴草』三集二から引く「大烏賊」の一件で、「大烏賊乘込之儀承糺、上總國天羽郡金谷村彥三郞海中より取上候、古今稀成大いかニ而」と書き出され、末尾に「長サ貳間半、橫六尺餘、足之丸サ貳尺程」と寸法が書き添えられています。一間を約1.8メートルとすると長さ約4.5メートルにあたります。

  • その大イカは人の手で漁獲されたのではなく、サメに足を食い切られて浮いてきたものを拾い上げたものでした。

    届書には「品中々人力ニては漁事難相成趣御座候、足を鰐ニ喰切られ浮出候を取上候由ニ而」とあります。「鰐(わに)」は古い言葉でサメを指します。その後「三切ニ致し」=三つに切って江戸へ運ばれましたが、「其節温氣ニ而日數相立多くハ腐候而取捨候」=陽気がよく日数も経っていて多くは腐って捨てた、と報告されています。

  • 「烏賊」は、イカがカラスを捕らえて食べるという中国の説明に由来する字です。

    『重訂本草綱目啓蒙』(小野蘭山口授)の烏賊魚の項に「ツ子ニ自ラ海上ニ浮ブ飛烏見テ以テ死セリトシ啄スレハコノ鬚ヲモツテマキ捉水ニ入テ食フ因テ烏賊トナヅク」とあります。これは『本草綱目』が『南越志』から引く「飛烏見之以爲死而啄之乃卷取入水而食之因名烏賊」を読み下したもので、蘭山は「この鬚で」と、二本の長い触腕(カクレ足)を補っています。実際のイカはカラスを食べません。

  • イカは奈良時代にはすでに都へ運ばれる貢納品でした。

    平城京左京三条一坊二坪から出土した付札木簡には「烏賊八百隻」と書かれています(奈良文化財研究所蔵)。同研究所の解説によれば、「烏賊」は『延喜式』において若狭・出雲・隠伎・豊前の調、若狭の交易雑物、丹後・筑前・豊前の中男作物にみえ、令の規定では正丁一人が納める量は三十斤とされていました。江戸時代の『本朝食鑑』や『梅園魚品図正』は、延喜式のこれらの烏賊をみな今のスルメだと説明しています。

  • 江戸時代には肥前の五島(現在の長崎県五島列島)のスルメが最上とされていました。

    『梅園魚品図正』1帖コマ34の書き込みに「今肥前五島ヨリ出スモノ最品ナリ 伊豆ノ産亦美味也」とあります。元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』も、近世は肥前の五島から来るものを上品とし、丹後・但馬・伊予がこれに次ぐと記しています。『重訂本草綱目啓蒙』は、五島のスルメはアオリイカで作ると伝えています。一方、奈良時代から平安時代にかけての貢納国は若狭・丹後・隠岐などで、産地は時代とともに移っています。

  • ダイオウイカは日本でも複数の個体が記録されています。

    国立科学博物館の公開情報によれば、2010年に新潟へ漂着した個体は全長3.4メートル・外套長1.7メートル・体重109.2キロ、2007年の島根県沖の個体は外套長1.35メートル・全長6.7メートル超、2004年に小笠原沖で撮影された個体は外套長約1.7メートル・全長8メートル超と推定されています。同館の記事では、ダイオウイカを食べるマッコウクジラの潜水深度(日中800〜1000メートル、夜間400〜500メートル)から、餌のイカもそのあたりにいる可能性が高いとされ、山陰地方と能登半島では冬に稀に漂着します。生きた姿の世界初の撮影は2004年9月30日、小笠原諸島父島付近で同館の窪寺恒己らのチームが成功しました。

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