「長さ二間半、足の太さ二尺」——江戸の魚河岸に運び込まれた大イカと、町奉行が幕府に出した報告書
子(ね)の年の十一月一日。江戸の町奉行が、幕府に一通の届書を出しました。
書き出しはこうです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「大烏賊乘込之儀承糺、上總國天羽郡金谷村彥三郞海中より取上候、古今稀成大いかニ而」。
大イカが(魚河岸に)乗り込んだ件について取り調べたところ、上総国天羽郡金谷村の彦三郎が海中から取り上げたもので、古今稀なる大イカでございまして——。
上総国は、今の千葉県の中部から南部にあたります。
「古今稀なる」。役所の文書に、こういう言葉が出てきます。
1. 人の力では獲れない
続きを読みます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「品中々人力ニては漁事難相成趣御座候」——このような品は、とても人の力では漁ができるものではないとのことです。
では、どうやって手に入れたのか。
「足を鰐ニ喰切られ浮出候を取上候由ニ而」。足をサメに食い切られて浮いてきたのを、拾い上げたのだ、と。
「鰐(わに)」は古い言葉でサメを指します。
そして、そのあとの処理がすごい。
「三切ニ致し、去月廿二日、本小田原町一丁め尾張屋次右衞門方へ乘込候旨」。
三切りにして、先月二十二日に本小田原町一丁目の尾張屋次右衛門方へ運び込まれた、と。
一匹を三つに切らないと運べなかったということです。
ただし、結末は少し気の毒でした。「尤其節温氣ニ而日數相立多くハ腐候而取捨候由ニ相聞申候」。その節は陽気がよく日数も経っていて、多くは腐ってしまい捨てたと聞いております、と。
そして最後に、「依之別紙麁繪圖面入御覽申候」。これにより別紙の粗い絵図面を御覧に入れます——。
絵まで添えて、幕府に報告しているのです。
2. 長さ二間半、足の太さ二尺
届書の末尾に、日付と差出、そして追記があります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「子十一月朔日 町奉行」。
そして追記。
「猶以眞烏賊ニ而者無御座候、あをりいかに御座候哉」——なお、真イカではございません。アオリイカでございましょうか。
奉行自身が、種類を決めかねている。「〜でしょうか」と書いています。
そのあとに、寸法が並びます。
「長サ貳間半、橫六尺餘、足之丸サ貳尺程」。
一間を約1.8メートルとして換算すると、こうなります。
- 長さ二間半 = 約4.5メートル
- 横六尺余 = 約1.8メートル以上
- 足の太さ(周囲)二尺 = 約60センチ
足の周囲が60センチ。太ももほどの太さの腕が生えている、ということです。
そして最後に一言、「圖略」。
——絵図は省略。
この文書を収めた『古事類苑』は、せっかく添えられていたはずの絵を載せていません。私たちが見られるのは、寸法の数字だけです。
3. アオリイカではありえない
奉行の見立ては「アオリイカでしょうか」でした。
アオリイカは、いま日本の沿岸でふつうに釣れるイカです。大きな個体でも胴は腕の長さほどで、4.5メートルにはとうてい届きません。
ではなぜ奉行はアオリイカと書いたのか。江戸の本を読むと、その理由が見えてきます。
享和3年(1803年)に小野蘭山が講義した『本草綱目啓蒙』には、イカの種類がずらりと並んでいます。コブイカ、ミヅイカ、アヲリイカ、ミヽイカ、ヒイカ、シボイカ、タツイカ、ハリイカ、スルメイカ、サバイカ——。
そのアオリイカの項に、「常ノイカヨリ廣大」と書かれています。
江戸の人にとって「いちばん大きくなるイカ=アオリイカ」だった。だから桁外れに大きなイカを見たとき、まずアオリイカを疑ったのでしょう。
逆に言えば、この大イカは、江戸の知識の枠の外にあったということです。
4. なぜ「烏賊」と書くのか
ところで、イカはなぜ「烏賊」——カラスの賊、と書くのでしょう。
同じ『本草綱目啓蒙』が、その由来を書き残しています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「常ニ自ラ海上ニ浮ブ 烏見テ以テ死セリトシ 啄スレバコノ鬚ヲモツテ巻キ 水ニ引入テ食フ 因テ烏賊ト名ヅク」。
イカはいつも自分から海面に浮かんでいる。
カラスがそれを見て「死んでいる」と思い、ついばもうと降りてくる。
すると、あの長い鬚——触腕でカラスを巻き取り、水に引き込んで食べてしまう。
だから「烏(からす)の賊(ぞく)」と書く、と。
もちろん実際のイカはカラスを食べません。ただ、この字が中国から入ってきたときに、そういう説明がついていたわけです。
ちなみに同じ項には、イカの足の数え方も出てきます。「八足ノ外ニ白鬚二條アリ」——八本の足のほかに、白い鬚が二本ある。
八本の腕と、二本の触腕。いまの分類とぴったり合っています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ34・著作権保護期間満了)
5. 「烏賊八百隻」——1250年前の荷札
イカの記録は、江戸よりずっと古くまでさかのぼれます。
奈良の平城京跡から、こんな木簡が出ています。

出典:ColBase(国立文化財機構)/奈良文化財研究所蔵 CC BY 4.0
荷札です。書かれているのは五文字だけ。
「烏賊八百隻」。
イカ八百ぱい。「隻(せき)」は、鳥や魚、ウリ、船などを数えるときに使われた単位です。
奈良文化財研究所の解説によれば、「烏賊」は『延喜式』では若狭・出雲・隠伎・豊前の調、若狭の交易雑物、丹後・筑前・豊前の中男作物にみえ、木簡としては丹後・出雲・隠伎の荷札が知られています。
令の規定では、正丁(成人男子)一人が納める量は三十斤。
都に運ぶには、干す必要があります。つまりこの木簡が指しているのは、生のイカではなくスルメです。
6. 梅園が書き込んだ、スルメの1000年
そのことを、江戸の博物家がはっきり書いています。
上のイカの図を描いた毛利梅園(もうり・ばいえん)が、絵のわきに書き込んだ文章です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
「本朝式ニ鯣ノ字ヲ用ユ 延喜ノ神祇民部主計式ニ若狭丹後隠岐ヨリ烏賊ヲ貢ニスト云フ者皆スルメナリ」。
『延喜式』では「鯣」の字を用いている。延喜の神祇式・民部式・主計式に、若狭・丹後・隠岐から烏賊を貢いだとあるのは、みなスルメである——。
木簡が出土したのは、この書き込みから100年以上あとのことです。それでも梅園の読みは当たっていました。
そして、その先に産地の話が続きます。
「今肥前五島ヨリ出スモノ最品ナリ 伊豆ノ産亦美味也」。
いま肥前の五島から出るものが最上で、伊豆の産もまた美味である、と。
元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』も、スルメについて同じ順序で書いています。近世は肥前の五島から来るものを上品とし、丹後・但馬・伊予がこれに次ぐ、と。
奈良時代の若狭・丹後・隠岐から、江戸の五島へ。産地は移りましたが、「どこのスルメが上等か」を言い分ける習慣は、1000年以上続いていたことになります。
7. では、あの大イカは何だったのか
話を届書に戻します。
長さ4.5メートル、腕の周囲60センチ。江戸の奉行が「アオリイカでしょうか」と首をひねった、あのイカです。
いま日本の海でいちばん大きくなるイカはダイオウイカです。
国立科学博物館が公開している記録を見ると、日本で得られた個体の大きさはこうです。
- 2010年・新潟に漂着した個体——全長3.4メートル、外套長1.7メートル、体重109.2キロ
- 2007年・島根県沖の個体——外套長1.35メートル、全長6.7メートル超
- 2004年に小笠原沖で撮影された個体——外套長約1.7メートル、全長8メートル超と推定
同館によれば、ダイオウイカは日中は水深800〜1000メートル、夜間は400〜500メートル付近にいて、山陰地方と能登半島で冬に稀に漂着します。生きた姿が世界で初めて撮影されたのは2004年9月30日、小笠原諸島父島付近でのことでした。撮影に成功したのは同館の窪寺恒己らのチームです。
4.5メートルという数字は、この範囲にきれいに収まります。
ただし、これがダイオウイカだったと決めることはできません。手元にあるのは寸法の数字と、失われた絵図への言及だけです。奉行自身も種類を決めかねていました。
言えるのはここまでです。江戸のある年の秋、人の力では獲れないほど大きなイカが上総の海に浮かび、三つに切られて江戸へ運ばれ、腐って捨てられた。そして役人がそれを文書に残した。
8. 記録に残るということ
この届書がおもしろいのは、内容そのものより、誰が何のために書いたかだと思います。
珍しい生き物が見つかったから記録した、という話ではありません。「大烏賊乗込之儀承糺」——魚河岸に妙なものが入ってきた件を取り調べた結果の報告です。
どこの誰が拾ったのか。どうやって手に入れたのか。どの問屋に入ったのか。いまどうなっているのか。
行政の手続きとして書かれた文章だからこそ、産地も、日付も、問屋の名前も、寸法も残りました。
そして絵まで添えられた。その絵は、いま私たちの手元にはありません。
この記事で使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『古事類苑』動物部十八 魚下(NDL PID:1874269) | コマ800〜801(1557〜1558頁)=『続視聴草』三集之二から引かれた町奉行の届書「大烏賊」全文 | 著作権保護期間満了 |
『重修本草綱目啓蒙』(小野蘭山/NDL PID:2555647) | コマ55=「烏賊」の字の由来、八足と白鬚二条/コマ56〜57=イカの品種の列挙、アオリイカ「常ノイカヨリ廣大」、五島のスルメ | 著作権保護期間満了 |
『梅園魚品図正』1帖(毛利梅園/NDL PID:1287112) | コマ34=柔魚(スルメイカ)の彩色図と、延喜式・五島に触れた書き込み | 著作権保護期間満了 |
平城京木簡「烏賊八百隻」(奈良文化財研究所蔵) | 奈良時代・平城京左京三条一坊二坪出土の付札。釈文と『延喜式』の貢納国の解説 | ColBase・CC BY 4.0 |
国立科学博物館「ダイオウイカ ― 深海のミステリー」 | 日本での漂着・釣獲個体の大きさ、生息深度、2004年の世界初撮影 | 国立科学博物館 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『古事類苑』動物部 / 『重修本草綱目啓蒙』 / 『梅園魚品図正』1帖 / ColBase「平城京木簡(烏賊八百隻)」 / 国立科学博物館「ダイオウイカ ― 深海のミステリー」
💡 この記事でわかったこと
- 01
江戸時代の町奉行が幕府に出した届書に、上総国天羽郡金谷村で揚がった大イカの記録が残っています。
『古事類苑』動物部十八が『続視聴草』三集之二から引く「大烏賊」の一件で、「大烏賊乘込之儀承糺、上總國天羽郡金谷村彥三郞海中より取上候、古今稀成大いかニ而」と書き出され、末尾に「長サ貳間半、橫六尺餘、足之丸サ貳尺程」と寸法が書き添えられています。一間を約1.8メートルとすると長さ約4.5メートルにあたります。
- 02
その大イカは人の手で漁獲されたのではなく、サメに足を食い切られて浮いてきたものを拾い上げたものでした。
届書には「品中々人力ニては漁事難相成趣御座候、足を鰐ニ喰切られ浮出候を取上候由ニ而」とあります。「鰐(わに)」は古い言葉でサメを指します。その後「三切ニ致し」=三つに切って江戸へ運ばれましたが、「其節温氣ニ而日數相立多くハ腐候而取捨候」=陽気がよく日数も経っていて多くは腐って捨てた、と報告されています。
- 03
「烏賊」は、イカがカラスを捕らえて食べるという言い伝えに由来する字です。
『重修本草綱目啓蒙』(小野蘭山)の烏賊魚の項に「常ニ自ラ海上ニ浮ブ 烏見テ以テ死セリトシ 啄スレバコノ鬚ヲモツテ巻キ 水ニ引入テ食フ 因テ烏賊ト名ヅク」とあります。イカが海面に浮かんでいるのを見たカラスが、死んでいると思ってついばもうとすると、逆に長い鬚(触腕)で巻き取られ水中に引き込まれて食べられてしまう、という説明です。実際のイカはカラスを食べません。
- 04
イカは奈良時代にはすでに都へ運ばれる貢納品でした。
平城京左京三条一坊二坪から出土した付札木簡には「烏賊八百隻」と書かれています(奈良文化財研究所蔵)。同研究所の解説によれば、「烏賊」は『延喜式』において若狭・出雲・隠伎・豊前の調、若狭の交易雑物、丹後・筑前・豊前の中男作物にみえ、令の規定では正丁一人が納める量は三十斤とされていました。都まで運ぶには干す必要があるため、これらはスルメにあたります。
- 05
江戸時代には肥前の五島(現在の長崎県五島列島)のスルメが最上とされていました。
『梅園魚品図正』1帖コマ34の書き込みに「今肥前五島ヨリ出スモノ最品ナリ 伊豆ノ産亦美味也」とあります。元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』も、近世は肥前の五島から来るものを上品とし、丹後・但馬・伊予がこれに次ぐと記しています。一方、奈良時代から平安時代にかけての貢納国は若狭・丹後・隠岐などで、産地は時代とともに移っています。
- 06
ダイオウイカは日本でも複数の個体が記録されています。
国立科学博物館の公開情報によれば、2010年に新潟へ漂着した個体は全長3.4メートル・外套長1.7メートル・体重109.2キロ、2007年の島根県沖の個体は外套長1.35メートル・全長6.7メートル超、2004年に小笠原沖で撮影された個体は外套長約1.7メートル・全長8メートル超と推定されています。日中は水深800〜1000メートル、夜間は400〜500メートル付近に生息し、山陰地方と能登半島で冬季に稀に漂着します。生きた姿の世界初の撮影は2004年9月30日、小笠原諸島父島付近で同館の窪寺恒己らのチームが成功しました。
SAKANA 編集部
良輔 × Claude(Anthropic)
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