ザトウクジラの名前の由来は琵琶——元禄の本が書いた鯨組の定法
この記事の目次
元禄十年(1697年)刊の食物本『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』は、ザトウクジラの名前の由来を、目の見えない人ではなく、背中に載った琵琶の形の鰭で説明していました。「座頭(ざとう)」は江戸で目の見えない人を指した呼び名なので、字面だけなら目の見えない鯨と読みたくなりますが、同じページの書き手はその読み方をはっきり退けています。しかもそのすぐ隣の列には、子連れの鯨を捕るときの手順が、鯨を刺す家の「定法」として書き込まれていました。
いまでは水族館かニュースの中で会う生き物ですが、江戸の人にとって鯨は、大勢で舟を出して捕る相手でした。「一勇斎国芳」の署名がある「捕鯨の図」(NDL PID:1305794 コマ2)が、その様子を一枚に収めています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(一勇斎国芳「捕鯨の図」NDL PID:1305794 コマ2・パブリックドメイン)
下で綱を引く人の数を見れば、ひとりで捕る漁でないことは一目でわかります。この鯨の名前や捕り方が書かれていたのが『本朝食鑑』で、第三冊(NDL PID:2557334)のコマ3が巻九の巻頭、その最初の項目が鯨でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557334 コマ3・著作権保護期間満了)
書き手は「丹岳野必大千里父」と名乗っていて、ふつう人見必大(ひとみ・ひつだい)と呼ばれる人です。見出しの「江海無鱗」は、川や海の鱗のないもの、という分類で、鯨の項を2コマ先のコマ5まで読むと、見開きの右ページに名前の話と捕り方の話がそろって出てきます。
鯨は六種に分けられていた
その前のコマ4で、必大は鯨の種類を挙げています。漁師のあいだには六種の鯨の名がある(「漁家有六種之鯨名」)として並べるのは、「世美・座頭・小鯨・長須・鰯・真甲」の六つです。この数え方は150年後の絵巻にもそのまま出てきて、国立国会図書館にある『六鯨之図(ろくげいのず)』という巻物は、書誌では弘化4年(1847年)の写本、作者は「米鵞」とされています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『六鯨之図』・NDL PID:2543153 コマ4・著作権保護期間満了)
巻頭には名前が書き並べてあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『六鯨之図』・NDL PID:2543153 コマ4・著作権保護期間満了)
- 脊美鯨(セミクジラ)
- 座頭鯨(ザトウクジラ)
- 真甲鯨(マッコウクジラ)
- 兒鯨
- 長須鯨(ナガスクジラ)
- 鰯鯨(イワシクジラ)
五つはいまの和名とほとんど同じ字で、『本朝食鑑』と比べても、「世美」が「脊美」に、「小鯨」が「兒鯨」に変わっているほかは顔ぶれが同じです。そのうちの「座頭」がどこから来た名前なのかを、『本朝食鑑』のコマ5で読んでいきます。
背中の琵琶と、琵琶を背負う人
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557334 コマ5・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
(是刺鯨)家之定法也、座頭鯨者本朝通俗呼瞽者稱座頭、此魚之背有方二尺許之鰭如琵琶之形、漁家呼謂疣也、遠郊村巷之瞽者負琶而行乞食里落、勢州最多、故以座頭而名乎
現代語訳
(これが鯨を刺す)家の定法である。座頭鯨について。日本では俗に、瞽者(盲人)を「座頭」と呼ぶ。この魚の背には二尺四方ほどの鰭があって琵琶の形のようで、漁師はこれを「疣(いぼ)」と呼んでいる。遠い在郷の村々では、瞽者が琵琶(原文は「琶」一字)を背負って歩き、里で食を乞う。伊勢にとくに多い。だから「座頭」と名づけたのであろうか。
座頭鯨の話は「座頭鯨者本朝通俗呼瞽者稱座頭」、座頭鯨について、日本では俗に瞽者(こしゃ=目の見えない人)を「座頭」と呼ぶ、と始まります。ここまで読むと、座頭鯨は目の見えない鯨、あるいは目が小さくて見えないように見える鯨なのだろう、と答えが出たように思えますが、必大がすぐ続けて書くのは目ではなく背中の話でした。
「此魚之背有方二尺許之鰭如琵琶之形」、この魚の背には二尺(約60センチ)四方ほどの鰭があって琵琶の形のようだ、と言い、漁師はこの鰭を「疣(いぼ)」と呼んでいる(「漁家呼謂疣也」)と添えています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557334 コマ5・著作権保護期間満了)
座頭とのつながりは、そのあとの「遠郊村巷之瞽者負琶而行乞食里落、勢州最多」にあります。遠い在郷の村々では目の見えない人が琵琶を背負って歩き、里で食を乞うていて、伊勢にとくに多い、という一文で、原文は「琵琶」を「琶」の一字で書いています。背中に琵琶の形をしたものを載せて泳ぐ鯨を、琵琶を背負って村を歩く座頭に重ねた見立てですが、この一文の終わりは「故以座頭而名乎」と「乎(か)」がついていて、だから座頭と名づけたのであろうか、と、必大は言い切らずに推し量る形で書いています。
「目が無いから」という説も江戸にあった
読み進めると、最初に浮かんだ目の見えない鯨という考えが、そのまま出てきます。「或曰、座頭鯨取無目之象」、ある人は座頭鯨は目が無い姿から名をとったのだと言う、というもので、その人の根拠は中国の『異物志』という本の話でした。韻書(字引)に引かれたその本には、鯨が砂の上で死ぬとどれも目が無く、目は明月珠という珠になるのだと俗に言う、とあります(同じコマ5の右ページ、左寄りの3列)。
必大はこれを「是不的當」(これは当たっていない)と退けます。『異物志』が言うのは死んだあとに目が無くなる話で、怪しい話ではあってもそれはそれで筋は通る、と認めたうえでの反論です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557334 コマ5・著作権保護期間満了)
「座頭鯨有目」、座頭鯨には目がある、それなのにどうして目の無い姿から名をとったと言えるのか(「何以無目之象而言乎」)、と必大は問い返しています。座頭から目の見えない鯨へ進む読み方を知ったうえで、生きている座頭鯨には目があるという一点でそれを退け、名の手がかりを背中の琵琶の形に求めていたわけで、字面から浮かぶ答えとこの本の答えは別のものでした。
鯨を刺す家の「定法」
同じコマ5の右ページで、座頭鯨の話のすぐ前に書かれているのが鯨の捕り方です。ページの1列目には、鯨を捕るのは冬の中旬から夏の四月まで(「冬中旬之際至夏四月采鯨」)とあり、言い伝えでは草木が芽吹いたあとは鯨の力がたいそう強くなる、と続いたあとに、次の一節が来ます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557334 コマ5・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
(鯨力)甚剛矣、采鯨若遇護子鯨而行者、先使子鯨必全不殺之、要以半死、子鯨全死則母鯨必逃去、子鯨半死則母鯨不忍去、而以身掩子愛惜者甚、故半殺子鯨而刺母鯨、全殺母鯨而後采子鯨、是刺鯨家之定法也
現代語訳
(言い伝えでは、草木が芽吹いたあとは)鯨の力がたいそう強い。鯨を捕るとき、子を守りながら泳ぐ鯨に出会ったら、まず子鯨を完全には殺さないようにする。半死の状態にとどめるのだ。子鯨が完全に死ぬと母鯨は必ず逃げ去る。子鯨が半死なら母鯨は去るに忍びず、身をもって子を覆い、いたわることがはなはだしい。だから子鯨を半殺しにしてから母鯨を刺し、母鯨を殺しきったあとで子鯨を捕る。これが鯨を刺す家の定法である。
「采鯨若遇護子鯨而行者、先使子鯨必全不殺之、要以半死」。鯨を捕るとき、子を守りながら泳ぐ鯨に出会ったら、まず子鯨を完全には殺さず半死の状態にとどめる、という手順で、理由は「子鯨全死則母鯨必逃去、子鯨半死則母鯨不忍去、而以身掩子愛惜者甚」と書かれています。子鯨が完全に死ぬと母鯨は必ず逃げ去るが、半死なら母鯨は去るに忍びず、身をもって子を覆い、いたわることがはなはだしい、というのです。
結論は「故半殺子鯨而刺母鯨、全殺母鯨而後采子鯨、是刺鯨家之定法也」で、だから子鯨を半殺しにしてから母鯨を刺し、母鯨を殺しきったあとで子鯨を捕る、これが鯨を刺す家の「定法」である、と結ばれます。この一節で重いのは、内容そのものより「定法」という語のほうだと思います。その場の判断ではなく鯨を刺す家の決まったやり方として書かれていて、手順の前提に置かれているのは、母鯨が子のそばを離れないという母子の情そのものでした。
百五十年後の絵巻にも「イボ」がいた
『六鯨之図』に戻ると、巻物の終わり近く(コマ9からコマ10)に座頭鯨が描かれています。ただし上下さかさまで、書き入れの字も逆さに書かれているので、ここではコマ10の一部を180度回して見せます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『六鯨之図』・NDL PID:2543153 コマ10・著作権保護期間満了)
背中の小さな鰭に線が引かれ、その先に書き入れがあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『六鯨之図』・NDL PID:2543153 コマ10・著作権保護期間満了)
「立鰭 イボトモ云」、立鰭(背の鰭)はイボとも言う、とあって、『本朝食鑑』の「漁家呼謂疣也」と同じ呼び名が出てきます。巻物の終わりには「弘化丁未春王三月於南紀古座浦 米鵞真寫」とあり、弘化丁未(弘化4年=1847年)の春三月に、南紀(紀伊の南部)の古座浦で米鵞が写した、という書き添えなので、元禄の本から150年ほどのち、紀伊の浦でも座頭鯨の背の鰭はイボと呼ばれていたように見えます。
名前と手順は、同じ列でつながっている
ここまで見た二つの記述は、『本朝食鑑』巻九コマ5の同じページにあり、順番は手順が先です。子を使って母を仕留める手順が「是刺鯨家之定法也」で終わると、同じ列のすぐ下から「座頭鯨者」と名前の話が始まるので、子を使って母を刺す手順と、琵琶を背負った人に鯨を重ねる見立てのあいだには、改行さえありません。観察のほうも名前だけにとどまらず、『六鯨之図』は体の中まで描いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『六鯨之図』・NDL PID:2543153 コマ5・著作権保護期間満了)
よく観察し、細かく呼び分け、そのうえで余さず捕るという、江戸の人の鯨の見方が、この並びによく表れているように思います。いま図鑑で目にするザトウクジラという名前は、その両方が隣り合ったページから出てきたものでした。
使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『本朝食鑑』巻九(人見必大。この本の書誌の著者表記は「丹岳野必大千里」。元禄10年=1697年刊。NDLのこの本〈PID:2557334〉は刊年を[江戸時代]とし、刊年は同書の別本の刊記による) | コマ3=巻九の巻頭と鯨の項の始まり。コマ4=六種の鯨の名。コマ5=鯨を刺す家の「定法」、座頭鯨の名の由来(背の鰭が琵琶の形/漁師は疣と呼ぶ/瞽者が琵琶を負って歩く)と、「目が無いから」という説への反論 | 著作権保護期間満了 |
『六鯨之図』(米鵞。弘化4年=1847年写。NDL PID:2543153) | コマ4=冒頭に並ぶ六種の鯨の名。コマ5=骨と内臓の彩色図と長須鯨の頭。コマ9〜10=座頭鯨の図と書き入れ「立鰭 イボトモ云」、巻末の書き添え | 著作権保護期間満了 |
一勇斎国芳「捕鯨の図」(NDL PID:1305794) | コマ2=綱を引く大勢の人と、沖の舟団 | パブリックドメイン(NDL 表示) |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『六鯨之図』 / 一勇斎国芳「捕鯨の図」
この記事でわかったこと
元禄10年(1697年)の『本朝食鑑』巻九は、日本では俗に目の見えない人(瞽者)を「座頭」と呼ぶ、と書いています。
そのうえで、この鯨の背には「此魚之背有方二尺許之鰭如琵琶之形」——二尺四方ほどの琵琶の形をした鰭がある——とし、「遠郊村巷之瞽者負琶而行乞食里落」——在郷の村々では目の見えない人が琵琶を背負って歩き里で食を乞う——と続けます。背に琵琶を載せたような鯨を、琵琶を背負って歩く座頭に見立てた名だろう(「故以座頭而名乎」)と、推し量る形で説明しています。
『本朝食鑑』巻九には、その説も出てきます。
「或曰、座頭鯨取無目之象」(ある人は、目が無い姿から名をとったと言う)。しかし著者の必大は「座頭鯨有目」——座頭鯨には目がある——として、この説を退けています。そして名の手がかりを、背中の琵琶の形をした鰭に求めています(NDL PID:2557334 コマ5)。
『本朝食鑑』巻九(1697年刊)は、漁師のあいだに六種の鯨の名があるとして「世美・座頭・小鯨・長須・鰯・真甲」を挙げています。
弘化4年(1847年)写の『六鯨之図』(NDL PID:2543153)の冒頭にも、脊美鯨・座頭鯨・真甲鯨・兒鯨・長須鯨・鰯鯨(鰹鯨)の六つが並びます。セミ・ザトウ・マッコウ・ナガス・イワシの五つは、いまの和名とほとんど同じ字です。
『本朝食鑑』巻九に「采鯨若遇護子鯨而行者、先使子鯨必全不殺之、要以半死」とあり、子を守りながら泳ぐ鯨に出会ったら、まず子鯨を半死の状態にとどめる、と書かれています。
その理由は「子鯨全死則母鯨必逃去、子鯨半死則母鯨不忍去、而以身掩子愛惜者甚」——子鯨が完全に死ぬと母鯨は逃げ去るが、半死なら母鯨は去るに忍びず身をもって子を覆う——。同書はこれを「刺鯨家之定法」(鯨を刺す家の定法)と記しています。
元禄10年(1697年)に刊行された、食べ物を項目ごとに説明した本です。
巻頭の著者名は「丹岳野必大千里父」で、ふつう人見必大と呼ばれます。鯨は巻九の最初の項目で、六種の呼び分け、捕る季節、子連れの鯨の捕り方、座頭鯨の名の由来までが書かれています。国立国会図書館デジタルコレクションで原本の画像が公開されています。
「一勇斎国芳」の署名がある「捕鯨の図」が国立国会図書館に残っています(NDL PID:1305794)。
綱をかけた巨大な鯨を大勢が水の中で引く場面と、沖で舟団が別の鯨を囲む場面が一枚に描かれています。パブリックドメインとして公開されています。
この記事で開いた原本
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