「とどのつまり」の語源はボラ——江戸『魚鑑』が書いた成長名
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天保二年(1831年)の序がある武井周作の魚の事典『魚鑑(うおかがみ)』は、ボラの名前を年齢順に並べたあと、「十歳以上をとゞといふといへり」で止めています。「とどのつまり」は、結局のところ、行き着くところ、という意味で、その語源がこの魚の最後の名前「とど」だと言われるのは、ここから先にもう名前がないからです。
江戸の本には、ボラの名前の多さに首をかしげた学者の一文や、カラスミがどの魚の子かで食い違う記述も残っていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ12・著作権保護期間満了)
ボラの出てくる本を探す入口にしたのは、神宮司庁が編んだ古典籍の巨大な引用集『古事類苑(こじるいえん)』です。テーマごとにあちこちの本の該当箇所を活字で抜き書きして並べた本で、その動物部(明治四十三年=1910年刊。NDL PID:1874269)では、コマ718から721までの見開き4つに、『日本書紀』や平安時代の辞書から江戸の本草書まで、三十ほどの抜き書きが並んでいました。名前の挙がった本の原本を一冊ずつ開いていくうちに、いちばん働いてくれたのが『魚鑑』でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑 2巻』・NDL PID:2557482 コマ18・著作権保護期間満了)
江戸の武井周作(号は櫟涯)が魚をいろは順に並べた上下2巻の事典なので、巻頭は「いの部」、その最初の項目が「いな」、つまりボラです。江戸の魚の事典を開いていちばん最初に出てくるのがボラだったのは、都合のいい偶然でした。その「いな」の項を五行ほど読み進めたところで、手が止まります。
十歳以上を「とゞ」という
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑 2巻』・NDL PID:2557482 コマ19・著作権保護期間満了)
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初生をおぼこといひ、微しく育たるをゑふなといふ。閩書南産志及南寧府志に撥尾といふ。二歳のものをいなといひ、三歳をすばしりといふ。閩志には䰵魚と名づく。四歳以上をぼらといふ、即鯔魚なり。十歳以上をとゞといふといへり。其初め浅瀬に生ず
現代語訳
生まれたてを「おぼこ」といい、少し育ったものを「ゑふな(えぶな)」という。二歳のものを「いな」、三歳を「すばしり」という。四歳以上を「ぼら」といい、これが鯔魚である。十歳以上を「とゞ」という、と言われている。
「初生をおぼこといひ、微しく育たるをゑふなといふ」。生まれたてがおぼこで、少し育つとゑふな(えぶな)。「二歳のものをいなといひ、三歳をすばしりといふ」と続き、「四歳以上をぼらといふ、即鯔魚なり」で、四歳を過ぎてようやくぼらになります。そして最後の一行が「十歳以上をとゞといふといへり」です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑 2巻』・NDL PID:2557482 コマ19・著作権保護期間満了)
結びの「といへり」は、と言われている、という伝え聞きの形なので、周作が自分で決めた名前ではなく、世間でそう呼ぶという書き方に見えます。おぼこ、ゑふな、いな、すばしり、ぼら、とど、とひとつの魚に六つの名前が並び、「とど」の先はありません。いまの辞書も「とどのつまり」の語源をここに求めていて、デジタル大辞泉は「ボラは成長するとともに名称が変わり、最後にトドという名になるところから」と説明しています。
江戸では六月十五日に名前が変わった
成長名はふつう大きさで変わるものですが、ボラにはそれだけでは説明のつかない呼び分けがありました。安永四年(1775年)に越谷吾山が編んだ方言辞典『物類称呼』です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『物類称呼 5巻』・NDL PID:2539349 コマ29・著作権保護期間満了)
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一説に此魚河と海との潮境を往来する頃を賞して洲走の名有とぞ江戸にては六月十五日より洲走を呼、十四日迄をいなと云也、九月にいたり
現代語訳
一説に、この魚が川と海との潮の境を行き来するころを賞して「洲走」の名がある、という。江戸では六月十五日から「洲走」と呼び、十四日までを「いな」というのである。九月になると……
まず「すばしり」という名前の由来が二つ書いてあって、ひとつめは漁のしかたから、「漁人簀の四方に網を張て是をとるを簀引と云、因て簀走の名有」、漁師が簀(す)の四方に網を張って獲ることを「簀引(すびき)」といい、そこから「簀走」の名がある、というもの。もうひとつは「一説に此魚河と海との潮境を往来する頃を賞して洲走の名有とぞ」で、川と海の境目を行き来するころを賞して「洲走」と呼ぶ、という説です。同じ「すばしり」でも、字が「簀」から「洲」に変わっています。
問題はその次の行です。
「江戸にては六月十五日より洲走を呼、十四日迄をいなと云也」。
魚の大きさではなく、カレンダーです。六月十四日に「いな」だった魚が翌日には「すばしり」になるわけで、同じ魚が一晩で改名させられていたことになります。
ただの漁師の戯れの呼び名か
この名前の多さに正面から疑いをぶつけたのが、元禄十年(1697年)刊の食物本『本朝食鑑』を書いた人見必大でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ168・著作権保護期間満了)
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大者鯔・口女・伊勢鯉・名吉・腹便・鮥、小者江鮒・簀走之類、海俗所謂、自小至大、逐年有名、然未詳之、但漁家之戯稱乎
現代語訳
大きいものは鯔・口女・伊勢鯉・名吉・腹便・鮥、小さいものは江鮒・簀走のたぐい。漁師たちのいう、小さいものから大きいものまで年を追って名がある、というものだ。しかしまだ詳しくはわからない。ただ漁師の戯れの呼び名だろうか。
名前の由来を説明する「釈名」の欄に、小さな字の二行割りで「大者鯔・口女・伊勢鯉・名吉・腹便・鮥、小者江鮒・簀走之類」と名前がずらりと並び、大きいものは鯔、口女(くちめ)、伊勢鯉、名吉(なよし)、腹便、鮥、小さいものは江鮒、簀走のたぐい、とあります。そのうえで「海俗所謂、自小至大、逐年有名」、漁師たちがいう、小さいものから大きいものまで年を追って名がある、というものだと説明してから、必大はこう突き放します。
「然未詳之、但漁家之戯稱乎」。
しかしまだ詳しくはわからない、ただの漁師の戯れの呼び名だろうか。漁師たちの呼び分けに、必大は首をかしげていました。
名前の話は神話から始まっている
ボラがこんなに名前を持たされた手がかりは、ずっと古いところにあります。ボラの古い名は「口女(くちめ)」といい、この名は『日本書紀』の神代巻の、なくした釣針を海神が海の魚たちに尋ねて探してやる場面に出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ721・著作権保護期間満了)
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〔日本書紀神代二〕一書曰、時海神便起憐心、盡召鰭廣鰭狹而問之、皆曰不知、但赤女有口疾不來、亦云有口女口疫、卽急召至、探其口者、所失之鉤立得、於是海神制曰、儞口女、從今以往、不得吞餌、又不得預天孫之饌、卽以口女魚所以不進御者其緣也、
現代語訳
海神は憐れみを起こし、大きな魚小さな魚をことごとく召し出して尋ねたが、皆「知らない」と言う。ただ赤女だけが口の病で来ない(口女ともいう)。すぐに召し出して口の中を探ると、失くした釣針がたちまち見つかった。そこで海神が命じた。「おまえ口女よ。今から後は餌を呑んではならない。また天孫の食膳に加わることもならない」。口女の魚を御膳に出さないのは、これがゆえんである。
海神が魚たちを召し集めて針の行方を尋ねても、みな知らないと答えます。「但赤女有口疾不來、亦云有口女口疫」、ただ赤女だけが口の病で来ない、口女が口を病んでいたともいう、というので呼びつけて口の中を探ると、「所失之鉤立得」、なくした釣針がたちまち出てきました。海神はこう申し渡します。
「儞口女、從今以往、不得吞餌、又不得預天孫之饌」。
おまえ口女よ、今から後は餌を呑んではならない、また天孫の食膳に加わることもならない、という罰で、「卽以口女魚所以不進御者其緣也」、口女の魚を御膳に出さないのはこれがゆえんである、と結ばれます。
気をつけたいのは、口の病で来なかった魚がこの一書では「赤女」で、「口女」は「亦云(またいう)」として添えられた別の伝えだということです。『古事類苑』はすぐあとにもう一つの一書を引いていて、そちらでは海神が赤女と口女を呼んで問い、口から針を出して差し出したのは口女、そのうえで「赤女卽赤鯛也、口女卽鯔魚也」と二匹を書き分けています。伝えによって針をのんだ魚の名は揺れていても、海神が「儞口女」と呼びかけて罰した相手は口女で、口女をボラと読むなら、ボラは神話のなかで御膳に出してはならない魚と名指しされた魚だったことになります。
だから「名吉」と呼び替えた
『魚鑑』の「いな」の項は、書き出しで名前の話をしています。「いな 和名抄にいふなよし」、平安時代の辞書『和名類聚抄』では「なよし」という、と書いて、「即名吉の字音なり。古も名のよきに因するや」と続け、「なよし」は「名吉」の字音で、昔から名の良さにちなんだのだろうか、と問いの形で止めています。
これを神話とはっきり結びつけたのが、『古事類苑』がボラの名前の項に引く伴信友の随筆『比古婆衣(ひこばえ)』です。信友はまず、この魚は延喜式の諸国からの進御にも御饌の料にも載っていないと指摘したうえで、「なよし」は名吉の意味で、「かの不得預天孫之饌、卽以口女魚所以不進御者、此其緣也、とある古事を、忌々しみて、此を食料とするうへに、言忌して名吉と呼かへたるものなるべし」と書いています。あの神話を忌まわしく思い、それでも食べ物にするので、言葉を慎んで名吉と呼び替えたのだろう、という考証です(出典:『古事類苑』動物部 所引『比古婆衣』三、NDL PID:1874269 コマ718)。忌まれた魚に「良い名」という名をつけた、と江戸の考証家は読んだわけです。
この「名吉」は、正月の門口にも立っていました。冒頭の図を描いた毛利梅園は、ボラの頭の左に細かく書き込みをしています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ12・著作権保護期間満了)
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紀貫之ノ記ニカドノシリクメナワ名吉ノ頭柊ト云ル者此魚也イツノ世ニ歟除夜ニ赤鰯ノ頭ヲナス事トナリ又
現代語訳
紀貫之の記(土左日記)に「門のしりくめなわ、名吉の頭、柊」とあるのは、この魚のことである。いつの世からか、除夜に赤鰯の頭を用いるようになった。
「紀貫之ノ記ニ、カドノシリクメナワ名吉ノ頭柊ト云ル者此魚也」。紀貫之の記、つまり『土左日記』に門のしりくめなわ、名吉の頭、柊とあるのはこの魚のことだ、というのです。その一節は『古事類苑』にも、承平五年正月元日の条と注記して引かれていて、「こゝのへのかどのしりくめなはの、なよしの頭、ひゝらぎら、いかにとぞいひあへる」、都の門のしめ縄に挿したボラの頭や柊はいまごろどうしているだろう、と旅先で言い合った場面です。正月の門には、ボラの頭と柊が挿してあったことになります。
梅園はそのすぐあとに「イツノ世ニ歟除夜ニ赤鰯ノ頭ヲナス事トナリ」と書き足していて、ボラの頭の役目を、いつの世からかイワシの頭が引き継いだ、という話になっています。節分の夜に柊と鰯の頭を門に挿す風習は、梅園自身が同じ本の鰯の図にも書き入れています(「鰯の頭も信心から」の記事)。
これとほとんど同じ話が、『魚鑑』の「いな」の項にもあります。巻頭ページの左半分、「名吉の字音」のすぐあとで、周作は紀貫之の記の同じ一節を挙げて「このうをゝいふなり」と書き、赤鰯に代わった理由まで推しています。「ほしかは田を作る用のものにて」、干鰯(ほしか)は田の肥料に使うものでどこの土地にも蓄えがあって手に入りやすいから「代へ用ひしにやいぶかし」、代わりに用いたのだろうか、はっきりしない、というのです。『魚鑑』の序は天保二年(1831年)で、梅園のボラの図の年記「壬辰」はその翌年の天保三年(1832年)にあたると見られるので、梅園の手元には『魚鑑』があったように見えます。そう考える理由は、次のカラスミの話でもっとはっきりします。
カラスミは誰の子か
いまのカラスミはボラの卵巣でつくりますが、江戸の本には、ボラには子(卵)がないと書いたものが出てきます。『魚鑑』のページをめくっていくと、本文の中に「からすみ」の見出しが立っていて、そのすぐあとに「俗に鱲の字を用ゆ。即この魚の」、続けて「こ」と読ませる魚へんの一字と「なり」、からすみはこの魚の子である、とあります。「いな」の項から読み進めてきた流れで開くと「この魚」はボラのことだと読みたくなるのですが、ページを一枚戻すと話が違っていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑 2巻』・NDL PID:2557482 コマ20・著作権保護期間満了)
「いな」の項は、このページの左側、食べたときの効き目を書いたところで終わっていて、そのすぐあとに次の項の見出し「いせごひ」が立っています。周作はこの項で「畿内にて呼ぶ、関東にめなだ」、畿内での呼び名で関東ではメナダという、と書いていて、ボラによく似た別の魚、メナダのことです。からすみの見出しは、この「いせごひ」の項の中にありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑 2巻』・NDL PID:2557482 コマ20・21・著作権保護期間満了)
つまり「この魚の子」の「この魚」はボラではなくメナダで、周作はボラのほうには子がないと書いています。「いな」の項の終わり近くの「且此魚陰陽の氣に化して生ずる故に數千ひらきみるに」は、この魚は陰陽の気が化して生まれるので何千尾開いてみても腹の中にひとつも子がない、という意味で、メナダの項ではその裏返しに「且此魚化生にあらず卵生にして、ぼらと異なり」と書いています。ボラは化生で子がなく、カラスミはメナダの子で、肥前のものを「尤上品なり」、備州・讃州のものは鰆(さわら)の子で「劣れり」とする、と『魚鑑』の中では話が一貫していました。梅園も、同じことを書いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻2・NDL PID:1287113 コマ48・著作権保護期間満了)
赤目魚、つまりメナダの図に添えた書き入れで、年記の「丙申」は天保七年(1836年)にあたると見られます。「カラスミ、俗ニ鱲ノ字ヲ用ユ、即此魚ノ子ナリ」、続けて「鯔魚ハ化生ニシテ」子(ふりがなは「コ」)がない、と書いているこの書き入れは、頭から読むと『魚鑑』の「いせごひ」の項とほとんど同じ文です。「其形状鯔魚ト一般ニシテ」は『魚鑑』の「其状鯔魚と一般にして」、「此魚化生ニアラス卵生ニシテ鯔魚ト異ナリ」は「此魚化生にあらず卵生にして、ぼらと異なり」で、志州鳥羽の筒込、カラスミ、肥前産が上品、鰆の子は下品と、並ぶ順番まで同じでした。梅園は『魚鑑』の記述をほとんどそのまま書き写していたように見えます。
ただ、江戸の本がみなボラには子がないと書いていたわけではありません。百三十年ほどさかのぼる『本朝食鑑』の鯔の項には「子」の欄があり、「按勢州土州産者多子、餘州産者全無焉、連胞乾者號唐墨」、伊勢や土佐のものは子が多くほかの国のものにはまったくない、袋ごと干したものを唐墨という、と書いたうえで、鰆の唐墨より色が黄赤で味もまさる、と続けています(出典:『本朝食鑑』巻八、NDL PID:2557333 コマ170・171)。必大は、ボラの子で唐墨をつくると考えていたことになります。
それでいて同じ項の「附録 女那多魚(めなだ)」の欄には、「漁家稱鯔有子者、悉女那多之種也」、子のあるボラはみな女那多(メナダ)の類だという漁師の言い分を書き留め、「是似有理」、これは理があるようだ、とも添えています。元禄の必大の中でも話はまだ決まっておらず、百三十年あとの『魚鑑』と梅園は、そのうちのメナダの子の側をはっきり選んだ本でした。
いまは、農林水産省の地理的表示(GI)に登録されている「長崎からすみ」の明細書が「原料はボラの卵巣のみとし」と定めていて、登録ページには、江戸時代にその製法が考案され、150年もの間、将軍家に献上された、とも書かれています。ボラには、ちゃんと卵があったのです。
とどのつまり
神話で御膳に出すなと名指しされ、それを忌んで「名吉」と呼び替えられたと考証され、正月の門に頭を挿され、成長するたびに名前を変え、江戸では暦の日付でまで呼び名を切り替えられた魚です。人見必大がただの漁師の戯れの呼び名だろうかと首をかしげたのも、無理はありません。それだけ名前を重ねた末に最後に残った一語が「とど」で、そこから先はもう名前がない。とどのつまりです。
使った資料
資料 | この記事で使った箇所 | 条件 |
|---|---|---|
『魚鑑』巻之上(武井周作・天保2年=1831年序/NDL PID:2557482) | コマ18=「いな」の項の書き出し・「名吉」の字音・紀貫之の記と赤鰯/コマ19=おぼこ〜とゞの成長名/コマ20=「いな」の項の終わり(ボラに子がない)と「いせごひ」(メナダ)の項の始まり/コマ21=からすみ | 著作権保護期間満了 |
『物類称呼』巻之二(越谷吾山編・安永4年=1775年/NDL PID:2539349) | コマ29=「簀走」「洲走」の名の由来と、江戸で六月十五日を境に「いな」「洲走」を呼び分けた記述 | 著作権保護期間満了 |
『本朝食鑑』巻八(人見必大・元禄10年=1697年刊/NDL PID:2557333) | コマ168=鯔の釈名と「但漁家之戯稱乎」/コマ170・171=鯔の子と唐墨、附録の女那多魚 | 著作権保護期間満了 |
『古事類苑』動物部十七 魚中(神宮司庁編・明治43年=1910年/NDL PID:1874269) | コマ718=所引『比古婆衣』(名吉と呼び替えた理由)/コマ721=所引『日本書紀』神代巻(口女)・所引『土左日記』(なよしの頭) | 著作権保護期間満了 |
『梅園魚品図正』巻1・巻2(毛利梅園・天保6年序/NDL PID:1287112・1287113) | 巻1 コマ12=鯔魚の彩色図と貫之・赤鰯の書き入れ/巻2 コマ48=赤目魚の彩色図とカラスミの書き入れ | 著作権保護期間満了 |
農林水産省 地理的表示(GI)登録 第132号「長崎からすみ」(登録ページ・明細書) | 現在のからすみの原料と歴史 | 公的機関の公開情報 |
出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『魚鑑 2巻』 / 『物類称呼 5巻』 / 『本朝食鑑』 / 『古事類苑』動物部 / 『梅園魚品図正』巻1 / 同 巻2 / 農林水産省「長崎からすみ」GI登録 / 同 明細書(PDF) / デジタル大辞泉「とどのつまり」(コトバンク)
この記事でわかったこと
そう説明されています。
デジタル大辞泉は「とどのつまり」の語源を「ボラは成長するとともに名称が変わり、最後にトドという名になるところから」と説明しています。実際、天保二年(1831年)序の『魚鑑』巻之上「いな」の項には「四歳以上をぼらといふ、即鯔魚なり。十歳以上をとゞといふといへり」とあり、ボラの成長名の最後が「とゞ」であることが江戸時代の文献で確認できます。『魚鑑』の並びでは、「とど」より先の呼び名はありません。
『魚鑑』巻之上(NDL PID:2557482 コマ19)は「初生をおぼこといひ、微しく育たるをゑふなといふ」「二歳のものをいなといひ、三歳をすばしりといふ」「四歳以上をぼらといふ、即鯔魚なり」「十歳以上をとゞといふといへり」と記しています。おぼこ→ゑふな(えぶな)→いな→すばしり→ぼら→とど、の六段階です。最後は「といへり(と言われている)」という伝聞の形です。安永四年(1775年)の『物類称呼』は、加賀の「ちよぼ」、土佐の「いきなご」など、国ごとに違う呼び名も書き並べています。
『物類称呼』巻之二(安永四年/NDL PID:2539349 コマ29)にその記述があります。
「江戸にては六月十五日より洲走を呼、十四日迄をいなと云也」——江戸では六月十五日から「洲走(すばしり)」と呼び、十四日までは「いな」という、と書かれています。魚の大きさではなく暦の日付で呼び名を切り替えていたことになります。同じ箇所には、漁師が簀の四方に網を張って獲る「簀引」から「簀走」の名がついたという説明と、この魚が川と海の潮の境を行き来するころを賞して「洲走」の名があるという「一説」も並べて書かれています。
『魚鑑』は「いな」の項の書き出しで「和名抄にいふなよし」とし、「即名吉の字音なり。
古も名のよきに因するや」——「なよし」とは「名吉」の字音で、昔から名の良さにちなんだのだろうか——と問いの形で書いています。一方、ボラの古名「口女(くちめ)」は『日本書紀』神代巻に登場し、海神から「不得預天孫之饌」(天孫の食膳に加わることはできない)と申し渡された魚として記されています。『古事類苑』に引かれた伴信友の『比古婆衣』は、この神話を忌まわしく思い、食べ物にするうえで言葉を慎んで「名吉」と呼び替えたのだろう、と推しています(NDL PID:1874269 コマ718)。
現在の「長崎からすみ」は、農林水産省の地理的表示(GI)登録の明細書で「原料はボラの卵巣のみとし」と定められています。
ただし江戸時代には見解が割れていました。元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』は、伊勢・土佐のボラは子が多く、袋ごと干したものを唐墨という、と書く一方、漁師が「子のあるボラはみな女那多(メナダ)の類だ」と言うことも記し、「是似有理」と添えています。天保二年(1831年)序の『魚鑑』は、ボラは陰陽の気が化して生まれるので子がないとし、からすみを次の項「いせごひ」(メナダ)の子としています。毛利梅園の『梅園魚品図正』の赤目魚(メナダ)の図の書き入れも、ほぼ同じ文で「カラスミ、俗ニ鱲ノ字ヲ用ユ、即此魚ノ子ナリ」と書いています。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻1
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 魚鑑 2巻.[1]
武井周作 天保2 [1831]
- 物類称呼 5巻
越谷吾山 編 安永4 [1775]
- 本朝食鑑 12巻.[2]
丹岳野必大千里 著 [江戸時代]
- 梅園魚品図正.巻2
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
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