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魚と貝

塩引鮭は産地で味が違った——「越のは軟らかく、奥のは堅い」

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この記事の目次

元禄二年(1689年)の料理書『合類日用料理抄』のコマ68から73までをめくると、サケの見出しが続き、その中に「奥州子籠」「越後子籠」と、産地の名前を冠した塩引鮭の項目が別々に立っています。スーパーの塩鮭にも産地は書いてありますが、料理の名前そのものに産地が入ることは、いまはまずありません。江戸の料理書は塩引鮭を産地ごとに呼び分けていて、食物の本のほうには、産地によって身がどう違うかまで書き込まれていました。

『梅園魚品図正』2帖コマ35のサケの彩色図
見出しの字は魚へんに「生」の「鮏(サケ)」。書き入れの左端に「乙未南呂十有九日 真寫」とある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』2帖・NDL PID:1287113 コマ35・著作権保護期間満了)

料理書の見出しに、奥州と越後が並ぶ

料理書のような実用書は、国立国会図書館よりも大学図書館や専門の資料館に散らばっていることが多く、『合類日用料理抄(ごうるいにちようりょうりしょう)』も、国書データベースで味の素食の文化センターの蔵書として読めたものです。サケの見出しを拾っていくと、「奥州子籠」「越後子籠」「越後鮭の披」「子なし鮭の塩引」と、産地の名前が料理の名前の一部になっています。

『合類日用料理抄』コマ71の「○奥州子籠(をくしうこごもり)」の項目
見出しの右わきに読みがなが添えてある。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

「奥州子籠」の奥州は陸奥(むつ)のことで、次のページには「越後子籠」があります。

『合類日用料理抄』コマ72の「○越後子籠(ゑちごこごもり)」の項目
同じ「子籠」でも、奥州と越後で項目が分けて立てられている。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

同じ「子籠」なのに、わざわざ二つの項目に分けて書いているので、当時の人は奥州のものと越後のものを別の品として見ていたようです。何が違うと考えていたのかは、料理書の短い見出しからは分かりませんが、同じころの別の本がそれを言葉にしていました。

「越のは軟らかく、奥のは堅い」

元禄10年(1697年)に刊行された人見必大(ひとみ・ひつだい)の『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』は、食べ物になる魚や鳥獣を一種ずつ、名前・かたち・味・薬効の順に解説した本で、その巻七のサケの項に「塩引」という小見出しが立っています。

『本朝食鑑』巻七、塩引の項の書き出しと翻刻
左が原本の該当する列(赤枠)、右がその翻刻と現代語訳。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ141・著作権保護期間満了)
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塩引 集解 近世所有諸州造之然以越後陸奥為

現代語訳

塩引——近ごろはあちこちの国でこれを造っている。しかし越後と陸奥のものを(上品とする)。

書き出しは「近世所有諸州造之」で、近ごろはあちこちの国で造っているとしたうえで、「然以越後陸奥為上品」、しかし越後と陸奥のものを上品とする、と続けます。ページをめくると、その「上品」の中身がさらに書き分けられています。

『本朝食鑑』巻七、塩引の上品について述べた箇所と翻刻
赤枠は該当する2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)
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翻刻

上品越者軟奥者堅倶深紅色味極美同藏之至明年春夏而堅固不臭腐也州之守令年年貢獻

現代語訳

(越後・陸奥のものを)上品とする。越のものは軟らかく、奥のものは堅い。どちらも深紅色で、味はきわめてよい。同じく蔵に納めて翌年の春夏になっても、堅く締まったまま、臭くなったり腐ったりしない。その国の守(領主)が毎年これを献上している。

「上品越者軟奥者堅倶深紅色味極美」。越のものは軟らかく、奥のものは堅く、どちらも深紅色で味はきわめてよい、という一文です。

『本朝食鑑』巻七コマ142の「越者軟」「奥者堅」の大写し
右が「越者軟」、左がその続きの「奥者堅」。1列を2つに切って並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)

「越」と「奥」は直前の文の越後と陸奥のことで、同じ塩引でも、産地によって身の締まり方が違うところまで書き分けていたことになります。さらに「同藏之至明年春夏而堅固不臭腐也」と、蔵に納めて翌年の春夏になっても堅く締まったまま、臭くも腐りもしないと書き、「州之守令年年貢獻」、その国の守(領主)が毎年これを献上している、と結んでいます。料理書が「奥州子籠」と「越後子籠」を別の項目にしていたのも、この書き分けと重なって見え、同じ作り方でも産地が違えば別のものとして扱われていたようです。

子を腹に戻して封じるから「子籠」

その「子籠(こごもり)」の作り方も、『本朝食鑑』がそのまま書き残しています。

『本朝食鑑』巻七、子籠の製法を記した箇所と翻刻
赤枠は該当する4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)
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翻刻

之其造法采鮮鮭去鱗腮割腹搜棄諸腸洗浄填子胞封腹口淹塩水一晝夜採出陰乾一兩日待乾又淹塩水者如初採出陰乾待乾用稲草堅封而陰乾經月餘而收用之此謂子籠本朝式所謂内子鮭也有不填子者此尋常塩引而秋田松前

現代語訳

その造り方は、新しい鮭をとって鱗とえらを除き、腹を割いてはらわたをすべてかき出し、洗い浄めて卵の袋を詰め、腹の口を封じる。塩水に一昼夜漬け、取り出して一両日陰干しにする。乾いたらまた塩水に漬け、初めと同じように取り出して陰干しにする。乾いたら稲藁で堅く封じ、陰干しにして一月あまり置いてから収めて使う。これを「子籠」という。『本朝式』のいわゆる「内子鮭」である。卵を詰めないものもあり、これが尋常の塩引である。そして秋田・松前の(次の列へ続く)

手順を順に追うと、次のようになります。

  • 新しい鮭をとって、鱗とえらを除く
  • 腹を割いて、はらわたをすべてかき出す
  • 洗い浄めて、卵を詰めて腹の口を封じる
  • 塩水に一昼夜漬け、取り出して一両日陰干し
  • 乾いたらまた塩水に漬け、同じように陰干し
  • 稲藁で堅く封じ、陰干しにして一月あまり置く

腹から出した卵を、洗った腹にまた詰め直して封じるので、子が籠もっている、つまり子籠です。『本朝食鑑』は続けて、これが『本朝式』でいう「内子鮭」だと書いています。

『本朝食鑑』巻七コマ142の「内子鮭」の大写し
列の頭の3字「内子鮭」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)

一字目は「肉」に見えるかもしれませんが、大きくすると冂(けいがまえ)の中の「人」はひとつだけで、人が二つ重なる「肉」ではなく「内」です。子を内に入れた鮭という名前は、子が籠もるという「子籠」と、同じことを別の字で言っているように見えます。

必大が『本朝式』として引くものは平安時代の『延喜式』と中身が重なっていて、明治43年刊の『古事類苑』動物部が活字で引く『延喜式』主計の条にも、「楚割鮭」「内子鮭」「鮭背腸」「鮭氷頭」が並んでいます(NDL PID:1874269 コマ669)。卵を詰めないものは「尋常の塩引」、つまり普通の塩引で、子入りかどうかで名前が変わり、料理書の側にもちゃんと『合類日用料理抄』コマ72の「子なし鮭の塩引」という項目が立っています。

秋田・松前が最上だった

産地の序列は、子籠の説明のあとでもう一段細かくなります。「秋田松前之貢最為絶勝 越後越中次之」、秋田と松前の貢ぎ物がもっともすぐれていて、越後・越中がこれに次ぐ、という一文です。塩引の「上品」は越後・陸奥で、貢ぎ物の絶勝は秋田・松前というふうに、元禄のころにはサケの産地の評価が、ここまで具体的な国の名前で語られていました。

『合類日用料理抄』コマ72の「○越後鮭の披(ゑちごさけのひらき)」の項目
「披(ひらき)」は開いて干したもの。ここでも産地が項目名に入っている。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

頼朝がもらって喜んだ「楚割」

秋田・松前の話のすぐあとで、必大は「楚割(すはやり)」という古い名前を持ち出します。

『本朝食鑑』巻七、鮭の楚割にまつわる逸話と翻刻
赤枠は秋田・松前の評価から楚割の話までの5列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)
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之貢最爲絶勝越後越中次之按古之楚割源順曰魚條俱訓須波夜利或曰曽和利是今塩引之類也乎源頼朝入洛時宿于遠州菊河驛佐佐木盛綱副小刀于鮭楚割而進之頼朝甚喜謝以歌此盛綱領越後之故也他日進生鮭亦然凡自古

現代語訳

(秋田・松前の)貢ぎ物がもっともすぐれ、越後・越中がこれに次ぐ。思うに、昔の「楚割」は、源順が「魚條」と書くもので、どちらも「すはやり」と訓む。「そわり」ともいう。これは今の塩引のたぐいだろうか。源頼朝が京へのぼるとき、遠江の菊河の宿に泊まった。佐々木盛綱が小刀を鮭の楚割に添えて差し出すと、頼朝はたいへん喜び、歌で礼をした。これは盛綱が越後を領していたからである。後日、生の鮭を献じたときも同じであった。

「按古之楚割」と書き出し、源順(みなもとのしたごう)はこれを「魚條」と書き、どちらも「須波夜利(すはやり)」と訓み、「曽和利(そわり)」ともいう、と続けたうえで、「是今塩引之類也乎」と問いの形で置いています。この段は、塩引という食べ物の昔の姿を探している段で、頼朝の話はその流れのなかで出てきます。

「源頼朝入洛時宿于遠州菊河驛 佐佐木盛綱副小刀于鮭楚割而進之 頼朝甚喜謝以歌」。源頼朝が京へのぼる途中、遠江国の菊河の宿に泊まったとき、佐々木盛綱が小刀を鮭の楚割に添えて差し出し、頼朝はたいへん喜んで歌を詠んで礼をした、という話です。小刀を添えたのは、切り分けて食べてくださいという心づかいのように見えます。

必大はそこに「此盛綱領越後之故也」と一言添えていて、盛綱が越後を領していたから越後の鮭を差し出せたのだ、という説明になっています。後日、生の鮭を献じたときも同じだった(「他日進生鮭亦然」)とも書いているので、この本のなかで越後の鮭は、献上や贈り物の話と何度も結びついていることになります。

頭の骨は、氷のように澄み徹る

サケで使うのは身だけではなく、『本朝食鑑』はサケの項のなかに「氷頭」という小見出しも立てています。

『本朝食鑑』巻七、氷頭の項と翻刻
赤枠は該当する4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)
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氷頭 本朝式主計有鮭氷頭合作一斤丹後信濃越中越後倶貢之源順訓比豆是今之作鱠氷頭而鮭之頭骨如氷之澄徹者也古者淹之傳送于司寮乎其味甘美而脆軟也

現代語訳

氷頭——『本朝式』(延喜式)の主計の条に「鮭氷頭合作一斤」とあり、丹後・信濃・越中・越後がともにこれを貢いだ。源順は「比豆(ひづ)」と訓んでいる。これが今の鱠にする氷頭で、鮭の頭の骨が氷のように澄み徹ったものである。昔はこれを塩漬けにして役所へ送ったのだろうか。味は甘くうまく、ぱりっと軟らかい。

氷頭とは「而鮭之頭骨如氷之澄徹者也」、鮭の頭の骨で、氷のように澄み徹っているもののことで、名前の「氷」とそのまま重なる説明です。「是今之作鱠氷頭」、これが今、鱠(なます)にする氷頭だとし、味は「其味甘美而脆軟也」、甘くうまくて、ぱりっと軟らかいと書いています。

この項にはもうひとつ古い話が入っていて、「本朝式主計有鮭氷頭合作一斤 丹後信濃越中越後倶貢之」、つまり『本朝式』(延喜式)の主計の条に「鮭氷頭」があり、丹後・信濃・越中・越後がこれを納めていた、とあります。『延喜式』は、農林水産省の郷土料理の解説では平安時代前期の926年のものとされているので、頭の部分だけを取り分けて納める決まりが、その時代にすでにあったことになります。

天保の図譜は、子籠と氷頭を続けて書いていた

それから140年ほど後、毛利梅園(もうり・ばいえん)が魚を一尾ずつ彩色で写し、余白に諸書の説を書き入れた『梅園魚品図正』にも、同じ話が出てきます。NDLの書誌では天保6年(1835年)の序があり、冒頭に置いたサケの図はその2帖にあります。書き入れを右から読むと、まず字の話で、見出しの字は「鮭」ではなく魚へんに「生」の「鮏」です。梅園は、世間でサケに「鮭」の字を使うのは誤りで「鮭」は鯸鮐という別の魚の名だとし、「鮏鮭似テ誤ルナルベシ」、字が似ているので取り違えたのだろう、と推しています。

その少し先にあるのが「神祇式ニ曰所ノ内子鮏ハ奥仙臺ヨリ出ス 鮞ノ塩引也」で、「鮞」の左わきには小さく「コヽモリ」と読みが添えてあります。必大が『本朝式』の「内子鮭」を子籠だとしたのと同じ組み合わせを、梅園は奥州仙台の産として書いていたわけです。

『梅園魚品図正』2帖コマ35、サケの図に添えられた書き入れ3列と翻刻
赤枠は「第一トス神祇式」から「其子ヲ鮞ト云」までの3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287113 コマ35・著作権保護期間満了)
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翻刻

第一トス神祇式ニ曰所ノ内子鮏ハ奥仙臺ヨリ出ス鮞ノ塩引也頭ノ内ノ油骨ヲヒヅト云鱠ノ第一品トス和名抄ニ鮏脊腸ヲミナワタト云其子ヲ鮞ト云

現代語訳

(利根川のものを)第一とする。神祇式にいう「内子鮏」は奥州の仙台から出す。鮞(左わきに「コヽモリ」と読みを添える)の塩引である。頭の内側の油骨を「ヒヅ」といい、鱠の第一品とする。『和名抄』には鮏の脊腸を「ミナワタ」といい、その子を「鮞(ハラヽゴ)」という。

そのすぐあとに氷頭が出てきて、「頭ノ内ノ油骨ヲヒヅト云 鱠ノ第一品トス」、頭の内側の油骨を「ヒヅ」といい鱠の第一品とする、とあります。さらに「和名抄ニ鮏脊腸ヲミナワタト云」と続き、『本朝食鑑』が源順の訓として挙げた「美奈和太」と同じ読みを、梅園は『和名抄』の説として書いています。

背腸は「せはた」、源順は「みなわた」

その背腸(せわた)も、『本朝食鑑』では独立した小見出しになっています。

『本朝食鑑』巻七、背腸(せわた)の項と翻刻
赤枠は該当する3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ142・著作権保護期間満了)
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翻刻

背腸 訓世波多源順訓美奈和太本朝式主計有鮭背腸丹後信濃越之中後倶貢之是今之醢而常奥越倶獻之味亦佳也

現代語訳

背腸——「世波多(せはた)」と訓む。源順は「美奈和太(みなわた)」と訓んでいる。『本朝式』(延喜式)の主計の条に「鮭背腸」とあり、丹後・信濃・越の中と後(越中・越後)がともにこれを貢いだ。これが今の醢(ふりがなは「シホカラ」と読める)で、常陸・陸奥・越がともに献じている。味もまたよい。

「背腸 訓世波多 源順訓美奈和太」。「世波多(せはた)」と訓み、源順は「美奈和太(みなわた)」と訓んだ、という書き出しのあと、ここでも「本朝式主計有鮭背腸 丹後信濃越之中後倶貢之」と『延喜式』を引いていて、「鮭背腸」を納めていたのは丹後・信濃と「越の中・後」、つまり越中・越後で、氷頭とまったく同じ四か国です。

最後は「是今之醢而常奥越倶獻之味亦佳也」で、これが今の醢で、常陸・陸奥・越がともに献じており、味もまたよいとしています。「醢」の字の横には「シホカラ」と読めるふりがなが振ってあり、今の塩辛のことです。頭の骨と背腸という、身ではない部分にも平安時代から名前がつき、国が納める品目になっていました。

筋子も「越奥の産を上品とす」

卵の評価も、身と同じ物差しで書かれています。

『本朝食鑑』巻七、筋子の産地評価と翻刻
赤枠は該当する2列。文は右の列の末尾から続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ143・著作権保護期間満了)
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翻刻

凡筋子鮞子倶以越奥之産為上品

現代語訳

およそ筋子も鮞子(はららご)も、ともに越・奥の産を上品とする。

「凡筋子鮞子倶以越奥之産為上品」、筋子も鮞子も、ともに越・奥の産を上品とする、という一文です。

『本朝食鑑』巻七コマ143の「凡筋」「子鮞子」の大写し
右が列の末尾の「凡筋」、左が次の列の頭の「子鮞子」。2つの列から切り出して並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ143・著作権保護期間満了)

「筋子」のあとの字は「細」ではなく、魚へんに「而」の「鮞」で、この項の見出しがこの字です。必大は俗に「波良羅子(はららご)」と訓み、鮭の子のことだと書いています。作り方も分けていて、筋子(と甘子)は袋ごと漬けたもの、鮞子は袋ごと一両日漬けてから袋を裂き、一粒ずつ干して使うものです。身についても卵についても、評価の基準は越と奥でした。

皮まで項目になっている

国書データベースの書誌で延享2年(1745年)、著者を諸星吮潮斎とする『傳演味玄集(でんえんみげんしゅう)』は筆で書かれた料理書で、ここにもサケのつく品名がいくつも出てきます。そのなかに、こんな名前がありました。

『傳演味玄集』コマ51の「干鮭の皮」の項目
くずし字の手書きの本だが、この品名ははっきり読める。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

「干鮭の皮」と、別のところにもうひとつ。

『傳演味玄集』コマ97の「塩引鮭の皮」の項目
同じ本のなかで、干鮭の皮と塩引鮭の皮が別々に立てられている。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

「塩引鮭の皮」。皮が一品として名前を立てられていて、しかも干鮭の皮と塩引鮭の皮が別扱いになっています。

『本朝食鑑』のほうにも皮の使い道が書いてありますが、こちらは食べる話ではなく、乾鮭(からざけ)の項の、薬の処方を並べた「附方」のところです。指の腫れと痛み(「代指腫痛」)に、薬を患部につけて外から鮭の皮で堅く包めば治るとあり、そのあとに「塩引皮亦佳」、塩引の皮もまたよい、と添えられています(コマ144)。身も卵も頭も背わたも皮も、使い切るというより、それぞれに別の使い道が割り当てられていたように見えます。『傳演味玄集』には「鮭のひづ」、つまり氷頭という品名もあります。

『傳演味玄集』コマ34の「鮭のひづ」の項目
料理書の側にも氷頭の名が出てくる。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

二冊の料理書に立っていたサケの項目

『合類日用料理抄』コマ72の見開き
右の頁に「越後子籠」、左の頁に「越後鮭の披」。ひとつの見開きに産地つきの項目が並ぶ。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

二冊の料理書に出てきたサケの項目を本ごとにまとめておきます。いずれも国書データベースの画像タグ(人が読んでつけた見出し)と原本画像の両方で、名前を確認したものです。

『合類日用料理抄』(元禄2年・1689年)

  • コマ68 仙台流鮭之酢
  • コマ70 鮭子籠の鮨/久敷置鮭の鮨
  • コマ71 奥州子籠/鮭の黒漬
  • コマ72 越後子籠/越後鮭の披/子なし鮭の塩引
  • コマ73 塩鮭の持様
  • コマ87 鮭の煎物

『傳演味玄集』(延享2年・1745年)

  • コマ34 鮭のひづ
  • コマ42 塩引鮭/子篭鮭
  • コマ51 から鮭/干鮭の皮
  • コマ55 さけ塩引
  • コマ97 塩引鮭の皮
  • コマ101 からさけ

酢、鮨、黒漬、披、塩引、煎物、干し、皮、氷頭と並びます。本文はくずし字の版本・手書きの本で、ここでは名前しか読んでいませんが、この並びだけでも、サケという魚がどれだけ細かく分けて扱われていたかは伝わってきます。「塩鮭の持様(もちやう)」という項目まであって、「持様」は持たせ方のことなので、作り方ではなく日持ちのさせ方の項目のように見えます。

『合類日用料理抄』コマ73の「○塩鮭の持様(しほざけのもちやう)」の項目
作り方ではなく「持様(持たせ方)」で一項目を立てている。
出典:国書データベース/味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

村上の塩引き、岩手の氷頭なます

塩引鮭は、新潟県村上市の名物として今も作られています。新潟県の紹介によれば、三面川(みおもてがわ)で獲れた鮭の内臓を取り除いて水洗いし、塩をすり込んで1週間ほど置き、水で塩を抜いて軒下に数週間干す、という工程です。腹は全部を切らずに一部を残す「止め腹」と呼ばれる切り方で割き、これは切腹を嫌ったからだと説明されていて、吊るすときに頭を下に向けるのも首吊りを連想させないためだといいます。腹を割き、塩に漬け、陰干しにするという骨格は、『本朝食鑑』の子籠の手順とよく似ています。

氷頭なますも郷土料理として残っていて、農林水産省「うちの郷土料理」の岩手県の項は、氷頭を「鮭の頭の軟骨」と説明し、平安時代前期の『延喜式』(926年)にも朝廷への奉納記録があると記しています。そして「一匹からわずかしかとれない貴重なもので、珍味として珍重されている」とし、氷頭なますは「正月料理に欠かせない酢のもの」だとしているので、『本朝食鑑』が鱠にすると書いた食べ方が、名前ごと続いていることになります。

一匹を、名前で分ける

江戸の本を並べると、サケは一匹の魚としてではなく、子が入っているか(子籠/子なし)、産地はどこか(奥州/越後/秋田/松前)、どこの部分か(身/筋子・鮞子/氷頭/背腸/皮)、どう保存したか(塩引/干し/黒漬)の組み合わせとして扱われていました。そのひとつひとつに名前がついていて、料理書はそれをそのまま項目名にしています。「越のは軟らかく、奥のは堅い」と書き分けられるほどですから、食べ手の側もその違いを知っていたのかもしれません。

使った資料

資料

この記事で使った箇所

条件

『本朝食鑑』巻七(人見必大・元禄10年〈1697〉刊/NDL PID:2557333)

コマ141=塩引の書き出し/コマ142=上品の産地評価・子籠の製法と内子鮭・楚割と頼朝・氷頭・背腸/コマ143=筋子・鮞子の産地評価/コマ144=乾鮭の附方(塩引の皮)

著作権保護期間満了

『梅園魚品図正』2帖(毛利梅園・天保6年〈1835〉序/NDL PID:1287113)

コマ35=サケ(鮏)の彩色図と、内子鮏・氷頭・脊腸の書き入れ

著作権保護期間満了

『古事類苑』動物部(神宮司庁編・明治43年/NDL PID:1874269)

コマ669=『延喜式』主計の条(楚割鮭・内子鮭・鮭背腸・鮭氷頭)

著作権保護期間満了

『合類日用料理抄』(1689年/国書DB bid:100249511)

コマ68・70〜73・87=サケの項目名(奥州子籠・越後子籠・越後鮭の披ほか)

味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

『傳演味玄集』(延享2年・1745年/諸星吮潮斎/国書DB bid:100249413)

コマ34・42・51・55・97・101=サケの項目名(鮭のひづ・干鮭の皮・塩引鮭の皮ほか)

味の素食の文化センター蔵・国文学研究資料館 CC BY-SA 4.0

新潟県「越後村上鮭塩引き街道」

塩引き鮭の工程・止め腹・頭を下にして吊るす理由

新潟県公式サイト

農林水産省「うちの郷土料理」氷頭なます(岩手県)

氷頭の定義・『延喜式』(926年)の奉納記録・正月料理としての位置づけ

農林水産省

出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『梅園魚品図正』2帖 / 『古事類苑』動物部 コマ669 / 国書データベース『合類日用料理抄』 / 国書データベース『傳演味玄集』 / 新潟県「【村上】冬の風物詩『越後村上鮭塩引き街道』」 / 農林水産省「うちの郷土料理 氷頭なます 岩手県」

この記事でわかったこと

  • 子籠鮭は、腹から出した卵をまた腹に詰め直して封じ、塩水と陰干しをくり返して仕上げた鮭です。

    『本朝食鑑』巻七(元禄10年・1697年刊)に製法が書かれており、新しい鮭の鱗とえらを除いて腹を割き、はらわたを掻き出して洗い、卵を詰めて腹の口を封じ、塩水に一昼夜漬けて一両日陰干しにし、乾いたらまた塩水に漬けて同じように干し、稲藁で堅く封じて一月あまり陰干しにする、とあります。同書はこれを『本朝式』でいう「内子鮭」だとし、卵を詰めないものが普通の塩引だとしています。

  • 塩引鮭は越後と陸奥の産が上品とされていました。

    『本朝食鑑』巻七(1697年刊)は「近世所有諸州造之 然以越後陸奥為上品」と書き、さらに「越者軟奥者堅倶深紅色味極美」=越のものは軟らかく奥のものは堅い、どちらも深紅色で味はきわめてよい、と産地による違いまで書き分けています。貢ぎ物としては「秋田松前之貢最為絶勝 越後越中次之」=秋田・松前がもっともすぐれ、越後・越中がこれに次ぐとされました。筋子と鮞子(はららご)についても「凡筋子鮞子倶以越奥之産為上品」と、やはり越・奥の産が上品とされています。

  • 『本朝食鑑』巻七(1697年刊)の氷頭の項は、源順が「比豆」と訓んだとし、「是今之作鱠氷頭 而鮭之頭骨如氷之澄徹者也」=これが今、鱠にする氷頭で、鮭の頭の骨が氷のように澄み徹ったものだ、と説明しています。味については「其味甘美而脆軟也」=甘くうまくて、ぱりっと軟らかい、と書かれています。天保期の『梅園魚品図正』2帖コマ35にも「頭ノ内ノ油骨ヲヒヅト云 鱠ノ第一品トス」という書き入れがあります。

  • 『本朝食鑑』巻七(1697年刊)は「背腸 訓世波多 源順訓美奈和太」として、「せはた」と訓み、源順が「みなわた」と訓んだことを記し、「是今之醢而常奥越倶獻之味亦佳也」=これが今の醢で、常陸・陸奥・越がともに献じている、味もまたよい、と書いています。「醢」の横には「シホカラ」と読めるふりがながあります。同書によれば『本朝式』(延喜式)の主計の条にも「鮭背腸」があり、丹後・信濃・越中・越後が納めていました。

  • 源頼朝が京へのぼる途中、遠江国の菊河の宿で佐々木盛綱から鮭の楚割(すはやり)を献じられた、という話です。

    『本朝食鑑』巻七(1697年刊)に「源頼朝入洛時宿于遠州菊河驛 佐佐木盛綱副小刀于鮭楚割而進之 頼朝甚喜謝以歌」とあり、盛綱が小刀を鮭の楚割に添えて差し出したところ、頼朝はたいへん喜んで歌で礼をした、と書かれています。続けて「此盛綱領越後之故也」=これは盛綱が越後を領していたからだ、とあります。この話の直前で、同書は昔の楚割を「是今塩引之類也乎」=今の塩引のたぐいだろうか、としています。

  • 『合類日用料理抄』(元禄2年・1689年)には、仙台流鮭之酢・鮭子籠の鮨・久敷置鮭の鮨・奥州子籠・鮭の黒漬・越後子籠・越後鮭の披・子なし鮭の塩引・塩鮭の持様・鮭の煎物といった項目が立っています。

    『傳演味玄集』(延享2年・1745年)には、鮭のひづ・塩引鮭・子篭鮭・から鮭・干鮭の皮・さけ塩引・塩引鮭の皮・からさけといった品名が出てきます。産地・状態・部分・保存法のそれぞれに名前がついており、皮だけでも「干鮭の皮」と「塩引鮭の皮」が別になっています。

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