金魚はいつ日本に来た? 江戸の4冊で渡来年が100年ずれる
この記事の目次
寛延元年(1748年)に堺で出た飼育書『金魚養玩草』は、金魚が文亀二年(1502年)の正月二十日に堺の港へ着いた、と日付まで書いています。ところがそれより前の元禄・宝永の本は、金魚は外国から来たとだけ書くか、元和年中(1615〜24年)に来たと書いていて、金魚がいつ日本に来たのかという問いに、江戸の本は百年以上ずれた二通りの答えを残しました。夏祭りの屋台で紙の網ですくう赤い魚は、いまでは日本の夏そのものの景色ですが、もともとは外から来た魚です。
出典:ColBase(歌川国芳筆『金魚づくし・玉や玉や』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
二つの年がそれぞれ誰の話から出てきたのかを、一冊ずつ原本で開いていくと、日付の細かいほうが、じつはあとから書かれたものだったことが分かってきます。
『古事類苑』の金魚の項から
手がかりにしたのは、明治期に神宮司庁が編んだ巨大な事典『古事類苑』です。テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きしてあって、動物部の魚の巻をめくると、鯉・鮒・金魚……と項目が並んでいます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ660・パブリックドメイン)
金魚の項はコマ660から663までで、動物部のこの一冊はぜんぶで876コマあるうちの、わずか4コマに江戸の本の金魚についての記事がまとめて抜き書きされています。そこに引かれた本の名前を頼りに、原本を順に開きました(開いた本のコマ番号はすべて添えておきます)。
「文亀二年正月廿日、泉州左海の津」
古い年のほうを書いているのが『金魚養玩草』で、寛延元年(1748年)刊、泉州堺の安達喜之という人が、金魚の飼い方だけを書いた本です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ6・パブリックドメイン)
本文の一番はじめが「金魚のものがたり」、つまり金魚の由来です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ6・パブリックドメイン)
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翻刻
或老人の云、金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月廿日はじめて泉州左海の津にわたり、珍敷事なりとて、其由来をしるしたるものありけるに、いつれの時にか其書失侍りける
現代語訳
ある老人が言うには、金魚は人王百五代・後柏原院の文亀二年(一五〇二年)正月二十日に、はじめて泉州堺の港へ渡ってきた。珍しいことだというので、その由来を書き記したものがあったのだが、いつのころか、その書は失われてしまった――。
「或老人の云、金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月廿日はじめて泉州左海の津にわたり」。
文亀二年は1502年、室町時代で、左海は堺のことですから、正月二十日に堺の港へ着いた、と日付まで書いてあるわけです。気になるのは、書き出しの四文字です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ6・著作権保護期間満了)
ここは「或人の云(ある人の云う)」と読みたくなる所ですが、「或」と「人」のあいだにもう一字、崩れてひらがなの「む」のようにしか見えない字があります。手がかりは右わきのふりがなで、上から「ある」「らう」「じん」と振ってあります。
「らう」は、いまの仮名遣いでいう「ろう」。「老」の字の読みです。つまりここは「或老人の云」、ある老人が言うには、でした。明治の『古事類苑』も、この一節を「或老人の云」と活字にしています(コマ662)。
老人の話は、こう続きます。
「珍敷事なりとて、其由来をしるしたるものありけるに、いつれの時にか其書失侍りける」。
珍しいというので由来を書き記したものがあったが、いつの間にかその書物は失われた、というのです。
このあと老人は、金魚の卵があちこちに残って今では世に広まったこと、赤い色は生まれつき陽の気を受けたもので、めでたい御代のしるしではないかということを語ります(『古事類苑』コマ662の活字による)。
著者がこの話をどこから持ってきたのかは、ページをめくったコマ7に書いてあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ7・著作権保護期間満了)
「語られしも、今は年ふりて寶永四年の春三月としるしたる反古を取出して、今爰に来由をしるす」。
そう語られたが今は年月がたったので、「宝永四年春三月」と書きつけた反古(ほご。書き損じや用済みの紙)を取り出して、いまここに由来を記す、という断り書きです。順番に並べると、ある老人が語り、著者の手もとには「宝永四年(1707年)春三月」と書きつけた紙が残っていて、著者はそれを取り出して寛延元年(1748年)の本に由来を記した、ということになります。
「文亀二年」は、老人の話の中に出てくる年でした。その紙が老人の話を書きとめたものだとすれば、日付は文亀二年から二百年あまりあとです。
この本は、「ある老人が言うには」で始まり、「由来を記した書物はもう無い」と断る話として、この年を伝えています。金魚がこの年に来たと書いた同時代の記録があった、という話ではありません。
「元和年中異域ヨリ來ル」
別の答えを書いているのが、貝原益軒が宝永六年(1709年)に刊行した本草書『大和本草』で、巻十三の川魚のところ、目高の次に金魚が出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『大和本草』巻十三・NDL PID:2557359 コマ16・パブリックドメイン)
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翻刻
金魚 昔ハ日本ニ無之。元和年中異域ヨリ來ル。今世飼者多シ。小時黒色、長シテ紅ニ、老テ白シ。白キヲ銀魚ト云。子〻蟲ヲ餌トス。或麪餅ヲ食ス。藻ノ内ニ
現代語訳
金魚は昔、日本にはいなかった。元和年中(一六一五〜二四年)に外国から来た。いまは飼う者が多い。小さいうちは黒く、育つと紅くなり、老いると白い。白いものを銀魚という。子子蟲(ボウフラ)を餌にする。あるいは麪餅(小麦の餅)を食べる。藻の中に――
「金魚 昔ハ日本ニ無之。元和年中異域ヨリ來ル。今世飼者多シ」。
元和年中は1615〜24年で、文亀二年から数えて113年から122年あとにあたります。
『大和本草』はさらに、小さいうちは黒く、育つと紅くなり、老いると白くなること、白いものを銀魚ということ、餌はボウフラで、小麦の餅も食べることまで書いています。
この元和説は、後の本にも引き継がれます。小野蘭山の『重修本草綱目啓蒙』は、金魚は本邦になく元和年中に異域から来たと『大和本草』が言っている、と紹介したうえで、元和は後水尾帝の年号だと注を付けています。江戸の名産を並べた『続江戸砂子』も、金魚は元和年中に異邦から渡ったと書いています(いずれも『古事類苑』動物部 コマ661〜662が引く本文による)。
いちばん早い本は、年を書いていない
三冊目は、人見必大が元禄十年(1697年)に刊行した食べ物の百科事典『本朝食鑑』で、いま開いた二冊より早く出ています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』巻七・NDL PID:2557333 コマ150・パブリックドメイン)
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翻刻
金魚〔集解〕金魚有鯉有鮒、鱗赤間夾金色、或身赤尾金、素來自外國、而五六十年來家家玩賞之、養于桶
現代語訳
金魚には鯉のものと鮒のものとがある。鱗は赤く、あいだに金色をはさむ。あるいは身が赤くて尾が金色である。もともと外国から来たもので、この五六十年来、家々でこれをもてはやしている。桶(や槽・盆池の中)で飼い――
「素來自外國、而五六十年來家家玩賞之」。もともと外国から来たもので、この五六十年来、家々でもてはやしている。
年号は出てこず、あるのは「五六十年来」だけで、刊行された元禄十年から逆算すると、1640年前後から流行が始まったことになります。成立の早い順に並べると、次のとおりです。
- 1697年『本朝食鑑』:外国から来た。年は書かない。五六十年来のブーム
- 1709年『大和本草』:元和年中(1615〜24年)に来た
- 1712年ごろ『和漢三才図会』:初め外国から来た。近年もてはやされている
- 1748年『金魚養玩草』:文亀二年(1502年)正月二十日、堺に来た(ある老人の話。それを書いた紙の日付は1707年)
いちばん遅く書かれた本がいちばん古い年を出していて、しかもその本は堺で書かれ、金魚が着いた港として堺の名を挙げています。江戸時代の前半に書かれた三冊は、どれも文亀二年には触れず、「外国から来た」「元和年中」までしか書いていません。
堺と筑前でつくって、四方へ売る
四冊目の『和漢三才図会』は、寺島良安が大坂でまとめた図入りの百科事典で、良安の自叙の日付は正徳二年(1712年)です。ここでは明治18年(1885年)に活字で組み直された版で読みました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・明治18年中近堂刊の活字本・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
この本のおもしろいところは、中国の本草書を引いたあとに、「按ずるに」として著者自身の観察を書くことです。金魚の項でも、良安は自分の見聞を並べています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・明治18年中近堂刊の活字本・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
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翻刻
賞之、而無食之者、形似鮒而尾如鰕、其大者七八寸、筑前及泉州堺多有養之者、以販于四方、毎自三月至十月、
現代語訳
(近年これを)もてはやしているが、食べる者はいない。形は鮒に似て、尾は鰕(えび)のよう。大きなものは七、八寸。筑前と泉州堺にこれを養う者が多く、四方へ売っている。毎年三月から十月まで――
「筑前及泉州堺多有養之者、以販于四方」。筑前と泉州堺に金魚を養う者が多く、四方へ売っている。
続けて「毎自三月至十月」、毎年三月から十月まで、ボウフラや小さなミミズを餌にする、と書いています。
1712年の時点で、金魚は産地から全国へ出荷される商品になっていました。堺は、金魚が最初に着いたと『金魚養玩草』が書いた港であると同時に、実際の金魚の産地でもあったわけで、地元の本が地元に着いたと書いている、という関係になります。
良安はもう一つ、「而無食之者」、食べる者はいない、と書いています。魚を並べる本の中でわざわざ「食べない」と断っているのですから、金魚は食べない魚として目立っていたのでしょう。
ところが『本朝食鑑』のほうは、食べ物の本らしく律儀に肉の味まで記録しています。曰く、「其肉味短而靱」。味は短く、身は靱(かた)い。おいしくない、と読めます。
金魚の正体についても、二冊は食い違います。『本朝食鑑』は「金魚有鯉有鮒」(金魚には鯉のものと鮒のものがある)と書き、『和漢三才図会』は「金魚非鯉鮒等之變者、是別一種」(金魚は鯉や鮒が変じたものではなく、別の一種である)と書いている。
飼い方の本ができるまで
ここで『金魚養玩草』に戻ります。文亀二年の話が本当かどうかはさておき、この本の本体は飼育マニュアルです。目録を見ると、その徹底ぶりが分かります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ5・パブリックドメイン)
産卵、卵の見分け、稚魚の選別、雌雄の見分け、「色よくてらす傳授」、病気の見つけ方、「療治の大秘事」、泉水(池)の作り方、水を替える時季。
いまの飼育書の目次とほとんど変わらない並びで、圧巻は、「金魚のものがたり」のすぐあとに置かれた図です(コマ7)。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ7・パブリックドメイン)
魚の各部に「丸鼻」「脊びれ」「糞穴(ふんのあな)」と名前がふってあり、腹の後ろのひれには「跡楫(あとかぢ)」とあります。楫(かじ)は船をあやつる道具の字です。このあとのページでは、ひれや尾の良し悪しが言葉で説明されていくので、部位の名前をそろえておかないと品評が書けなかったわけです。
餌についても具体的で、餌の虫の湧かせ方まで書いてあります。「赤子(あかこ)」の湧かせ方の項では、馬屋の藁、馬の糞、米や麦の洗い汁を溜めに打ち込む、という手順です(コマ24)。泉州堺では東の堀川によく湧く、という土地の話まで添えてあります。
江戸のほうの記録もあります。『嬉遊笑覧』は、金魚屋はあちこちにあるが本所にとくに多いと書き、四月ごろに池舟へ移して産卵させること、生まれたばかりの稚魚には茹で卵の黄身を溶いて与えること、そのあと溝で採った細かい虫を餌にすることまで書き留めています(『古事類苑』動物部 コマ662が引く本文)。
餌の話でいうと、『和漢三才図会』にこんな一行があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・明治18年中近堂刊の活字本・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
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翻刻
如餌飯粒、則金魚眼突出
現代語訳
飯粒を餌にすると、金魚の眼が突き出る。
「如餌飯粒、則金魚眼突出」。飯粒を餌にすると、金魚の眼が突き出る。
出目金の由来を説明した文ではなく、餌の注意書きとして、ごく実務的に書かれています。品種の話では、『金魚養玩草』に「らんちう魚の事」という一節があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ24・パブリックドメイン)
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翻刻
一らんちうは魚のかたち頭大にして胴丸く長し、脊ひれなく、(中略)惣身金色に見へ、色常の金魚より尤濃もの也、近年異国
現代語訳
らんちゅうは、魚のかたちが頭が大きく胴は丸くて長い。背びれがなく、全身が金色に見え、色は普通の金魚よりいっそう濃い。近年、外国から――
頭が大きく、胴は丸く長い。背びれがない。全身が金色に見え、色はふつうの金魚より濃い、という特徴は、現在のランチュウの特徴とほぼ同じです。
そして、この本はらんちうを「近年異国より渡りし」ものとして紹介しています(コマ24の末尾からコマ25へ続く)。1748年の時点で、ランチュウはまだ新顔でした。見た者はみな三、四寸ほどで、大きいものは見ない、とも書いています。
一尺の金魚が五両七両、ボウフラは一日二十五文
江戸の金魚の値段については、はっきりした数字が残っています。
出典:ColBase(喜多川歌麿筆『金魚遊び』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
『本朝食鑑』は「養于桶槽及盆池中」、桶や槽、盆池(水盤)で飼うと書いていました。歌麿が描いているのが、まさにその盆池です。
値段の数字を残したのは井原西鶴で、『西鶴置土産』(元禄六年〈1693年〉刊)の一節です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ662・パブリックドメイン)
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翻刻
〔西鶴置土産 二〕人には棒振虫同前に思はれ、黒門より池の端を歩むに、しんちう屋の市右衛門とて、隠れもなき金魚銀魚を賣るものあり、庭には生舟七八十も排べて、溜水清く、浮藻を紅潜りて、三ツ尾働き詠なり、中にも尺に餘りて鱗の照りたるを、金子五両七両に買求めて行くを見て
現代語訳
黒門から池の端(いけのはた)を歩くと、しんちう屋の市右衛門という、知らぬ者のない金魚・銀魚の商人がいる。庭には生舟が七、八十も並べてあり、溜め水は清く、浮藻のあいだを紅い魚がくぐって、三つ尾を働かせる眺めである。なかでも一尺を超えて鱗の照ったものを、金子五両七両で買い求めていく者を見て――
黒門から池の端(いけのはた)を歩いていくと、「しんちう屋の市右衛門」という、知らぬ者のない金魚・銀魚の商人がいる。庭には生舟が七、八十も並び、水は澄み、浮藻のあいだを紅い魚がくぐっている。
そして、「中にも尺に餘りて鱗の照りたるを、金子五両七両に買求めて行く」。一尺(約30センチ)を超えて鱗の照ったものが、金五両、七両で売れていく。
この店の名前は、読み方に少し引っかかりがあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ662・パブリックドメイン)
店名の最初の字は、ふつうのひらがなではありません。「志」をくずした形の仮名(変体仮名)で刷られていて、漢字の「玄」のようにも見えるので、うっかりすると「ちんちう屋」と読んでしまいそうです。
この字が「し」であることは、同じページの中で確かめられます。『金魚養玩草』からの引用では、「其由来をしるしたる」の「し」が同じ形で刷られています。
もう一つの決め手が、少し前に置かれた柳亭種彦の『用捨箱』です。この店を「鎮鍮屋の金魚」という見出しで取り上げています。鎮鍮は「しんちゅう」。金属の真鍮と同じ音です。
『用捨箱』は、店の名前のわけも推しはかっています。貞享四年(1687年)の『江戸鹿子』に、金魚屋として「下谷池の端しんちう屋重左衛門」が載っている。同じ所に「地張きせる屋」の「しんちう屋市郎右衛門」も載っている。だから重左衛門も、もとは烟管(きせる)屋だったのだろう、という推測です。
さらに延宝八年(1680年)の『向之岡』から「影涼し金魚の光り鎮鍮屋」という句を引いて、延宝のころから名高い金魚商人だったことがこの句で分かる、と書いています(いずれも『古事類苑』動物部 コマ662)。主人の名は西鶴では市右衛門、『江戸鹿子』では重左衛門と食い違いますが、西鶴が「隠れもなき」と書いたのは、この「しんちう屋」だったように見えます。
同じ話の続きに、対になる数字が出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ663・パブリックドメイン)
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翻刻
沙汰する所へ、田夫なる男の、小さき手玉の掬網に小桶を持添へ、此宿に來りぬ、何ぞと見れば棒振虫、是金魚のゑばみなるが、一日仕事に取集めて、やう〳〵錢二十五文に賣りて、又明日持つて參るべしと、下男どもに輕薄言ひて歸る、
現代語訳
そこへ田舎ふうの男が、小さな手玉の掬い網に小桶を添えて宿へやって来た。何かと見ればボウフラである。これは金魚の餌なのだが、一日仕事で集めて、ようやく銭二十五文で売り、また明日持ってまいりますと、下男たちに愛想を言って帰っていった。
小さな手玉の掬い網に小桶を添えた男がやって来る。中身はボウフラ、つまり金魚の餌です。一日がかりで集めて、ようやく銭二十五文。また明日持ってまいります、と愛想を言って帰っていく。
両は金貨、文は銭の単位で、そのまま引き算はできません。それでも、同じ話の同じ段に、金五両の魚と二十五文の餌が並んでいます。西鶴がこの二つを続けて書いたのは、その落差を見せるためのように見えます。
時代が下ると、金魚は完全に街の商売になります。江戸後期の風俗記録『守貞謾稿』の「錦魚売」の項です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ663・パブリックドメイン)
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翻刻
〔守貞漫稿 六 生業〕錦魚賣金魚ハ紅色ノ小魚、池中及ビ盤中ニ畜テ観物トス、三都トモニ夏月専ラ賣之、又錦魚ニ異種アリ、形小尾大ニシテ大腹ノ者アリ、常ニ尾ヲ上ニ首ヲ下ニ泳グ、京坂コレヲ蘭蟲ト云ランチウト訓ズ、江人コレヲ丸子ト云、マルツコト訓ズ、(中略)丸ツ子朝鮮等貴價ノ者ハ價金三五兩ニ至ル
現代語訳
金魚は紅色の小魚で、池や盤(水盤)に飼って見るものである。三都(江戸・京・大坂)とも夏に専らこれを売る。金魚には異種があり、形が小さく尾が大きく腹の大きいものがいて、いつも尾を上に頭を下にして泳ぐ。京坂ではこれを蘭蟲(らんちう)といい、江戸の人は丸子(まるっこ)という。(中略)丸っ子・朝鮮などで値の高いものは、代金が三両から五両にもなる。
江戸・京・大坂の三都とも、夏にもっぱら金魚を売る。腹が大きく尾の大きい種類は、京坂では「蘭蟲(らんちう)」、江戸では「丸子(まるっこ)」と呼び分けられていた。値の高いものは三両から五両にもなる、とあります。
元禄の五両七両から百数十年経っても、上物の値段はさほど下がっていません。
そもそも「金魚」は、口の黄色い鯉だった
最後に、『古事類苑』の金魚の項ではなく、その少し前の鯉の項に置かれた一条を紹介します。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ651・パブリックドメイン)
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翻刻
〔大草殿より相傳之聞書〕一、きんぎよとは、口のきなる鯉の事にて候、〔貞丈雜記 六 飲食〕一、金魚を料理に用る事、舊記にあり、金魚とは今時池に放して弄ぶ、赤き魚の金色に、ひかるをいふにはあらず、大草殿相傳聞書に云、金魚とは口の黄なる鯉の事にて候とあり、土佐國にも口の黄なる鯉ありて、それを金魚といふ由、土佐人の物語也、
現代語訳
〔大草殿より相伝之聞書〕きんぎょとは、口の黄色い鯉のことでございます。/〔貞丈雑記〕金魚を料理に用いることが古い記録にある。この金魚とは、いま池に放って愛玩する、赤い魚が金色に光るもののことではない。『大草殿相伝聞書』に「金魚とは口の黄なる鯉の事にて候」とあり、土佐国にも口の黄色い鯉がいて、それを金魚というと、土佐の人が話していた。
『大草殿より相伝之聞書』という聞き書きに、こうあります。
「きんぎよとは、口のきなる鯉の事にて候」。
きんぎょとは、口の黄色い鯉のことでございます、という一条です。
伊勢貞丈は『貞丈雑記』で、この一条を引いて注意書きを残しています。
「金魚を料理に用る事、舊記にあり。金魚とは今時池に放して弄ぶ、赤き魚の金色に、ひかるをいふにはあらず」。
古い記録に金魚を料理に使うと書いてあるが、これはいま池に放して愛玩している、あの赤い魚のことではない、と。土佐にも口の黄色い鯉がいて、それを金魚と呼ぶと土佐の人が話していた、とも書き添えています。
つまり古い記録の「金魚」は、あの赤い魚ではなく別の魚を指していた。しかもそちらは、料理に使う魚でした。
貞丈がわざわざ断っているのは、赤い魚のほうの「金魚」が広まって、古い記録を読み違えるおそれがあったからのように見えます。
日付があるほうが、あとから来た
- 江戸前期の三冊(1697年『本朝食鑑』・1709年『大和本草』・1712年ごろ『和漢三才図会』)は、金魚を「外国から来た」「元和年中(1615〜24年)」と書く
- 1748年の『金魚養玩草』だけが「文亀二年(1502年)正月廿日、堺」と日付まで書く。ただし出どころは「或老人の云」=ある老人の話で、著者が取り出したのは宝永四年(1707年)の日付の書き付け。由来を記した書物は失われたと明記している
- 1712年には、金魚は堺と筑前で養殖され、四方へ売られる商品になっていた
- 1693年の時点で、一尺の金魚は五両七両。餌のボウフラは一日二十五文
- 古い料理の記録にいう「金魚」は、口の黄色い鯉のことだった
いつ日本に来たのかという問いに、江戸の本は一つの答えを返してくれず、細かい日付がついているほうが、じつはあとから書かれたものでした。それでも、1640年ごろから流行が始まり、1690年代には五両の値がつく高級品になり、1748年には飼育マニュアルが出て、江戸後期には三都で夏に売られる品になった、という流れははっきり見えます。百年あまりで、輸入品が「日本の夏」になったわけです。
出典:ColBase(歌川国芳筆『金魚づくし・さらいとんび』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
国芳が金魚を擬人化して遊べたのも、読者の全員が金魚を知っていたからです。
この記事でわかったこと
江戸時代の本のあいだで答えが割れています。
『大和本草』(1709年)は元和年中(1615〜24年)とし、『重修本草綱目啓蒙』はこの説を『大和本草』から引き、『続江戸砂子』も元和年中の渡来と書いています。いっぽう『金魚養玩草』(1748年)は文亀二年(1502年)正月二十日に堺へ着いたと書きますが、これは「或老人の云」=ある老人の話で、著者は宝永四年(1707年)の日付の書き付けから写したと書き、由来を記した書物は失われたとも明記しています。それより早い『本朝食鑑』(1697年)は年を書かず、「五六十年来、家々でもてはやしている」とだけ記しています。
『西鶴置土産』(1693年)には、黒門から池の端へ歩いた先の金魚屋「しんちう屋」で、一尺を超えて鱗の照ったものが金五両・七両で買われていく場面があります。
江戸後期の『守貞謾稿』でも、値の高い「丸子」「朝鮮」は三両から五両に至るとあります。同じ『西鶴置土産』には、餌のボウフラを一日集めて銭二十五文で売る男も出てきます。
『和漢三才図会』(1712年ごろ)は金魚について「無食之者」(食べる者はいない)と明記しています。
ただし食物の百科事典である『本朝食鑑』(1697年)は、金魚の肉についても「其肉味短而靱」(味は短く、身は靱い)と記録しています。なお『大草殿より相伝之聞書』にいう「金魚」は、この赤い魚ではなく口の黄色い鯉のことで、伊勢貞丈が『貞丈雑記』でその違いに注意をうながしています。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 金魚養玩草
安達喜之 著・奚疑齋 増補 寛延1 [1748]
- 大和本草 16巻附録2巻諸品図2巻.[7]
貝原篤信 宝永6 [1709]
- 本朝食鑑 12巻.[2]
丹岳野必大千里 著 [江戸時代]
- 和漢三才図会.中之巻
寺島良安 (尚順) 編 明18
ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。



