金魚はいつ日本に来た? 江戸の4冊で渡来年が100年ずれる
夏祭りの屋台。浅いプールに赤い魚が群れていて、紙を張った網ですくう。
金魚は、いまでは日本の夏そのものの景色です。
けれどこの魚は、もともと日本にいませんでした。外から来た魚です。
では、いつ来たのか。

出典:ColBase(歌川国芳筆『金魚づくし・玉や玉や』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
江戸の本を開くと、この問いには二通りの答えが書いてあります。
しかも、百年以上ずれている。
どちらが正しいかを決める前に、それぞれの本が何と書いているのかを、原本の画像で見ていきます。
0. 江戸の本は、家から無料で開ける
使うのは国立国会図書館デジタルコレクションです。江戸時代の本が撮影されたまま公開されていて、会員登録も費用も要りません。ブラウザで開けば、最後のページまでめくれます。
問題は、どのページに目当ての語があるかです。江戸の本に索引はありません。
そこで『古事類苑』を索引がわりに使います。明治政府のもとで編まれた巨大な事典で、テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きしてあります。動物部の魚の巻をめくると、鯉・金魚・銀魚・鮒……と項目が並んでいます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ660・パブリックドメイン)
金魚の項はコマ660から663まで。ここに、江戸の本の金魚関係の記事がほぼ全部集まっています。動物部の魚の巻はぜんぶで876コマありますが、金魚はそのうちの4コマです。
あとは、そこに引かれた本の名前を頼りに原本を開くだけです。以下、開いた本のコマ番号はすべて書いておくので、同じものが誰でも見られます。
1. 「文亀二年正月廿日、泉州堺の津」
まず、古い年のほうを書いている本から。
『金魚養玩草』。寛延元年(1748年)刊、泉州堺の安達喜之という人が書いた、金魚の飼い方だけを書いた本です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ6・パブリックドメイン)
本文の一番はじめが「金魚のものがたり」、つまり金魚の由来です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ6・パブリックドメイン)
「或人の云、金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月廿日はじめて泉州左海の津にわたり」。
文亀二年は1502年。室町時代です。左海は堺。つまり、正月二十日に堺の港へ着いた、と日付まで書いてある。
ところが、続きがこうです。
「珍敷事なりとて、其由来をしるしたるものありけるに、いつれの時にか其書失侍りけり」。
珍しいというので由来を書き記したものがあったが、いつの間にかその書物は失われた——。
つまりこの本は、「ある人が言うには」で始まり、「証拠の書物はもう無い」で終わる話として、この年を伝えています。著者はそのあと、宝永四年(1707年)の日付のある書き付けを取り出して由来を記す、という意味のことを書いています(コマ7)。
金魚がこの年に来たと書いた同時代の記録があった、という話ではありません。
2. 「元和年中、異域より来る」
いっぽう、別の答えを書いている本があります。
『大和本草』。貝原益軒が宝永六年(1709年)に刊行した本草書です。巻十三の川魚のところ、目高の次に金魚が出てきます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『大和本草』巻十三・NDL PID:2557359 コマ16・パブリックドメイン)
「金魚 昔ハ日本ニ無之。元和年中異域ヨリ來ル。今世飼者多シ」。
元和年中は1615〜24年。文亀二年から数えて113年から122年あとです。
『大和本草』はさらに、小さいうちは黒く、育つと紅くなり、老いると白くなること、白いものを銀魚ということ、餌はボウフラで、小麦の餅も食べることまで書いています。飼っている人を見て書いた文章です。
この元和説は、後の本にも引き継がれます。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(享和三年〈1803年〉から刊行)は、金魚は昔わが国になく元和年中に外国から来たと『大和本草』が言っている、と紹介したうえで、元和は後水尾天皇の年号だと注を付けています。江戸の地誌『続江戸砂子』も、金魚は元和年中に異邦から渡ったと書いています(いずれも『古事類苑』動物部 コマ661〜662が引く本文による)。
3. いちばん早い本は、年を書いていない
ここで、三冊目を開きます。
『本朝食鑑』。人見必大が元禄十年(1697年)に刊行した、食べ物の百科事典です。いま見てきた二冊より早い。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』巻七・NDL PID:2557333 コマ150・パブリックドメイン)
「素來自外國、而五六十年來家家玩賞之」。もともと外国から来たもので、この五六十年来、家々でもてはやしている。
年号は出てきません。「五六十年来」だけです。刊行された元禄十年から逆算すると、1640年前後から流行が始まったことになります。
成立の早い順に並べると、こうなります。
- 1697年『本朝食鑑』——外国から来た。年は書かない。五六十年来のブーム
- 1709年『大和本草』——元和年中(1615〜24年)に来た
- 1712年ごろ『和漢三才図会』——初め外国から来た。近年もてはやされている
- 1748年『金魚養玩草』——文亀二年(1502年)正月二十日、堺に来た(ある人の話)
いちばん遅く書かれた本が、いちばん古い年を出しています。しかもその本は堺で書かれ、金魚が着いた港として堺の名を挙げている。
江戸時代の前半に書かれた三冊は、どれも文亀二年に触れていません。「外国から来た」「元和年中」までです。
4. 堺と筑前でつくって、四方へ売る
四冊目、『和漢三才図会』を開きます。大坂の医師・寺島良安が正徳二年(1712年)ごろにまとめた図入り百科事典です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
この本のおもしろいところは、中国の本草書を引いたあとに、「按ずるに」として著者自身の観察を書くことです。金魚の項でも、良安は自分の目で見たことを並べています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
「筑前及泉州堺多有養之者、以販于四方」。筑前と泉州堺に金魚を養う者が多く、四方へ売っている。
続けて「毎自三月至十月」——三月から十月まで餌をやる、と書いています。冬は餌を切って越させる。いまの飼い方と同じです。
1712年の時点で、金魚は産地から全国へ出荷される商品でした。堺は、金魚が最初に着いたと『金魚養玩草』が書いた港であり、そして実際に金魚の産地でもあった。地元の本が地元に着いたと書いている、という関係になります。
もう一つ、良安はこう書いています。「而無食之者」——食べる者はいない。
わざわざ書くということは、魚を「食べるもの」として並べる本の中で、金魚が例外だったということです。
ところが『本朝食鑑』のほうは、食べ物の本らしく律儀に肉の味まで記録しています。曰く、「其肉味短而靱」。味は短く、身は靱(かた)い。おいしくない、と読めます。
金魚の正体についても、二冊は食い違います。『本朝食鑑』は「金魚有鯉有鮒」(金魚には鯉のものと鮒のものがある)と書き、『和漢三才図会』は「金魚非鯉鮒等之變者、是別一種」(金魚は鯉や鮒が変じたものではなく、別の一種である)と書いている。
どちらも、目の前の水槽をのぞきこんで書いています。
5. 飼い方の本ができるまで
ここで『金魚養玩草』に戻ります。文亀二年の話が本当かどうかはさておき、この本の本体は飼育マニュアルです。目録を見ると、その徹底ぶりが分かります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ5・パブリックドメイン)
産卵、卵の見分け、稚魚の選別、雌雄の見分け、「色よくてらす傳授」、病気の見つけ方、「療治の大秘事」、泉水(池)の作り方、水を替える時季。
いまの飼育書の目次とほとんど変わりません。
圧巻は、次のページの図です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ7・パブリックドメイン)
魚の各部に名前がふってあります。「丸鼻」「鼻先」「脊びれ」「向鰭」「糞穴」、そして尻びれは「跡楫(あとかぢ)」。船の舵に見立てた呼び方です。
この図の目的は、この先のページで良し悪しを言葉で説明するためです。尾が厚いほうがよい、背びれの節が立っているのは悪い——といった品評が、この名称を使って延々と続きます。
餌についても具体的です。金魚の餌は「あかこ」(アカムシ)と「棒振虫」(ボウフラ)。この本には、餌の湧かせ方まで書いてあります。馬屋の藁、馬の糞、米や麦の研ぎ汁を掘った溜めに打ち込んで腐らせる、という手順です(コマ24)。堺の東の堀川にはアカムシが大量に湧く、という土地の情報まで添えてあります。
江戸のほうの記録もあります。『嬉遊笑覧』は、金魚屋はあちこちにあるが本所にとくに多いと書き、四月ごろに池舟へ移して産卵させること、生まれたばかりの稚魚には茹で卵の黄身を溶いて与えること、そのあと溝で採った細かい虫を餌にすることまで書き留めています(『古事類苑』動物部 コマ662が引く本文)。
餌の話でいうと、『和漢三才図会』にこんな一行があります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・NDL PID:898161 コマ188・パブリックドメイン)
「如餌飯粒、則金魚眼突出」。飯粒を餌にすると、金魚の眼が突き出る。
出目金の由来を説明した文ではありません。餌の注意書きとして、ごく実務的に書かれています。
品種の話も出てきます。『金魚養玩草』には「らんちう魚の事」という一節があります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『金魚養玩草』・NDL PID:2540518 コマ24・パブリックドメイン)
頭が大きく、胴は丸く長い。背びれがない。全身が金色に見え、色はふつうの金魚より濃い——現在のランチュウの特徴とほぼ同じです。
そして、この本はらんちうを「近年異国より渡りし」ものとして紹介しています。1748年の時点で、ランチュウはまだ新顔でした。見た者はみな三、四寸ほどで、大きいものは見ない、とも書いています。
6. 一尺の金魚が五両七両、ボウフラは一日二十五文
では、江戸の金魚はいくらだったのか。

出典:ColBase(喜多川歌麿筆『金魚遊び』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
『本朝食鑑』は「養于桶槽及盆池中」——桶や槽、盆池(水盤)で飼うと書いていました。歌麿が描いているのが、まさにその盆池です。
値段については、井原西鶴が具体的な数字を残しています。『西鶴置土産』(元禄六年〈1693年〉刊)の一節です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ662・パブリックドメイン)
場所は上野の黒門から不忍池のほとり。「ちんちう屋の市右衛門」という、知らぬ者のない金魚・銀魚の商人がいる。庭には生舟が七、八十も並び、水は澄み、浮藻のあいだを紅い魚がくぐっている。
そして、「中にも尺に余りて鱗の照りたるを、金子五両七両に買求めて行く」。一尺(約30センチ)を超えて鱗の照ったものが、金五両、七両で売れていく。
同じ話の続きに、対になる数字が出てきます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ663・パブリックドメイン)
手玉のような掬い網と小桶を提げた男がやって来る。中身はボウフラ、つまり金魚の餌です。一日がかりで集めて、ようやく銭二十五文。また明日持ってまいります、と愛想を言って帰っていく。
両は金貨、文は銭の単位で、そのまま引き算はできません。それでも、同じ店先の同じ文章に、金五両の魚と二十五文の餌が並んでいます。西鶴がこの二つを続けて書いたのは、その落差を見せるためでしょう。
時代が下ると、金魚は完全に街の商売になります。江戸後期の風俗記録『守貞謾稿』の「錦魚売」の項です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ663・パブリックドメイン)
江戸・京・大坂の三都とも、夏になると金魚売りが街を歩く。腹が大きく尾の大きい種類は、京坂では「蘭虫(らんちう)」、江戸では「丸子(まるっこ)」と呼び分けられていた。値の高いものは三両から五両にもなる、とあります。
元禄の五両七両から百数十年経っても、上物の値段はさほど下がっていません。
7. そもそも「金魚」は、口の黄色い鯉だった
最後に、『古事類苑』の金魚の項ではなく、その少し前の鯉の項に置かれた一条を紹介します。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ651・パブリックドメイン)
武家の料理の心得を伝える『大草殿より相伝之聞書』に、こうあります。
「きんぎよとは、口のきなる鯉の事にて候」。
きんぎょとは、口の黄色い鯉のことでございます——。
これを読んだ江戸中期の有職故実家・伊勢貞丈が、『貞丈雑記』でわざわざ注意書きを残しました。
「金魚を料理に用る事、旧記にあり。金魚とは今時池に放して弄ぶ、赤き魚の金色にひかるをいふにはあらず」。
古い記録に金魚を料理に使うと書いてあるが、これはいま池に放して愛玩している、あの赤い魚のことではない——。土佐にも口の黄色い鯉がいて、それを金魚と呼ぶと土佐の人が話していた、とも書き添えています。
つまり「金魚」という言葉は、あの赤い魚が来る前から日本にあり、別の魚を指していた。しかもそちらは、食べる魚でした。
金魚が渡ってきたあと、言葉のほうが上書きされたわけです。貞丈が注意書きを残さなければならなかったのは、その混同がすでに起きていたからでしょう。
まとめ:日付があるほうが、あとから来た
整理します。
- 江戸前期の三冊(1697年『本朝食鑑』・1709年『大和本草』・1712年ごろ『和漢三才図会』)は、金魚を「外国から来た」「元和年中(1615〜24年)」と書く
- 1748年の『金魚養玩草』だけが「文亀二年(1502年)正月廿日、堺」と日付まで書く。ただし出どころは「或人の云」で、根拠となる書物は失われたと本人が明記している
- 1712年には、金魚は堺と筑前で養殖され、四方へ売られる商品になっていた
- 1693年の時点で、一尺の金魚は五両七両。餌のボウフラは一日二十五文
- 「金魚」という語は、もともと口の黄色い鯉を指す料理の言葉でもあった
いつ日本に来たのかという問いに、江戸の本は一つの答えを返してくれません。細かい日付がついているほうが、じつはあとから書かれたものだった。
それでも、はっきり見えることがあります。1640年ごろから江戸で流行が始まり、1700年前後には五両の値がつく高級品になり、1748年には飼育マニュアルが出て、1800年代には夏の街を売り歩く商売になった。
百年ちょっとで、輸入品が「日本の夏」になったわけです。

出典:ColBase(歌川国芳筆『金魚づくし・さらいとんび』東京国立博物館蔵/CC BY 4.0)
国芳が金魚を擬人化して遊べたのも、読者の全員が金魚を知っていたからです。
💡 この記事でわかったこと
- 01
江戸時代の本のあいだで答えが割れています。
『大和本草』(1709年)は元和年中(1615〜24年)とし、『本草綱目啓蒙』や『続江戸砂子』もこれを引いています。いっぽう『金魚養玩草』(1748年)は文亀二年(1502年)正月二十日に堺へ着いたと書きますが、これは「或人の云」=伝聞で、根拠の書物は失われたと同書が明記しています。それより早い『本朝食鑑』(1697年)は年を書かず、「五六十年来、家々でもてはやしている」とだけ記しています。
- 02
『西鶴置土産』(1693年)には、上野・不忍池のほとりの金魚屋で、一尺を超えて鱗の照ったものが金五両・七両で買われていく場面があります。
江戸後期の『守貞謾稿』でも、値の高い「丸子」「朝鮮」は三両から五両に至るとあります。同じ『西鶴置土産』には、餌のボウフラを一日集めて銭二十五文で売る男も出てきます。
- 03
『和漢三才図会』(1712年ごろ)は金魚について「無食之者」(食べる者はいない)と明記しています。
ただし食物の百科事典である『本朝食鑑』(1697年)は、金魚の肉についても「其肉味短而靱」(味は短く、身は靱い)と記録しています。なお室町以来の料理故実書にいう「金魚」は、この赤い魚ではなく口の黄色い鯉のことで、伊勢貞丈が『貞丈雑記』でその混同に注意をうながしています。
SAKANA 編集部
良輔
論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 古文献の記事は、国立国会図書館デジタルコレクション等で公開されている原本画像を 拡大して字を目視で照合し、読めた箇所だけを引用しています。