魚図鑑

ナマズと地震はなぜ結びついた——江戸に鯰はいなかった

⏱ 約14分で読めます
ℹ️ 2026年8月時点の情報
シェア𝕏fLINE

地面が揺れると、ナマズの話が出てきます。地震の前にナマズが騒ぐ、地震を起こしているのは大ナマズだ——。

ナマズと地震のこの結びつきは、江戸の人たちがつくったものです。安政二年(1855年)の地震のあと、江戸ではナマズを描いた錦絵が大量に売られました。

では、なぜナマズだったのか。そう思って江戸の本を開いたら、まったく別のことが書いてありました。

「關東には鯰なきよし」——関東にナマズはいない、と。

まず、その魚の姿を見ておきます。

『梅園魚品図正』二帖に描かれたゴマナマズ。題字に「鯷魚 一種 ホシナマヅ ゴマナマツ」とある
左が本図。題字は「鯷魚(ていぎょ)」で、その下に「一種 ホシナマヅ/ゴマナマツ」と品種名が添えられている。体じゅうの黄色い斑点が「ゴマ」の名の由来。左下に「乙未九陽廿五日 真寫」の日付があり、乙未は天保六年(1835年)。右は同じ紙に描かれた「大ナンハゼ」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』二帖・NDL PID:1287113 コマ37・著作権保護期間満了)

0. 江戸の本は、いま家で無料で読める

国立国会図書館デジタルコレクション(NDLデジコレ)には、江戸時代の本が撮影されたまま公開されています。会員登録も費用も要りません。ブラウザで開けば、そのまま最後のページまでめくれます。

ただし、いきなり原本を開いても、目当ての魚がどのページにいるのかは分かりません。江戸の本に索引はないからです。

そこで先に開くのが『古事類苑(こじるいえん)』です。明治政府のもとで編まれた巨大な百科事典で、テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きしてあります。活字なので機械で検索できる——これが古文献をたどるときの入口になります。

その「動物部」(NDL PID:1874269、全876コマ)を「鯰」「なまづ」「ナマズ」で走査すると、ナマズの記事帯はコマ697から699にありました。

『古事類苑』動物部を開いたところ。右ページ上部の欄外に「鯰」とある
右ページの欄外に「鮎」「鯰」の見出しが並ぶ。柱は「動物部十六 魚上」。ここから『日本釈名』『物類称呼』『本朝食鑑』『大和本草』『本草綱目啓蒙』が順に引かれ、江戸の本がナマズをどう書いたかが一望できる。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ698・著作権保護期間満了)

三ページ分です。ここに引かれた本を順に開いていくと、「ナマズは関東にいない」という話が、何度も出てきます。

1. 安政二年、江戸は鯰の絵であふれた

先に、地震のほうから見ておきます。

安政二年(1855年)十月二日の夜、江戸は大きな地震に襲われました。その後に出版されたのが、ナマズを主に描いた錦絵——鯰絵(なまずえ)です。国立国会図書館には、その一群が「安政大地震絵」としてまとめて残っています。

安政の鯰絵の一枚。青い巨石に赤い字で「要石」と大書され、それを担ぎ上げる人物と、下敷きになりかけた人々が描かれている
石に大きく「要石(かなめいし)」の三文字。中央でその石を支える人物のまわりに、逃げまどう町人、算盤を掲げる者、骸骨までが描き込まれている。国立国会図書館の解説によれば、鯰絵には鬼・恵比寿・大黒天・職人・要石・瓢箪・神馬・鹿島大明神などがよく登場する。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「(要石)」・NDL PID:1304005・パブリックドメイン)

要石は、常陸国・鹿島神宮にある石です。鹿嶋市の文化財の解説には、この石について「地震をおこす大鯰の頭を押さえている」との伝説があると記されています。

絵の中では、その石が持ち上げられ、ナマズが暴れています。地震=大ナマズ=それを押さえる要石という図式が、絵の説明なしで通じるほど、江戸の町では共有されていたことになります。

歌舞伎の「暫」に見立てた鯰絵。衣装の胸に「要石」と大書され、その下にナマズの顔をした人物が描かれている
荒事の主人公が着る衣装の胸に「要石」の三文字。その下で大きな口を開けて笑っているのが、ナマズの顔をした人物。歌舞伎の見立てで、要石がナマズを取り押さえる場面に仕立てている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「しばらくのそとね」・NDL PID:1303383・パブリックドメイン)

歌舞伎の見立てにまでなっている。ナマズは、江戸の人にとってすっかりおなじみの、地震の主でした。

2. その百二十年前、「関東には鯰なきよし」

ところが、その百二十年ほど前に書かれた江戸の地誌を開くと、こう書いてあります。

『続江戸砂子(ぞくえどすなご)』。享保二十年(1735年)、菊岡沾凉(きくおか・せんりょう、1680〜1747)が江戸の名所と名産をまとめた本です。その「江府名産」の項に、「宮戸川鯰」——宮戸川(浅草川)のナマズが挙がっています。

『続江戸砂子』の「宮戸川鯰」の項3列と翻刻。『古事類苑』動物部が引くかたち
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ699・著作権保護期間満了)

「宮戸川鯰 關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し」

関東にナマズはいないと、昔から言い伝えられてきた。ところが享保七、八年(1722〜23年)ごろから、浅草川に多くなった——。

名産として挙げながら、その魚は最近になって現れたのだ、と書いている。しかも「上方の鯰とはかたち異なれども、大方は似たり」。上方のナマズとは形が違うが、だいたい似ている、と。

比べる対象が上方なのは、理由があります。

3. 元禄の本には「餘州未だ之有らず」

元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』。医師・人見必大(ひとみ・ひつだい)が、食べものを一つずつ論じた大著です。その巻七、川と湖の鱗のない魚を集めた「河湖無鱗」の部に、「鯰」の項があります。

『本朝食鑑』巻七「鯰」の項の見開き。右ページから釈名・集解と続く
左ページの右端に大きく「鯰」の見出し。その下に「釋名」、続いて「集解」として姿かたち・産地・獲り方が並ぶ。訓点つきの漢文で、返り点と送り仮名が細かく振ってある。柱は「本朝食鑑巻七」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)

姿かたちを書いたあと、必大は産地に話を進めます。

『本朝食鑑』巻七「鯰」の、産地を記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)

「本朝未ダ流水ニ生ズル者ヲ見ズ、惟ダ止水ニ生ズ」。日本では流れのある川に育つものを見たことがない。ただ止まった水にだけ育つ——。

そして産地が挙がります。「洛之宇治川・淀川、近之琵琶湖、信之諏訪湖ニ之ヲ采ル」。京の宇治川と淀川、近江の琵琶湖、信濃の諏訪湖。

そのあとに、六文字。

「餘州未ダ之有ラズ」——ほかの国には、まだいない

元禄の医師にとって、ナマズは上方と近江・信濃の魚でした。江戸の魚ではなかった。

4. 淀川では、カエルを泳がせて釣った

その上方で、ナマズがどう獲られていたか。同じ『本朝食鑑』が、続けて書いています。

『本朝食鑑』巻七「鯰」の、淀川の釣り方を記した2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)

「小繩ヲ以テ蛙ヲ繋ギ、之ヲ水上ニ放ツ。蛙跳レバ則チ鯰浮ビテ之ヲ啄ム。繩ヲ引キテ之ヲ得ル」

細い縄にカエルをつないで水面に放つ。カエルが跳ねると、ナマズが浮いてきて食いつく。そこで縄を引いて捕らえる——。

生き餌を泳がせる釣り方です。ナマズが歯を持つ肉食魚であることを、はっきり利用しています。

ところが必大は、この描写のあとにこう付け足しました。

「故ニ洛人預メ之ヲ識ル者ハ、避ケテ而シテ食ハズ」。だから京の人でこれを知っている者は、避けて食べない——。

カエルを餌にして獲った魚を食べたくない、というわけです。獲り方が食欲を殺いでいる。三百年前の京都の、ずいぶん人間くさい話です。

5. 江戸にナマズが来た年

では、いつ江戸にナマズが現れたのか。江戸の本は、二通りの答えを書いています。

ひとつは、さきほどの『続江戸砂子』の「享保七八の比より」

もうひとつは、『本草綱目啓蒙』です。本草学者・小野蘭山が講義で語ったところを弟子が書き取った大著で、ナマズの項に具体的な事件が書き留められています。

『本草綱目啓蒙』のナマズの項、産地と享保十四年の出水を記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ698・著作権保護期間満了)

まず産地。「城州ノ宇治川・淀川、江州ノ琵琶湖、信州ノ諏訪湖等ニ多シ」。百年前の『本朝食鑑』と、そっくり同じ顔ぶれです。

続けて、「大和本草ニ、箱根山ヨリ東北ニハ鯰魚ヲ産セズト云」。貝原益軒の『大和本草』に、箱根から東にナマズはいないと書いてある、と。

そして、その次です。

「魚譜ニ享保十四年九月朔日、武州猪頭ノ池水汎濫、而江武小石川邊塞満如大河、人家數百、人馬多死、爾來多有此魚ト云フ」

享保十四年(1729年)九月一日、武蔵の猪頭(井の頭)の池の水があふれ、江戸・小石川のあたりが塞がって大河のようになった。家は数百軒、人馬も多く死んだ。それ以来、この魚が多くいる——。

洪水がナマズを江戸へ運んできた、という説明です。

この話は、江戸後期の随筆にも引き継がれています。喜多村信節がまとめた『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』。ウナギやスッポンの話が並ぶ「飲食」の巻に、ナマズの一段があります。

『嬉遊笑覧』巻十上、ナマズの項の4列と翻刻
赤枠は該当4列。綴じ目をまたいで右から左へ続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』・NDL PID:992505 コマ231・著作権保護期間満了)

「〔大和本草〕に箱根より東に是なしと有、これも又誤りなり」

いきなり否定から入ります。箱根から東にいないというのは誤りだ、と。信節は江戸の人ですから、目の前にナマズがいるのを知っている。

そのうえで、二つの本を並べます。

「〔日東魚譜〕に昔は江戸になまづなかりしが、享保十四年九月、井頭より水溢出たることありし、其より鯰魚出來けるよしみゆ」。井の頭の出水の話は、ここにも出てきます。

「〔増補總鹿子〕に往昔は此魚關東には曾てなかりき、享保年中より甚多くなれり」。昔はまったくいなかったが、享保年間から非常に多くなった

享保七、八年か、享保十四年か。年は食い違います。それでも三冊が口をそろえているのは、享保のあいだに江戸のナマズが増えたという一点です。享保は1716年から1736年。安政の地震の、およそ百三十年前にあたります。

6. 江戸でも、カエルで釣るようになった

増えたあとのことも、記録に残っています。

本草学者・伊藤圭介が集めた『錦窠魚譜(きんかぎょふ)』に、墨で描かれたナマズの図があります。その隣のページに、びっしりと書き入れがあります。

『錦窠魚譜』に収められたナマズの図と、右ページの書き入れ
左ページに墨一色のナマズ。右ページの書き入れは「鯰釣」と題され、武州(武蔵)・相州(相模)の溝川で、浮き藻の多いところにカエルを使って釣るという趣旨が記されている。くずし字のため、ここでは判読できた語のみを示す。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『錦窠魚譜』・NDL PID:2592270 コマ105・著作権保護期間満了)

題は「鯰釣」。続いて「武州」の字が読めます。武蔵と相模の溝川、浮き藻の多いところで、を使って釣る——という趣旨の書き入れです(くずし字のため、全文の引用は控えます)。

元禄の淀川で書き留められたカエル釣りが、のちには関東の溝川の話として書き留められている。ナマズと一緒に、釣り方も東へ移ってきたことになります。

7. 「關東にては下品の人のみ食す」

ただし、江戸の人がナマズを歓迎したかというと、そうでもありません。

さきほどの『嬉遊笑覧』は、ナマズの一段をこう締めています。

「西國のなまづとは其形やゝ異なり、關東にては下品の人のみ食す」

西国のものとは形が少し違う。そして関東では下層の人だけが食べる——。

『本朝食鑑』も、味については「稍佳ナリ、但シ鱠及ビ蒲鉾ノミ、其ノ餘ハ之ヲ食フニ宜シカラズ」と書いていました。まずまずだが、鱠と蒲鉾にするくらいで、ほかの食べ方はよくない、と。

上方でも江戸でも、ナマズの評価は高くありません。カエルで釣る魚、泥の中の魚、新参の魚。

その低い評価が、地震のあとの絵では逆に効いてきます。

鯰絵「鯰のかば焼大ばん振舞」。巨大なナマズが俎板に載せられ、包丁を持った男がその上に乗っている
左に巨大なナマズ、その背に乗って包丁を構える男。中央では丼が山と積まれ、右手では蒲焼の台に串が並ぶ。地震を起こしたナマズを蒲焼にして振る舞う、という趣向。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「鯰のかば焼大ばん振舞」・NDL PID:1304001・パブリックドメイン)

暴れたナマズを、こんどはこちらが食ってやる。鯰絵には、この手の「仕返し」の趣向がいくつもあります。

ちなみに『嬉遊笑覧』のこの一段のすぐ前には、深川の鰻が名産だという話や、江戸のうなぎ屋の始まりについての考証が並んでいます。蒲焼といえばウナギだった町で、ナマズを俎板に載せて蒲焼にしてみせる。ずいぶん痛快な絵だったはずです。

まとめ

整理します。

元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』は、ナマズを「餘州未ダ之有ラズ」——宇治川・淀川・琵琶湖・諏訪湖のほかにはいない魚だと書きました。

享保二十年ごろの『続江戸砂子』は、「關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し」と書きました。

『本草綱目啓蒙』は、享保十四年九月一日の井の頭の出水を挙げ、それ以来この魚が多いと伝えました。

そして安政二年(1855年)、江戸の町はナマズと要石の絵であふれます。

地震の主として絵に描かれたとき、ナマズは江戸に来て百三十年ほどの、比較的新しい魚でした。カエルで釣られ、下層の食べものとされ、それでいて名産にも数えられていた。

そういう位置にいた魚が、地の底で日本を揺らす大ナマズになった。江戸の本をたどると、その落差のほうが面白く見えてきます。

出典

💡 この記事でわかったこと

  1. 01

    江戸の本は「いなかった」と繰り返し書いています。

    元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』は産地を宇治川・淀川・琵琶湖・諏訪湖とし「餘州未有之」(ほかの国にはまだいない)と記しました。享保二十年ごろの『続江戸砂子』も「關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し」と書いています。ただし文政十三年(1830年)の『嬉遊笑覧』は、『大和本草』の「箱根より東に是なし」を「これも又誤りなり」と否定しており、江戸後期には見解が割れていました(NDL PID:2557333 コマ151/PID:1874269 コマ699/PID:992505 コマ231)。

  2. 02

    享保年間(1716〜1736年)だと複数の本が伝えています。

    『続江戸砂子』は「享保七八の比より」(1722〜23年ごろ)、『本草綱目啓蒙』と『嬉遊笑覧』は「享保十四年九月」の井の頭の出水以来だとしています。『本草綱目啓蒙』は「魚譜ニ享保十四年九月朔日、武州猪頭ノ池水汎濫、而江武小石川邊塞満如大河、人家數百、人馬多死、爾來多有此魚ト云フ」と、洪水の被害まで書き留めています(NDL PID:1874269 コマ698-699/PID:992505 コマ231)。

  3. 03

    生きたカエルを餌にしました。

    『本朝食鑑』は淀川の漁について「小繩ヲ以テ蛙ヲ繋ギ、之ヲ水上ニ放ツ。蛙跳レバ則チ鯰浮ビテ之ヲ啄ム。繩ヲ引キテ之ヲ得ル」と記しています。同書はそのうえで「故ニ洛人預メ之ヲ識ル者ハ、避ケテ而シテ食ハズ」——京の人でこれを知っている者は避けて食べない、とも書いています。幕末の『錦窠魚譜』には「鯰釣」と題した書き入れがあり、武蔵・相模の溝川でカエルを使って釣る趣旨が記されています(NDL PID:2557333 コマ151/PID:2592270 コマ105)。

  4. 04

    安政二年(1855年)十月二日の江戸の地震のあとに刷られた、ナマズを主役にした錦絵です。

    国立国会図書館には「安政大地震絵」としてまとまった一群が残っており、鹿島神宮の要石が大ナマズを押さえる図、要石を担ぐ人々、ナマズを蒲焼にして振る舞う図などが含まれます。いずれもパブリックドメインとして公開されています(NDL PID:1304005/PID:1303383/PID:1304001)。

シェア𝕏fLINE
🐟

SAKANA 編集部

良輔

論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 古文献の記事は、国立国会図書館デジタルコレクション等で公開されている原本画像を 拡大して字を目視で照合し、読めた箇所だけを引用しています。