ナマズと地震はなぜ結びついた——江戸に鯰はいなかった
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享保二十年(1735年)に出た江戸の地誌『続江戸砂子』は、江戸の名産に宮戸川のナマズを挙げながら、「關東には鯰なきよし」、関東にナマズはいないと昔から言い伝えられてきた、と書いています。地面が揺れると、地震の前にナマズが騒ぐ、地震を起こしているのは大ナマズだ、という話が出てきますが、このナマズと地震の結びつきを絵にして広めたのは江戸の人たちで、安政二年(1855年)の地震のあと、江戸ではナマズを描いた錦絵が大量に売られました。その江戸に、ナマズはもともといなかったというのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』二帖・NDL PID:1287113 コマ37・著作権保護期間満了)
江戸の本の中でナマズがどこにいるかを探すのに、まず開いたのは『古事類苑(こじるいえん)』でした。神宮司庁が編んだ古典籍の巨大な引用集で、テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きしてあり(動物部のこの冊は明治43年刊)、その「動物部」(NDL PID:1874269、全876コマ)を「鯰」「なまづ」「ナマズ」で走査すると、ナマズの記事帯はコマ697から699の三コマ分にありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ698・著作権保護期間満了)
ここに引かれた本を順に開いていくと、「ナマズは関東にいない」という話が何度も出てきます。ただ、その前に地震の絵のほうを見ておきます。
安政二年、江戸は鯰の絵であふれた
安政二年(1855年)十月二日の夜、江戸は大きな地震に襲われ、その後に、ナマズを主に描いた錦絵、鯰絵(なまずえ)が出版されました。国立国会図書館には、その一群が「安政大地震絵」としてまとめて残っています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「(要石)」・NDL PID:1304005・パブリックドメイン)
要石は常陸国・鹿島神宮にある石で、鹿嶋市の文化財の解説には、この石について「地震をおこす大鯰の頭を押さえている」との伝説があると記されています。絵の中ではその石が持ち上げられ、足もとにナマズの顔をした人物が倒れていて、地震=大ナマズ=それを押さえる要石という図式が、絵の説明なしで通じるほど江戸の町で共有されていたことが分かります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「しばらくのそとね」・NDL PID:1303383・パブリックドメイン)
歌舞伎の見立てにまでなっているのですから、ナマズは江戸の人にとって、すっかりおなじみの地震の主でした。
その百二十年前の「關東には鯰なきよし」
冒頭の『続江戸砂子(ぞくえどすなご)』は、菊岡沾凉(きくおか・せんりょう、1680〜1747)が江戸の名所と名産をまとめた本で、その「江府名産」の項に「宮戸川鯰」が挙がっています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ699・著作権保護期間満了)
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〔續江戸砂子 一〕江府名産〈并近在近國〉宮戸川鯰 關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し、上方の鯰とはかたち異なれども、大方は似たり、
現代語訳
宮戸川の鯰。関東にはナマズがいないと、昔から言い伝えられてきたが、享保七、八年(1722〜23年)ごろから浅草川に多くなった。上方のナマズとは形が違うけれども、おおよそは似ている。
「宮戸川鯰 關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し」。関東にナマズはいないと昔から言い伝えられてきたが、享保七、八年(1722〜23年)ごろから浅草川に多くなった、という説明で、名産として挙げながら、その魚が最近になって現れたことを隠していません。しかも「上方の鯰とはかたち異なれども、大方は似たり」と、上方のナマズと比べています。比べる相手が上方なのには、理由がありました。
元禄の本は「餘州未ダ之有ラズ」
元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』は、人見必大(ひとみ・ひつだい)が食べものを一つずつ論じた大著で、その巻七、川と湖の鱗のない魚を集めた「河湖無鱗」の部に「鯰」の項があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)
必大は姿かたちを書いたあと、産地の話に進みます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)
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(其ノ味)稍佳ナリト(雖モ)、但シ鱠及ビ蒲鉾ノミ、其ノ餘ハ之ヲ食フニ宜シカラズ、本朝未ダ流水ニ生ズル者ヲ見ズ、惟ダ止水ニ生ズ、故ニ洛之宇治川・淀川、近之琶湖、信之諏訪湖ニ之ヲ采ル、餘州未ダ之有ラズ
現代語訳
(その味は)まずまずではあるが、鱠と蒲鉾にするくらいで、そのほかの食べ方はよくない。わが国では流れのある川に育つものを見たことがなく、ただ止まった水にだけ育つ。だから京の宇治川・淀川、近江の琶湖(琵琶湖)、信濃の諏訪湖でこれを採る。ほかの国にはまだいない。
「本朝未ダ流水ニ生ズル者ヲ見ズ、惟ダ止水ニ生ズ」、日本では流れのある川に育つものを見たことがなく、ただ止まった水にだけ育つ、と書いてから、「洛之宇治川・淀川、近之琶湖、信之諏訪湖ニ之ヲ采ル」と、京の宇治川と淀川、近江の琶湖、信濃の諏訪湖を挙げています。「琶湖」は琵琶湖のことで、原本は「琵」を略して二字で書いています。そのあとに置かれた六文字が、「餘州未ダ之有ラズ」、ほかの国にはまだいない、でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)
元禄の必大にとって、ナマズは上方と近江・信濃の魚で、江戸の魚ではありませんでした。
淀川ではカエルを泳がせて釣った
その上方でナマズがどう獲られていたかも、同じ『本朝食鑑』が続けて書いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ151・著作権保護期間満了)
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(鯰)魚ヲ小繩ヲ以テ蛙ヲ繋ギ之ヲ水上ニ放ツ、蛙跳レバ則チ鯰浮ビテ之ヲ啄ム、繩ヲ引キテ之ヲ得ル、故ニ洛人預メ之ヲ識ル者ハ避ケテ而シテ食ハズ
現代語訳
(淀川の漁師は多くナマズを釣る。)細い縄にカエルをつないで水面に放つ。カエルが跳ねるとナマズが浮いてきてこれをついばむ。そこで縄を引いて捕らえる。だから京の人であらかじめこれを知っている者は、避けて食べない。
「小繩ヲ以テ蛙ヲ繋ギ、之ヲ水上ニ放ツ。蛙跳レバ則チ鯰浮ビテ之ヲ啄ム。繩ヲ引キテ之ヲ得ル」。細い縄にカエルをつないで水面に放ち、カエルが跳ねるとナマズが浮いてきて食いつくので、そこで縄を引いて捕らえるという、生き餌を泳がせる釣り方です。必大はこの少し前で、ナマズには歯がある(「有歯」)とも書いています。
ところが必大は、この描写のあとに「故ニ洛人預メ之ヲ識ル者ハ、避ケテ而シテ食ハズ」、だから京の人でこれを知っている者は避けて食べない、と付け足しました。カエルを餌にして獲った魚は食べたくない、獲り方が食欲を殺いでいるという、ずいぶん人間くさい話が、三百年前の京都の記録として残っています。
竹生島の底にいたのは龍ではなかった
ここで引用を切ると、『本朝食鑑』の鯰の項は京の人が避けて食べない話で終わるように見えますが、原本は同じ列のまま先へ続いていて、次の二字は「俚諺」、世間の言い伝えです。舞台は近江の海津(江州海津)の浜で、そこに水に潜るのが達者な漁師がいた、と始まります。
村人はその漁師を止めました。以前にも湖に潜って竹生島(ちくぶしま)の深みまで行き、龍の群れを見て、驚き恐れて帰ってきた者がいる、というのです。漁師は引かず、竹生島は水の中ほどに浮かんでいて、底はがらんと空き、四方に通じていると聞いている(「竹生嶋泛水之中間、水底空曠、通于四方」)、龍がいたとしても神物だから人を害するはずがない、と言って海津の浜から潜りました。二、三刻たっても上がってこず、やがて彦根の水の上に浮かび、夕暮れに舟で村へ帰ってきて、村人にこう告げます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ152・著作権保護期間満了)
「嶋底無龍、但有群鯰」、島の底に龍はいない、ただナマズの群れがいるだけだ、と。その大きさは量りようもなく、帰りは風が悪く波が高く、まっすぐ戻れなかったので彦根に回ってきた、とまで書いてあります。言い伝えはもう一つ添えられていて、琵琶湖では八月中旬の月の明るい夜、ナマズが数千も自分から跳ねて竹生島の北の砂の上に身を投げ、跳ねまわるが、なぜなのかは分からない(「是不知何故也」)、というものです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ152・著作権保護期間満了)
必大はこれを「俚諺」として書き留めているだけで、本当の話だとは言っていません。それでも話は消えず、百五十年近くあとの本草学の本『重修本草綱目啓蒙』も、「本朝食鑑ニハ、竹生島泛水中間、其底空曠通四方、群鮎巨大不可量ト云ヘリ」と引いています(『古事類苑』動物部 コマ699)。ここの「鮎」はアユではなくナマズで、同じ項に、唐山(中国)ではナマズを鮎といい、日本では古くから香魚(アユ)の名にしている、と説明があり、竹生島のあたりには七、八尺から一丈あまりのものがまれにいる、という話も伝えています(「七八尺丈餘ナル者、稀ニアリト云フ」)。
ここに地震は出てきません。けれども、島の下にとてつもなく大きなナマズがいるという絵柄そのものは、安政の鯰絵より百五十年以上前に、上方の本にすでに書き留められていたように見えます。
江戸にナマズが来た年
江戸にナマズが現れた時期について、江戸の本は二通りの答えを書いています。ひとつは『続江戸砂子』の「享保七八の比より」で、もうひとつが、竹生島の話を引いていた『本草綱目啓蒙』です。小野蘭山が口で授けた内容を小野職孝が記録した本草学の大著で、『古事類苑』が引いているのはその改訂版『重修本草綱目啓蒙』(1844年)の巻三十、ナマズの項に具体的な事件が書き留められています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ698・著作権保護期間満了)
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釣ル、體涎滑ニシテ捕ガタシ、城州ノ宇治川、淀川、江州ノ琵琶湖、信州ノ諏訪湖等ニ多シ、大和本草ニ、箱根山ヨリ東北ニハ鮧魚ヲ産セズト云、魚譜ニ享保十四年九月朔日、武州豬頭ノ池水汎濫、而江武小石川邊塞滿如大河、人家數百、人馬多死、爾來多有此魚ト云フ
現代語訳
(漁師は蛙を使って)釣る。体がぬるぬるしていて捕まえにくい。山城の宇治川・淀川、近江の琵琶湖、信濃の諏訪湖などに多い。『大和本草』には、箱根山より東北には鮧魚(ナマズ)を産しないとある。『魚譜』には、享保十四年(1729年)九月一日、武蔵の豬頭(井の頭)の池の水があふれ、江戸・小石川あたりが大河のようにふさがり、人家数百、人馬が多く死んだ、それ以来この魚が多くいる、とある。
産地は「城州ノ宇治川、淀川、江州ノ琵琶湖、信州ノ諏訪湖等ニ多シ」と、『本朝食鑑』とそっくり同じ顔ぶれで、こちらは「琵琶湖」と三字で書いています。続けて「大和本草ニ、箱根山ヨリ東北ニハ鮧魚ヲ産セズト云」と、『大和本草』に箱根から東北にナマズはいないと書いてあることを紹介し(「鮧魚」はナマズの漢名で、この項の見出しも「鮧魚」です)、その次に事件が来ます。
「魚譜ニ享保十四年九月朔日、武州豬頭ノ池水汎濫、而江武小石川邊塞滿如大河、人家數百、人馬多死、爾來多有此魚ト云フ」。享保十四年(1729年)九月一日、武蔵の豬頭(井の頭)の池の水があふれ、江戸・小石川のあたりが塞がって大河のようになり、家は数百軒、人馬も多く死んだ、それ以来この魚が多くいる、という書き方で、出水のあとからナマズが多くなったとしています。
この話は、喜多村信節が江戸後期にまとめた随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』にも引き継がれています。ウナギやスッポンの話が並ぶ「飲食」の巻に、ナマズの一段があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』・NDL PID:992505 コマ231・著作権保護期間満了)
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物なり、〔大和本草〕に箱根より東に是なしと有、これも又誤りなり、〔日東魚譜〕に昔は江戸になまづなかりしが、享保十四年九月、井頭より水溢出たることありし、其より鯰魚出來けるよしみゆ、〔増補總鹿子〕に往昔は此魚關東には曾てなかりき、享保年中より甚多くなれり、西國のなまづとは其形やゝ異なり、關東にては下品の人のみ食す〈西國の産と異なりといへるは非なり、いづくにも色のかはれるあり〉
現代語訳
(鯰は寛永の『料理集』にも載っているが、それは近在にいるものを広く挙げた)ものである。『大和本草』に箱根より東にはいないとあるのは、これも誤りである。『日東魚譜』には、昔は江戸にナマズがいなかったが、享保十四年九月に井の頭から水があふれ出たことがあり、それからナマズが出てくるようになったと見える。『増補総鹿子』には、昔はこの魚は関東にはまったくいなかった、享保年間から非常に多くなったとある。西国のナマズとは形がやや違う。関東では下層の人だけが食べる。〈小字の注〉西国の産と違うというのは誤りである。どこにでも色の変わったものはいる。
信節はまず「〔大和本草〕に箱根より東に是なしと有、これも又誤りなり」と、箱根から東にいないというのは誤りだと否定し、そのうえで二つの本を並べます。「〔日東魚譜〕に昔は江戸になまづなかりしが、享保十四年九月、井頭より水溢出たることありし、其より鯰魚出來けるよしみゆ」は、『本草綱目啓蒙』が「魚譜」として引いていたのと同じ、享保十四年九月の井の頭の出水の話で、もう一つの「〔増補總鹿子〕に往昔は此魚關東には曾てなかりき、享保年中より甚多くなれり」は、昔はまったくいなかったが享保年間から非常に多くなった、という記事です。
享保七、八年か、享保十四年かで年は食い違いますが、ここまでに出てきた本はどれも、享保のあいだに江戸のナマズが増えたという点では一致しています。享保は1716年から1736年で、安政の地震のおよそ百三十年前にあたります。
江戸でもカエルで釣るようになった
増えたあとのことも記録に残っていて、本草学者・伊藤圭介が集めた『錦窠魚譜(きんかぎょふ)』には、墨で描かれたナマズの図の隣のページに、びっしりと書き入れがあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『錦窠魚譜』・NDL PID:2592270 コマ105・著作権保護期間満了)
題は「鯰釣」で、続いて「武州」の字が読め、武蔵と相模の溝川、浮き藻の多いところで蛙を使って釣る、という趣旨の書き入れです(くずし字のため、全文の引用は控えます)。この書き入れがいつ書かれたのかは分かりませんが、元禄の本で淀川の漁として書かれていたカエル釣りが、ここでは武州・相州の溝川の話になっていて、ナマズと一緒に釣り方も東へ伝わったように見えます。
「關東にては下品の人のみ食す」は誰の言葉か
ただし、江戸の人がナマズを歓迎したかというと、そうでもありません。『嬉遊笑覧』はナマズの一段を「西國のなまづとは其形やゝ異なり、關東にては下品の人のみ食す」と続けていて、西国のものとは形が少し違い、関東では下層の人だけが食べる、と読めます。
この二文を信節自身の言葉として読んでよいかは、はっきりしません。すぐ前は『増補總鹿子』の引用で、ここでは引用に「」がついておらず、どこで引用が終わるのかは文脈で読むしかないため、二文がその続きなのか信節の地の文なのか、字面だけでは決められないのです。手がかりになるのは、すぐ下に小さな字で書き足された注でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』・NDL PID:992505 コマ231・著作権保護期間満了)
「西國の産と異なりといへるは非なり、いづくにも色のかはれるあり」。西国の産と違うと言っているのは誤りで、どこにでも色の変わったものはいる、という注の「といへるは」は、誰かがそう言っている、という言い方です。信節は本文の「形が違う」を他人の言葉として退けているように見え、そうだとすれば、「形が違う」と書いたのは引用元の『増補總鹿子』のほうで、そのすぐあとの「下品の人のみ食す」も同じ引用の中の言葉と読むのが自然です。『続江戸砂子』も「上方の鯰とはかたち異なれども、大方は似たり」と書いていたように、江戸のナマズは上方と形が違うという見方は江戸の本に繰り返し出てきて、信節はそれを、どこにでもある色の違いくらいのものと見ていたようです。
『本朝食鑑』も味については「其ノ味稍佳ナリト雖モ、但シ鱠及ビ蒲鉾ノミ、其ノ餘ハ之ヲ食フニ宜シカラズ」、まずまずではあるが鱠と蒲鉾にするくらいで、ほかの食べ方はよくない、と書いていました。カエルで釣る魚、止まった水の魚、新参の魚と、上方でも江戸でもナマズの評価は高くなく、その低い評価が、地震のあとの絵では逆に効いてきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(「鯰のかば焼大ばん振舞」・NDL PID:1304001・パブリックドメイン)
暴れたナマズを、こんどはこちらが食ってやるという「仕返し」の趣向の絵です。『嬉遊笑覧』のナマズの一段のすぐ前には、深川の鰻が名産だという話や、江戸のうなぎ屋の始まりについての考証が並んでいて、蒲焼といえばウナギだった町で、ナマズを俎板に載せて蒲焼にしてみせるのですから、なかなか痛快な絵です。
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』が「餘州未ダ之有ラズ」と書いたとき、ナマズは宇治川・淀川・琵琶湖・諏訪湖の魚で、そのナマズが浅草川に多くなったと江戸の本が書くのは享保のころからで、『本草綱目啓蒙』によれば享保十四年九月一日の井の頭の出水のあとでした。安政二年(1855年)に江戸の町がナマズと要石の絵であふれたとき、地震の主として描かれたその魚は、江戸に来て百三十年ほどの比較的新しい魚で、カエルで釣られ、下層の食べものとされ、それでいて名産にも数えられていました。そういう位置にいた魚が、地の底で日本を揺らす大ナマズになったことになります。
出典
- 『古事類苑』動物部 コマ697-699(鯰の項)——国立国会図書館デジタルコレクション。『続江戸砂子』『大和本草』『重修本草綱目啓蒙』の引用はこの活字本の画像で照合した
- 『本朝食鑑』巻七「鯰」(人見必大・元禄十年刊)コマ151-152——国立国会図書館デジタルコレクション
- 『嬉遊笑覧』巻十上 飲食(喜多村信節)コマ231——国立国会図書館デジタルコレクション。明治三十六年(1903年)の活字本で照合した
- 『梅園魚品図正』二帖 コマ37(毛利梅園)——国立国会図書館デジタルコレクション
- 『錦窠魚譜』コマ105(伊藤圭介)——国立国会図書館デジタルコレクション
- NDLイメージバンク「鯰絵」——国立国会図書館。安政二年十月二日夜の地震と鯰絵についての解説
- 鹿嶋市「現在の要石」——茨城県鹿嶋市。要石の伝説について
- 「(要石)」/「しばらくのそとね」/「鯰のかば焼大ばん振舞」——国立国会図書館デジタルコレクション(安政の鯰絵)
この記事でわかったこと
江戸の本は「いなかった」と繰り返し書いています。
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』は産地を宇治川・淀川・琵琶湖・諏訪湖とし「餘州未有之」(ほかの国にはまだいない)と記しました。享保二十年ごろの『続江戸砂子』も「關東には鯰なきよし、古來よりいひつたへたりしが、享保七八の比より、淺草川に多し」と書いています。ただし江戸後期の随筆『嬉遊笑覧』は、『大和本草』の「箱根より東に是なし」を「これも又誤りなり」と否定しており、江戸後期には見解が割れていました(NDL PID:2557333 コマ151/PID:1874269 コマ699/PID:992505 コマ231)。
享保年間(1716〜1736年)だと複数の本が伝えています。
『続江戸砂子』は「享保七八の比より」(1722〜23年ごろ)、『本草綱目啓蒙』が引く『魚譜』と『嬉遊笑覧』が引く『日東魚譜』は「享保十四年九月」の井の頭の出水以来だとしています。『本草綱目啓蒙』は「魚譜ニ享保十四年九月朔日、武州豬頭ノ池水汎濫、而江武小石川邊塞滿如大河、人家數百、人馬多死、爾來多有此魚ト云フ」と、洪水の被害まで書き留めています(NDL PID:1874269 コマ698-699/PID:992505 コマ231)。
生きたカエルを餌にしました。
『本朝食鑑』は淀川の漁について「小繩ヲ以テ蛙ヲ繋ギ、之ヲ水上ニ放ツ。蛙跳レバ則チ鯰浮ビテ之ヲ啄ム。繩ヲ引キテ之ヲ得ル」と記しています。同書はそのうえで「故ニ洛人預メ之ヲ識ル者ハ、避ケテ而シテ食ハズ」——京の人でこれを知っている者は避けて食べない、とも書いています。伊藤圭介が編んだ『錦窠魚譜』には「鯰釣」と題した書き入れがあり、武蔵・相模の溝川でカエルを使って釣る趣旨が記されています(NDL PID:2557333 コマ151/PID:2592270 コマ105)。
あります。
元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』巻七の鯰の項は、「俚諺」(世間の言い伝え)として、琵琶湖の竹生島の底に潜った漁師が「嶋底無龍、但有群鯰」——島の底に龍はいない、ナマズの群れがいるだけだ——と語った話を書き留めています。のちの『重修本草綱目啓蒙』もこれを「本朝食鑑ニハ、竹生島泛水中間、其底空曠通四方、群鮎巨大不可量ト云ヘリ」と引いています。どちらにも地震の話は出てきません(NDL PID:2557333 コマ151-152/PID:1874269 コマ699)。
安政二年(1855年)十月二日の江戸の地震のあとに刷られた、ナマズを主役にした錦絵です。
国立国会図書館には「安政大地震絵」としてまとまった一群が残っており、鹿島神宮の要石が大ナマズを押さえる図、要石を担ぐ人々、ナマズを蒲焼にして振る舞う図などが含まれます。いずれもパブリックドメインとして公開されています(NDL PID:1304005/PID:1303383/PID:1304001)。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻2
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- (要石)
- しばらくのそとね
- 本朝食鑑 12巻.[2]
丹岳野必大千里 著 [江戸時代]
- 嬉遊笑覧 : 12巻附1巻.下
喜多村信節 著 1903 2版
- 錦窠魚譜.[12]
伊藤圭介 編
- 鯰のかば焼大ばん振舞
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