真珠養殖の歴史は二十三年かかった——大正の報告書が出した結論
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大正十五年(1926年)四月、帝國發明協會は五人の学者に調べさせた結果を薄い冊子にまとめ、「養殖眞珠カ其本質上天然眞珠ト異ラサルモノナリトノ結論ヲ得タルハ洵ニ欣喜ニ堪ヘサル所ナリ」と結びました。真珠のネックレスと聞いて思い浮かべるのはたいてい養殖の真珠です。けれどその養殖真珠が本物かどうかは、真珠養殖の歴史のなかで一度、正面から問われました。英虞湾で事業が始まってから丸い珠ができるまでに二十三年、その珠が天然と同じだと言われるまでに、さらに十年あまりかかっていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『介譜』・NDL PID:1286742 コマ52・著作権保護期間満了)
十二コマの薄い報告書
明治・大正の本は活字で組まれていて文字認識がよく効くので、国立国会図書館デジタルコレクションを「養殖真珠」で引くと、『御木本養殖眞珠調査報告書』がすぐに出てきました。表紙には大正十五年四月、帝國發明協會とあり(コマ2)、目次(コマ5)に並ぶのは、事業の沿革、御木本の真珠に関する発明、事業経営の概況、御木本幸吉の略歴の四つだけで、画像にして十二コマの冊子です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ6・著作権保護期間満了)
沿革の章は、その一行目から明治二十三年の博覧会の話で始まります。
始まりは、博覧会への出品だった
御木本幸吉は父祖伝来の鳥羽町に住み、志摩の特産である真珠に興味を持っていた、と報告書は書き出しています。転機は明治二十三年(1890年)に東京で開かれた第三回内国博覧会で、真珠と真珠貝の生活標本を出品します。それをきっかけに、東京帝国大学教授の箕作佳吉博士(博覧会の審査官)と、当時まだ大学院生だった岸上博士から、真珠貝を養殖すること、そして中国の淡水真珠のでき方を日本の真珠貝に応用して改良する方法を、はじめて教わったといいます。
そのころから佐々木忠次郎博士も真珠と真珠貝の研究に取り組み、「懇篤ナル聲援」を与えた、とも書かれています。出品した本人が審査する側の学者から作り方を教わっていて、博覧会が学者と出会うきっかけになっていたわけですが、この二人の学者の名前は、報告書のなかでもう一度、まったく別の立場で出てきます。
原理そのものは、単純だった
教わった原理を、報告書は、真珠貝の外套膜(がいとうまく)は常に真珠質を分泌しているので、この膜に接触するものがあれば必ず真珠質に包まれて真珠ができる、と要約しています。原理は一行で済みます。実際、かつて中国南部では土の塊や鉛の像を芯にして、貝の内側に薄い真珠質をかぶせた仏像が作られていました。ただしそれは装飾品としての価値はなく、さまざまな点で人々の好みを満たすには至らなかった、と報告書は書いています。難しかったのは原理ではなく、丸くて美しい珠を貝の中で作らせることでした。
二十三年かかっている
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ8・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ8・著作権保護期間満了)
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明治二十三年九月三重縣志摩郡英虞灣ニ於テ養殖眞珠ノ事業ヲ開始シ、之カ研究ニ苦心シ多大ノ困難ヲ經タル後遂ニ明治二十七年其成功ノ曙光ヲ認ムルニ至リ、次テ同二十九年一月養殖眞珠ニ關スル特許權ヲ得タリ。爾來十七年間幾多ノ研鑽ト實驗トヲ重ネ大正二年漸クニシテ多年理想トセシ優良ナル眞圓眞珠ヲ產出スルニ至レリ。
現代語訳
明治二十三年(1890年)九月、三重県志摩郡の英虞湾(あごわん)で養殖真珠の事業を始めた。その研究に苦心し、大きな困難を経たのち、ついに明治二十七年(1894年)に成功のきざしを認めるに至り、次いで明治二十九年(1896年)一月、養殖真珠に関する特許権を得た。それから十七年間、いくたびも研鑽と実験を重ね、大正二年(1913年)にようやく、長年の理想であった優良な真円真珠を産み出すに至った。
経営の章の「(一)養殖場」には、年が細かく入っています。明治二十三年(1890年)九月に三重県志摩郡の英虞湾(あごわん)で事業を開始し、明治二十七年(1894年)に「成功ノ曙光」を認め、明治二十九年(1896年)一月に特許権を取得。ここまでで六年です。ただ、このとき作れたのは半円真珠で、沿革の章(コマ6)は、明治二十七年七月に「半圓眞珠」の産出に成功の曙光を認めた、と書いています。
この半円真珠は、天然真珠と比べれば誰でもたやすく見分けがつき、値段も安かった。そのためロンドンやパリの市場では特別な商品として扱われ、取引で問題になることはなかったとあります(コマ6)。そこから「爾來十七年間」研鑽と実験を重ねて、大正二年(1913年)にようやく丸い真円真珠を産み出すに至ったとあります。英虞湾での事業開始から数えて、二十三年です。
沿革の章によれば、この真円真珠を欧米の市場に出すと天然真珠と異なるところがなかったので、ロンドンとパリの真珠商のあいだに「空前ノ驚愕」を与えたといいます。見分けのつく半円真珠のうちは何も起きず、見分けがつかなくなって初めて「本物か」が問われるようになったという順序が、報告書の書き方からはっきり読み取れます。
「外科的植皮術樣ニ壓着シ」
その真円真珠を作る方法は、特許第三三六四〇号「眞珠素質被着法」として記録されていて、以前に取った特許第二九四〇九号を改良したものだと報告書は書いています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ7・著作権保護期間満了)
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右特許第三三六四〇號眞珠素質被着法ハ御木本氏ノ曩ニ得タル特許第二九四〇九號ヲ改良シタルモノニシテ適當ノ核ヲ貝ノ眞珠素質分泌細胞組織ノ皮膜ニテ被包シ其口ヲ結紮シタル儘他ノ母貝ノ表皮ヲ傷ケ其ノ下層ニ外科的植皮術樣ニ壓着シ海中ニ放養シテ眞珠素質
現代語訳
この特許第33640号「真珠素質被着法」は、御木本氏が以前に得た特許第29409号を改良したもので、適当な核を、貝の真珠質を分泌する細胞組織の皮膜で包み、その口をくくったまま、別の母貝の表皮を傷つけて、その下層に外科の植皮術のように圧着し、海に放して真珠質を(まとわせる方法である)。
核を、貝の真珠質を分泌する細胞組織の皮膜で包んで口をくくり、それを別の母貝の表皮を傷つけてその下層に「外科的植皮術樣ニ壓着」し、海に放して真珠質をまとわせる、という手順です。貝に対して外科手術と同じ植皮術という言葉が使われていて、この作業はきわめて精緻な技工を要し、熟練した選抜職工でなければ行えないもののようだ、とも書かれています。
そのあとに疑いの声が紹介されます。この方法が特許公報で発表された当時、薄い皮膜で包んで口をくくる作業など精緻すぎて実際にはできないだろうと想像した人がいて、欧州の学者のあいだにも同じ意見があった、というのです。報告書の答えは、理屈ではありませんでした。「今回實際ニツキテ調査セルニ」、委員たちは実際に現場を調べ、技術者が皆一様に細い結紮條で口をくくる作業をしているのを見て、その精緻な技術に驚嘆した、と書いたうえで、数を出しています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ7・著作権保護期間満了)
この方法で海に放し、数年かけて真珠質をまとわせた母貝五十個のうち、十三個から真円真珠を取り出すことができました。その珠を検査すると、色彩と形状のどの点でも非の打ちどころがなく(「間然スル所ナク」)、天然真珠と比べて何の遜色も認められなかったといいます。五十個のうち十三個、四個に一個ほどで、「本物か」という問いへの答えは、まずこの十三個の珠から出ていました。
敵は、赤潮とタコだった
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ8・著作権保護期間満了)
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就中赤潮ト章魚トハ手術ヲ施セル眞珠貝ヲ全滅ニ歸セシムルゴト稀ナラズ。故ニ御木本氏ハ先ヅ活籠ヲ工案シ其中ニ眞珠貝ヲ蓄養シ以テ害敵ノ襲來ヲ防ギ又赤潮ノ發生ニ際シテハ之ヲ他ノ安全區域ノ海面ニ移シ其目的ヲ達シ得タリ。
現代語訳
なかでも赤潮とタコは、手術をほどこした真珠貝を全滅させてしまうことが珍しくない。そこで御木本氏はまず「活籠」を考案し、そのなかに真珠貝を入れて飼い、外敵の襲来を防いだ。また赤潮が発生したときには、これを別の安全な海面へ移して、目的を果たすことができた。
「就中赤潮ト章魚トハ手術ヲ施セル眞珠貝ヲ全滅ニ歸セシムルゴト稀ナラズ」。熟練の手で手術をほどこした真珠貝が、タコに食われ、赤潮で死に、全滅することも珍しくなかったというの。ここで相手にしているのは、技術ではなく海です。対策が「活籠」で、籠のなかに真珠貝を入れて飼って外敵の襲来を防ぎ、赤潮が出たときは別の安全な海面へ移しました。
報告書には、いまも有効な特許を種類別に数えた箇所があり(コマ7)、養殖真珠に関するもの九件、活籠に関するもの四件、仔虫附着に関するもの二件、色沢補整などに関するもの二件。真珠の作り方そのものではなく、貝を生かしておくための道具に四件が充てられています。事業が大きくなると天然に生まれる稚貝だけでは足りなくなり、御木本は十数年の研究と実験の末、海中に浮游している真珠貝の仔虫を付着させて集める方法を発明し、大規模に実施して成果を上げた、と報告書は記しています。
その道具が特許第六〇三一二号(大正十三年四月一日)の「眞珠貝仔蟲附着器」で、大正十四年七月に海に沈め、同年十一月に引き揚げて調べると、一つの籠に最多で一万六千個、最少でも一千個の稚貝が付いていたとあります。真珠を作る前に、貝そのものを自分で殖やすところまで来ていたのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『介譜』・NDL PID:1286742 コマ52・著作権保護期間満了)
「本質上、天然真珠と異ならざる」
この報告書がなぜ作られたのかは、巻頭の前書き(コマ3〜4)に書いてあります。御木本の事業がここまで来たことを述べたあと、「養殖眞珠ノ性質ニ關シテハ英佛諸國ニ於テ異論アル所」、養殖真珠の性質についてはイギリスやフランスで異論がある、として、協会は学者五人に調査を委託し、前書きはその五人の名前を肩書きつきで並べています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ3・著作権保護期間満了)
東京帝国大学名誉教授の佐々木忠次郎、東京帝国大学理学部長の五島清太郎、東京帝国大学教授の岸上鎌吉、北里研究所技師で衆議院議員の宮島幹之助、農林技師で水産講習所技師の妹尾秀實の五人です。沿革の章で、明治二十三年に御木本に「懇篤ナル聲援」を与えた佐々木忠次郎博士と、真珠貝の養殖を教えた当時大学院生の岸上博士の名前が、ここにもう一度出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ6・3・著作権保護期間満了)
同じ「佐々木忠次郎」が、片方では三十数年前の応援者として、もう片方では調査を任された委員として登場します。岸上博士の名は、沿革の章では三字目の活字がつぶれていて読み切れませんが、前書きの活字と、委員が会長にあてた提出状(コマ4)では、はっきり「岸上鎌吉」と読めます。調べる側の五人のうち二人は事業の出発点に立ち会った学者と同じ名前で、報告書はそれを伏せず、自分の頁に並べて書いていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ4・著作権保護期間満了)
結論の一文はこの見開きの右頁にあって、書いているのは委員ではなく協会の会長で、委員の報告書を読んだうえでこう結んでいます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ4・著作権保護期間満了)
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翻刻
洋々タル將來ヲ有シ且ツ養殖眞珠カ其本質上天然眞珠ト異ラサルモノナリトノ結論ヲ得タルハ洵ニ欣喜ニ堪ヘサル所ナリ仍テ玆ニ右顛末ヲ公表シ世人ト共ニ此ノ喜ヲ分タントス大正十五年四月
現代語訳
(御木本氏の真珠養殖事業がきわめて有望で)洋々たる将来を持ち、かつ養殖真珠がその本質において天然真珠と異ならないものである——という結論を得たことは、まことに喜びに堪えないところである。よってここに右のてんまつを公表し、世の人々とともにこの喜びを分かちたい。大正十五年(1926年)四月。
養殖真珠はその本質において天然真珠と異なるものではなく、この結論を得たことはまことに喜びに堪えない、という一文です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『御木本養殖眞珠調査報告書』・NDL PID:947349 コマ4・著作権保護期間満了)
署名は大正十五年四月、帝國發明協會々長・法學博士・男爵 阪谷芳郎です。委員たち自身の言葉は本文(コマ7)にあり、特許の方法で得た養殖の真円真珠は天然の真円真珠と同一の特性をすべて備えているので、商取引での扱いも価格の算出も同じ待遇を受けるのが当然だ、とします。そのうえで、世界の真珠価格を保つため、養殖真珠の投げ売りと粗悪品の乱売を厳重に禁じることが最も注意すべき点だ、と続けています。本物かどうかの答えと並べて、値崩れへの心配が書かれている。この報告書は学問の問いと商売の問いを同時に見ていたことになります。
報告書はさらに、英国のJameson博士や仏国ボルドウ大学のBoutan教授がたびたび長文の論文を発表し、御木本真珠に偏見や危惧を抱く世間の一部の人々に向けて論じた、とも書いています(コマ7〜8)。いまネックレスに並んでいる珠はこの報告書の先にあって、百年前、少なくともこの冊子は、五十個の母貝と十三個の珠を示して、本質上異ならない、と答えていました。
この記事でわかったこと
『御木本養殖眞珠調査報告書』(帝國發明協會・大正十五年刊、NDL PID:947349)コマ8によれば、明治二十三年(1890年)九月に三重県志摩郡の英虞湾で事業が始まりました。
明治二十七年(1894年)に成功のきざしを認め(沿革の章・コマ6では七月、半円真珠の産出)、明治二十九年(1896年)一月に養殖真珠に関する特許権を取得。そこからさらに十七年をかけ、大正二年(1913年)に丸い真円真珠の産出に至ったと記されています。
大正十五年(1926年)の『御木本養殖眞珠調査報告書』では、帝國發明協會の会長が巻頭の前書きで、委員五人の報告を受けて「養殖眞珠カ其本質上天然眞珠ト異ラサルモノナリトノ結論ヲ得タル」と記しています。
委員は本文で、母貝五十個のうち十三個から取り出した真円真珠を検査し、天然真珠と比べて遜色を認められなかったと報告しています。前書きは、養殖真珠の性質について英仏で異論があったことを、調査のきっかけとして挙げています。
報告書からは二つ読み取れます。
ひとつは核を入れる手術で、貝の真珠質を分泌する細胞組織の皮膜で核を包んで口をくくり、別の母貝の表皮の下層に「外科的植皮術樣ニ壓着」するという精緻なもので、熟練した選抜職工でなければ行えないもののようだと記されています。もうひとつは海の側の問題で、「赤潮ト章魚」が手術をほどこした真珠貝を全滅させることが珍しくなく、その対策として「活籠」が考案されました。
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