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魚と貝

コハダとコノシロの違いは大きさ——武士が食べなかった「この城」

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この記事の目次

天保二年(1831年)の魚の事典『魚鑑』は、コハダを鮓にすれば鯛とともに上等の膳に出すと書き、同じ魚でも大きくなったコノシロとは天地ほどの違いがある、と言い切っています。コハダとコノシロの違いは大きさで、寿司屋の光り物の代表として江戸前を名乗る店なら外せないコハダが、育ってコノシロと名が変わるとネタケースから消えてしまう。しかも江戸では、武家がこの魚を決して食べなかったという話まで残っていて、同じ魚の扱いがなぜここまで割れたのかは、元禄の食物本から随筆、方言辞典までを開くと少しずつ見えてきます。

まず魚の姿です。毛利梅園の図譜には、同じ紙の上に小さいものと大きいものが並べて描かれています。

『梅園魚品図正』巻一の見開き。銀色の体に点の列が並ぶ大きな一尾を中心に、大小あわせて四尾の魚が描かれている
右ページの大きな一尾の見出しは「本草綱目曰 鱅(コノシロ)」。背に点の列が走り、腹は銀白色。その上の小さな二尾の見出しは「鱃魚一種」「江鰶魚」(どちらも脇に「サツハ」と振る)で、梅園は「此者即コハダ也。今コノシロノ小ナル者ヲコハダト云非也」と書き入れている。左ページの一尾には『本朝食鑑』を引いた「鯯 小ナル者ヲコハタト云」の見出しがつく。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻一・毛利梅園・NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)

神宮司庁が編んだ古典籍の巨大な引用集『古事類苑』の動物部(この冊は明治43年刊)でコノシロを探すと、コマ734から735のわずか2ページに、平安時代の辞書から江戸の随筆まで十数点が集まっていました。そのなかでいちばん長く引かれていたのが『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』で、原本はこう始まります。

『本朝食鑑』巻八のコノシロの項の冒頭。見出しの字は「鯯」で、下に小さく「音制 訓古乃之呂」とある
右端の柱に「本朝食鑑巻八」。見出しに続く「釋名」は「鰶」の字から始まり、この魚の字と名前の話が続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

元禄十年(1697年)刊、人見必大(ひとみ・ひつだい)が魚を一種ずつ、名前・姿かたち・味・薬効の順に解説した食物本で、コノシロは川や海の鱗のある魚(江海有鱗)を集めた巻八に入っています。見出しの字は「鯯」です。

『本朝食鑑』巻八の見出し「鯯」と、その下の小さな割注の大写し
見出しの「鯯」。下の割注は右の列が「音制 訓古」、左の列が「乃之呂」で、合わせて「音は制、訓は古乃之呂(このしろ)」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

屍の臭いは、別の魚の話だった

その釈名(呼び名の説明)を読んでいくと、「按、海上鱅魚、其臭如尸」、思うに海の鱅魚はその臭いが屍のようだ、というぎょっとする一文に行き当たります。コノシロの項に屍の臭いとあるので、やはりこの魚はそういう魚として嫌われていたのかと最初は読んでしまいましたが、字をよく見ると違いました。

『本朝食鑑』巻八 釈名の割注「按海上鱅魚」「其臭如尸」の大写し
右が「按 海上 鱅魚」、左がその続きの「其臭 如尸」。魚偏の字は「鱅」で、見出しの「鯯」とは右側が違う。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

この文の魚は「鱅」で、見出しの「鯯」とは、魚へんは同じでも右側が「庸」と「制」で違う、別の字の別の魚です。別の魚の話がコノシロの項にある理由は、必大がすぐ続けて書いていて、近ごろこの鱅をコノシロ(鯯)のことだとする人がいるが、おそらく誤りだろう(「故近世以鱅爲鯯、是恐訛焉」)という注意書きでした。屍の臭いがするのは鱅のほうで、コノシロと一緒にしてはいけない、と言っているのです。そのうえで必大は、二つの魚の匂いを「鱅者生而有尸氣、鯯者燒之如茶毗之氣」の一行で書き分けています。鱅は生きているうちから屍の気があり、鯯(コノシロ)は焼くと荼毘(火葬)の気のようだ、という区別です。

『本朝食鑑』巻八 釈名の割注「鯯者焼之如茶」「毗之氣」の大写し
右が「鯯ハ者 焼テ之ヲ 如シ茶」、左がその続きの「毗ノ之氣」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

生のままで臭う魚と、焼いたときに火葬を思わせる魚を、匂いの出どころで分けたわけですが、この取り違えは百年以上あとにも生きていました。冒頭の梅園の図を見返すと、大きな一尾の見出しは「本草綱目曰 鱅(コノシロ)」で、梅園は必大が誤りだろうと書いた組み合わせのまま、この魚に名前をつけています。必大がコノシロについて書いたのは焼くと火葬の匂いがするほうで、この匂いがこのあと何度も話に戻ってきます。

集解(かたちと生態)に進むと、まず呼び名の話になります。

『本朝食鑑』巻八「鯯」集解の、コノシロと小鰭(コハダ)の扱いを記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)
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翻刻

或以鮮作鱠、小者江都曰小鰭、京師曰麻宇加利、字作鯯童、惟民間之食、而賤士亦不足用、獨以小鰭作鮓、雖味稍可、亦不足賞也。通俗謂、富士山下

現代語訳

あるいは生のまま鱠にする。小さいものを江戸では「小鰭(こはだ)」、京都では「まうかり」という。字はこう書く。もっぱら民間の食べ物であって、身分の低い武士でさえ用いるに足りない。ただ小鰭だけは鮓にすれば味はまずまずだが、それでも賞するには足りない。世間ではこういう——富士山の下に……

「小者江都曰小鰭、京師曰麻宇加利」、小さいものを江戸では「小鰭(こはだ)」、京都では「まうかり」という、とあるので、コハダという呼び名はすでに元禄の本に出てきます。問題はそのあとで、「惟民間之食、而賤士亦不足用」、もっぱら民間の食べ物であって身分の低い武士でさえ用いるに足りない、と書いています。ただし必大は「獨以小鰭作鮓、雖味稍可、亦不足賞也」と一言だけ逃げ道を残していて、小鰭だけは鮓にすれば味はまずまずだが、それでも賞するには足りない、と、コハダの鮓のところだけ少し評価が上がっていました。

富士の神と、稲荷の狐

同じページには、この魚をめぐる俗説が三つ並んでいます。ひとつめは「通俗謂、富士山下有大河、入江多鯯魚、是山神所愛也、故詣富嶺之人最忌之」で、富士山の下の大河の入江にコノシロが多いのは山の神が愛する魚だからで、富士に詣でる人はこの魚を最も忌む、という話です。ふたつめは「或市街淫祠祭狐神者、亦供制魚、此亦狐之所嗜」、町なかの祠で狐の神を祭るところではこの魚を供える、狐の好むものだからだ、というもの。

三つめは「凡婦女忌之者多、是因有其尸氣乎」で、およそ女性でこれを忌む者が多いのは、この魚に屍の気があるからだろうか、と書いています。釈名で屍の臭いは鱅のほうと分けたはずの必大が、ここではコノシロに屍の気があるのかと書いているわけですが、疑問形にとどめて言い切ってはいません。神が愛するから食べない、狐が好むから供える、屍の気があるから避けると、理由はばらばらでも、行き着くところはどれも食べないということでした。

棺に、この魚を詰めた

ここから必大は、野州(下野国)室の八島を舞台にした長い物語を書き写します。市中の富商に美しい娘がいて、嫁ぐ年ごろを過ぎても深窓にいたが、町はずれに住む流れ者の公子(貴人の子)が家に出入りするうちに娘と通じてしまう。父母もうすうす気づいていたが拒まず、いずれこの公子に嫁がせようと考えていたところへ、州の刺史(国司)が娘の美しさを聞きつけて我がものにしようとし、断られて激怒して、何かと罪を探してはこの家を辱めようとした、という筋です。禍が迫っていると察した父母は、手を打ちます。

『本朝食鑑』巻八「鯯」の、棺にコノシロを詰めた場面の3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)
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翻刻

察禍之將至、表言曰、娘子遭疫俄没矣。新造棺槨、其中盛鯯魚數百尾、偽如死者、而父母親睦喪服、引柩俱出于野、於曠中茶毘之。刺史聞而哀歎不

現代語訳

禍が迫っていると察して、父母は表を出して言った。「娘は疫にかかって急に没しました」。新しく棺をつくり、その中にコノシロを数百尾詰めて、死者が入っているように見せかけた。父母らは喪服をまとって柩を引き、野に出て、原の中で荼毘に付した。国司はそれを聞いて嘆き……

「表言曰、娘子遭疫俄没矣」、娘は疫にかかって急に亡くなりましたと届け出て、「新造棺槨、其中盛鯯魚數百尾、偽如死者」、新しく棺をつくってその中にコノシロを数百尾詰め、死者が入っているように見せかけた。父母らは喪服をまとって柩を引き、野に出て原の中で荼毘に付します。焼けば、必大が釈名に書いていた火葬のような匂いが立つはずで、国司はそれを聞いて嘆いた、と物語は続きます。

「子の代」、そして必大は切り捨てる

『本朝食鑑』巻八「鯯」の、物語の結びと必大の批評3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ179・著作権保護期間満了)
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翻刻

少經日、父母及公子携娘潜出之他邦。後人憐之、作和歌而悼傷之、自茲呼津那志、號子代、訓鯯字言斯魚代娘子之死也。予謂此言兒女之戲談、不

現代語訳

しばらく日を経て、父母と公子は娘を連れ、ひそかに他国へ出ていった。後の人はこれを憐れみ、和歌を作って悼み傷んだ。それからのち「つなし」を「子代(このしろ)」と呼び、「鯯」の字をそう訓むようになった。この魚が娘の死の代わりになった、という意味である。——私が思うに、この話は子どもや女の戯れごとであって、採るに足りない。

しばらくして、父母と公子は娘を連れてひそかに他国へ出ていきました。「後人憐之、作和歌而悼傷之。自茲呼津那志、號子代」、後の人はこれを憐れんで和歌を作って悼み、それからのち「つなし」を「子代(このしろ)」と呼ぶようになった、とあり、「言斯魚代娘子之死也」、この魚が娘の死の代わりになったという意味だ、と結ばれます。コノシロは子の代、という名前の由来として、これ以上ないくらい筋の通った話です。

ところが必大は、書き写しておいて次の一行で「予謂此言兒女之戲談、不足用之」、この話は子どもや女の戯れごとであって採るに足りない、と切り捨てています。薬効の項(発明)でもこの魚を「此魚中之下品最賤者也」、魚のなかの下品で最も賤しいものと位置づけていて、物語は載せるが信じない、という距離の取り方を崩していません。

もうひとつの「子の代」

同じ子の代の話は、まったく別のかたちでも伝わっていました。江戸後期の博物家・毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生図譜『梅園魚品図正』のコノシロの図も、絵の脇に書き入れがびっしり並んでいます。

『梅園魚品図正』に描かれたコノシロの彩色図。銀色の体に点列が並ぶ
「癸巳三月四日 真寫」——天保四年(1833年)の写生。図の脇が書き入れで埋まっている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)
『梅園魚品図正』のコノシロの図に添えられた書き入れ6列と翻刻
赤枠は該当6列。□は判読できなかった一字。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)
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翻刻

日本ニテ昔此魚ヲ□ヲツナシト云 昔或人ノ子繼母ノ讒ニヨリ其父讒ヲ信シテ家僕ニ命メ其子ヲ殺サシム 家其罪ナキヲアワレミテ ツナシヲ焼テ其子ヲコロシテ焼タリト父ニツゲテ其子ヲタスケテ他所ヱ去シム 夫ヨリ此魚ノ名ヲ子ノシロト云 子ノ代リニ焼ケル故也

現代語訳

日本では昔この魚をツナシといった。昔ある人の子が、継母の讒言によって父に疑われ、父は讒言を信じて家僕に命じ、その子を殺させようとした。家僕はその子に罪のないことを憐れみ、ツナシを焼いて「その子を殺して焼いた」と父に告げ、子を助けて他所へ逃がした。それからこの魚の名を「子の代」という。子の代わりに焼いたからである。(□は判読できなかった一字)

昔、ある人の子が継母の讒言によって父に疑われ、父はそれを信じて家僕にその子を殺させようとしたが、家僕はその子に罪のないことを憐れんだ、という話です。そして「ツナシヲ焼テ、其子ヲコロシテ焼タリト父ニツゲテ、其子ヲタスケテ他所ヱ去シム」、ツナシを焼いて、その子を殺して焼きましたと父に告げ、子を助けて他所へ逃がした。「夫ヨリ此魚ノ名ヲ子ノシロト云。子ノ代リニ焼ケル故也」と、それからこの魚の名を「子の代」というのは、子の代わりに焼いたからだ、と結んでいます。登場人物も筋立てもまったく違うのに、人の代わりにこの魚を焼いた、という結論だけが同じなのです。

「普く人の知れる事なれば、爰に贅せず」

この話が江戸でどれくらい知られていたかは、越谷吾山(こしがや・ござん)が全国の方言を集めた安永四年(1775年)の『物類称呼』を見るとわかります。

『物類称呼』巻之二の「鱅魚」の項(見出しは前のコマ35、本文は「このしろ」から始まる)の、「子の代」の言い伝えと古歌の4列と翻刻
赤枠は該当4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2539349 コマ36・著作権保護期間満了)
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翻刻

蔵れば其子成長す。尤其子一生このしろを食せざらしむ。このしろは子の代なりといひつたへたり。古哥に 東路のむろの八嶋にたつ煙誰かこのしろにつなしやくらん此哥につきては古き物かたり有。普く人の知れる事なれは爰に贅せず

現代語訳

(胞衣とこのしろを一緒に)埋めればその子は成長する。ただしその子には一生このしろを食べさせない。「このしろ」は「子の代」なのだと言い伝えられている。古歌に「東路のむろの八嶋に立つ煙 誰かこのしろにつなし焼くらん」。この歌については古い物語がある。広く人の知っていることなので、ここでは贅言しない。

吾山はまず、生まれた子が次々に死んでしまう家では、子が生まれたとき胞衣(えな)とこのしろを一緒に地中に埋めるとその子は育つ、ただしその子には一生このしろを食べさせない、という別の風習を書きとめていて、ここでもこの魚が人の代わりを務めています。続けて「このしろは子の代なりといひつたへたり」と書き、古歌を一首、「東路のむろの八嶋にたつ煙 誰かこのしろにつなしやくらん」と引きますが、このむろの八嶋は『本朝食鑑』の物語と同じ場所です。

そこで吾山は、「此哥につきては古き物かたり有。普く人の知れる事なれは爰に贅せず」と書いて筆を止めています。この歌については古い物語があるが、広く人の知っていることなのでここでは贅言しない、というのですから、説明する必要すらないほど、この話は行き渡っていたことになります。

「この城を食う」

ここまでは名前の由来の話で、武家が食べなかった理由はもっと直接的でした。『古事類苑』が引いている江戸の随筆『塵塚談(ちりづかだん)』に、それが一行だけ書いてあります。

『古事類苑』動物部十七 魚中に引かれた『塵塚談』下の該当列と翻刻
赤枠は該当列。この列の末尾「此城を食」は次列の「といふひゞきを忌て也」に続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ735・著作権保護期間満了)
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翻刻

〔塵塚談 下〕河豚、鰶魚 我等若年の頃は、武家は決て食せざりしもの也、鰶魚は此城を食

現代語訳

河豚と鰶魚(コノシロ)。私たちが若かったころは、武家は決して食べなかったものである。コノシロは「この城を食う」という響きを忌んだからである。

「河豚、鰶魚 我等若年の頃は、武家は決て食せざりしもの也」、フグとコノシロは、私たちが若かったころ武家は決して食べなかったものだ、と言い、「鰶魚は此城を食といふひゞきを忌て也」と理由が続きます。コノシロは「この城を食う」という響きを忌んだからで、城に仕える身で、口に運ぶたびにその音が立つから食べない。屍の匂いでも山の神でも狐でもなく、語呂だったわけです。

ただし著者は、少し先で(『古事類苑』は間を「中略」としています)「鰶魚は今世も士人以上は喰はざれども、魚鮓にして士人も婦人も賞翫しくらふ」とも書いています。いまでも士分以上は食べないが、鮓にすれば武士も女性も賞翫して食べる、というので、形が変われば禁は解けていたことになります。

鮓にすれば、鯛と並ぶ

その鮓の扱いをはっきり書いたのが、冒頭に挙げた武井周作の『魚鑑』です。

『魚鑑』巻之下「このしろ」の、コハダについて記した2列と翻刻
赤枠は該当2列。「蓋壌」の右に「てんち」、「相違」の右に「ちがひ」のふりがな。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557483 コマ19・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

こはだ即今年のこのしろなり。鮓となす時は鯛とともに上饌に供す。このしろとは蓋壌の相違あり

現代語訳

コハダはつまり今年のコノシロである。鮓にするときは鯛とともに上等の膳に出す。コノシロとは天地ほどの違いがある。

「こはだ即今年のこのしろなり」、コハダとはつまり今年のコノシロである、と書いたうえで、「鮓となす時は鯛とともに上饌に供す」、鮓にするときは鯛とともに上等の膳に出す、と言い、最後に「このしろとは蓋壌の相違あり」と結んでいます。「蓋壌」の右には小さく「てんち」とふりがなが振ってあり、コノシロとは天地ほどの違いがある、という意味です。同じ魚が、大きさが違うだけで片方は魚中の下品、最も賤しいものとされ、もう片方は鯛と並んで膳に上がっていました。

名前が変わると、身分が変わる

この魚には三つの層がありました。

  • 匂い——焼くと荼毘(火葬)の気がすると書かれ、屍の気があるからかと女性に忌まれた
  • 物語——棺に詰めて焼かれ、継子の身代わりに焼かれ、胞衣とともに埋められた。人の代わりを務める魚
  • 語呂——「この城を食う」。武家が箸をつけなかった、いちばん現実的な理由

そのどれもコハダには効かないのは、小さいうちは名前が違うからです。いま寿司屋のケースにコハダが並んでコノシロが並ばないのは、味や大きさの問題だけではないのかもしれず、この魚は江戸で、名前を変えることで食べられるようになった魚でした。

ちなみに『本朝食鑑』の必大は、この手の話をひととおり書き写したうえで、下層の民が廃疾に苦しむのはこの魚のせいだという古老の説に対して、薬効の項で「愚按此言未當理」(愚かながら思うに、この言はまだ理に当たっていない)と付け加えています。物語は残しても、そのせいで人が責められることには反対する、という一行が、三百年以上前の食べ物の本に書いてあります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『古事類苑』動物部 / 『物類称呼』 / 『魚鑑』巻之下 / 『梅園魚品図正』2帖

この記事でわかったこと

  • 同じ魚の大小です。

    元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻八は「小者江都曰小鰭、京師曰麻宇加利」——小さいものを江戸では「小鰭(こはだ)」、京都では「まうかり」という、と記しています。天保二年(1831年)の『魚鑑』はさらにはっきりと「こはだ即今年のこのしろなり」(コハダとは今年のコノシロである)と書き、そのうえで「このしろとは蓋壌(てんち)の相違あり」——コノシロとは天地ほどの違いがある、としています。

  • 『古事類苑』動物部に引かれた江戸の随筆『塵塚談』下に、理由が一行で書かれています。

    「河豚、鰶魚 我等若年の頃は、武家は決て食せざりしもの也、鰶魚は此城を食といふひゞきを忌て也」——フグとコノシロは、私たちが若かったころ武家は決して食べなかった。コノシロは「この城を食う」という響きを忌んだからである、と。ただし少し先(『古事類苑』は間を中略)には、鮓にすれば武士も女性も賞翫して食べる、とも書かれています。

  • 江戸の本には「子の代(このしろ)」という語源譚が複数のかたちで載っています。

    『本朝食鑑』巻八は、下野国室の八島の富商が、国司に娘を求められて娘が死んだと偽り、棺にコノシロを数百尾詰めて焼いた、という物語を伝えています。『梅園魚品図正』の書き入れは、継母の讒言で殺されかけた子の代わりに家僕がツナシを焼いた、という別の話を記します。どちらも「人の代わりにこの魚を焼いた」という点だけが共通しています。ただし『本朝食鑑』の著者・人見必大自身は「予謂此言兒女之戲談、不足用之」(この話は子どもや女の戯れごとで、採るに足りない)と書いており、語源として断定はしていません。

  • 『本朝食鑑』巻八のコノシロ(見出しの字は「鯯」)の釈名に「鯯者燒之如茶毗之氣」——コノシロは焼くと荼毘(火葬)の気のようだ、とあります。

    屍のような臭いがすると書かれているのは海の「鱅魚」のほうで(「按、海上鱅魚、其臭如尸」)、著者の人見必大は、近ごろ鱅を鯯とするのはおそらく誤りだろうとしています。同じ項の集解には「凡婦女忌之者多、是因有其尸氣乎」(およそ女性でこれを忌む者が多い。この魚に屍の気があるからだろうか)とも書かれています。棺にこの魚を詰めて焼いたという物語も、同じ項に載っています。

この記事で開いた原本

どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。

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