魚図鑑

コハダとコノシロの違いは大きさ——武士が食べなかった「この城」

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寿司屋の光り物といえば、コハダです。江戸前を名乗る店なら、まず外せない一貫。

ところが、この魚が大きくなると名前が変わります。コノシロ。そして、寿司屋のネタケースから消えます。

コハダとコノシロの違いは、大きさです。同じ魚なのに、大きくなると扱いが変わる。しかも江戸では、武家がこの魚を決して食べなかったという話が残っています。

なぜでしょうか。

まず、その魚の姿を見ておきます。同じ紙の上に、小さいものと大きいものが並べて描かれた図が残っています。

『梅園魚品図正』2帖に描かれたコノシロ。大小あわせて四尾が一枚に並ぶ
手前の大きな一尾が「鰶(コノシロ)」、上に並ぶ小さな二尾が「鰶魚一種」。背に点の列が走り、腹は銀白色。左には「江鰶魚」の書き入れもある。同じ魚の育ち方の違いが、一枚のなかで見比べられるように描かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)

0. 江戸時代の魚の本は、いまそのまま読める

国立国会図書館デジタルコレクションには、江戸時代の本が撮影されたままの画像で公開されています。著作権はとうに切れているので、誰でも、無料で、1ページずつ拡大して読めます。

ただ、開けばすぐ目当ての一行に届く、というわけにはいきません。江戸の本に索引はないからです。

そこで先に開くのが『古事類苑』。明治から大正にかけて編まれた、古典籍の巨大な引用集です。テーマごとに、あちこちの本の該当箇所をまとめて並べてくれています。

その動物部でコノシロを探すと、コマ734から735のわずか2ページに、平安時代の辞書から江戸の随筆まで十数点が集まっていました。ここが入口です。

そのなかでいちばん長く引かれていたのが、『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』。原本を開いてみます。

『本朝食鑑』巻八「鰶」の項の冒頭。見出しの「鰶」の下に小さく「訓コノシロ」とある
右端の柱に「本朝食鑑巻八」「鱗部」。見出しに続く「釋名」から、この魚の字と名前の話が始まる。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

元禄十年(1697年)刊。医師・人見必大(ひとみ・ひつだい)が、魚を一種ずつ、名前・姿かたち・味・薬効の順に解説した食物本です。

コノシロは巻八、海の魚を集めた巻に入っています。

その釈名(呼び名の説明)の途中に、いきなりこう書いてあります。

1. 「その臭い、屍のごとし」

「按、海上鰶魚、其臭如尸」

思うに、海の鰶魚(コノシロ)は——その臭いが屍のようだ

食べ物の本の、魚の名前の説明のところに出てくる一文としては、かなり強い言い方です。

この「屍の匂い」は、このあと何度も戻ってきます。

集解(かたちと生態)に進むと、まず呼び名の話になります。

『本朝食鑑』巻八「鰶」集解の、コノシロと小鰭(コハダ)の扱いを記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

「小者江都曰小鰭、京師曰麻宇加利」

小さいものを、江戸では「小鰭(こはだ)」京都では「まうかり」という——。

コハダという呼び名は、すでに元禄の本に出てきます。

問題は、そのあとです。

「惟民間之食、而賤士亦不足用」

もっぱら民間の食べ物であって、身分の低い武士でさえ用いるに足りない——。

ただし、と必大は一言だけ逃げ道を残します。

「獨以小鰭作鮓、雖味稍可、亦不足賞也」

ただ小鰭だけは鮓にすれば味はまずまずだが、それでも賞するには足りない——。

コハダの鮓。ここだけ、少し評価が上がっています。

2. 富士の神と、稲荷の狐

同じページには、この魚をめぐる俗説が三つ並んでいます。

「通俗謂、富士山下有大河、入江多鰶魚、是山神所愛也、故詣富嶺之人最忌之」

世間ではこういう。富士山の下に大河があり、入江にコノシロが多い。これは山の神が愛する魚である。だから富士に詣でる人はこの魚を最も忌む——。

「或市街淫祠祭狐神者、亦供鰶魚、此亦狐之所嗜」

町なかの祠で狐の神を祭るところでは、この魚を供える。これも狐の好むものだからだ——。

そして三つめ。

「凡婦女忌之者多、是因有其尸氣乎」

およそ女性でこれを忌む者が多い。それはこの魚に屍の気があるからだろうか——。

神が愛するから食べない。狐が好むから供える。屍の気があるから避ける。理由はばらばらですが、結論はどれも同じです。食べない

3. 棺に、この魚を詰めた

ここから、必大は長い物語を書き写します。

舞台は野州(下野国)室の八島。いまの栃木県栃木市のあたりです。

市中に富商がいて、美しい娘がいた。嫁ぐ年ごろを過ぎても他家に嫁がず、深窓にいた。町はずれに流れ者の公子(貴人の子)が住んでいて、その家に出入りするうち、娘と通じてしまう。父母もうすうす気づいていたが拒まず、いずれこの公子に嫁がせようと考えていた。

ところが、そこへ州の刺史(国司)が娘の美しさを聞きつけ、我がものにしようとする。断られた国司は激怒し、罪をこしらえてこの家を辱めようとした。

禍が及ぼうとするその前に、父母は手を打ちます。

『本朝食鑑』巻八「鰶」の、棺にコノシロを詰めた場面の3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ178・著作権保護期間満了)

「表言曰、娘子遭疫俄没矣」

「娘は疫にかかって急に亡くなりました」と届け出た。

「新造棺槨、其中盛鰶魚數百尾、偽如死者」

新しく棺をつくり、その中にコノシロを数百尾詰めて、死者が入っているように見せかけた——。

そして父母みずから喪服を着て柩を引き、野に出て、原の中で荼毘に付します。

焼けば、匂いが立ちます。屍のような匂いが。

国司はそれを聞いて嘆いた、と続きます。

4. 「子の代」——そして必大は切り捨てる

『本朝食鑑』巻八「鰶」の、物語の結びと必大の批評3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ179・著作権保護期間満了)

しばらくして、父母と公子は娘を連れ、ひそかに他国へ出ていきました。

「後人憐之、作和歌而悼傷之。自茲呼津那志、號子代」

後の人はこれを憐れみ、和歌を作って悼んだ。それからのち「つなし」を「子代(このしろ)」と呼ぶようになった——。

「言斯魚代娘子之死也」

この魚が娘の死の代わりになった、という意味である——。

コノシロ=子の代。名前の由来として、これ以上ないくらい筋の通った話です。

ところが必大は、書き写しておいて、次の一行でこう切り捨てます。

「予謂此言兒女之戲談、不足用之」

私が思うに、この話は子どもや女の戯れごとであって、採るに足りない——。

そして薬効の項(発明)でも、この魚をこう位置づけています。

「此魚中之下品最賤者也」

これは魚のなかの下品、最も賤しいものである——。

物語は載せる。でも信じない。この距離の取り方が、必大という人です。

5. もうひとつの「子の代」

同じ「子の代」の話が、まったく別のかたちでも伝わっていました。

江戸後期の博物家・毛利梅園(もうり・ばいえん)の写生図譜『梅園魚品図正』です。この人には、魚を一匹写すたびに絵の余白を書き入れで埋めつくす癖があります。

『梅園魚品図正』に描かれたコノシロの彩色図。銀色の体に点列が並ぶ
「癸巳三月四日 真寫」——天保四年(1833年)の写生。図の脇が書き入れで埋まっている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)

その書き入れに、こう書かれています。

『梅園魚品図正』のコノシロの図に添えられた書き入れ6列と翻刻
赤枠は該当6列。□は判読できなかった一字。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ20・著作権保護期間満了)

昔、ある人の子が継母の讒言によって父に疑われた。父はそれを信じ、家僕に命じてその子を殺させようとする。

家僕は、その子に罪のないことを憐れみました。

「ツナシヲ焼テ、其子ヲコロシテ焼タリト父ニツゲテ、其子ヲタスケテ他所ヱ去シム」

ツナシを焼いて、「その子を殺して焼きました」と父に告げ、子を助けて他所へ逃がした——。

「夫ヨリ此魚ノ名ヲ子ノシロト云。子ノ代リニ焼ケル故也」

それからこの魚の名を「子の代」という。子の代わりに焼いたからである——。

登場人物も筋立てもまったく違うのに、結論だけが同じです。人の代わりにこの魚を焼いた

6. 「普く人の知れる事なれば、爰に贅せず」

この話が江戸でどれくらい知られていたかは、方言辞典を見るとわかります。

安永四年(1775年)の『物類称呼』。越谷吾山(こしがや・ござん)が全国の方言を集めた本です。

『物類称呼』巻之二 動物「鰶魚 このしろ」の、「子の代」の言い伝えと古歌の4列と翻刻
赤枠は該当4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2539349 コマ36・著作権保護期間満了)

吾山はまず、別の風習を書きとめています。

生まれた子が次々に死んでしまう家では、子が生まれたとき胞衣(えな)とこのしろを一緒に地中に埋めると、その子は育つ。ただしその子には、一生このしろを食べさせない——。

ここでも、この魚が人の代わりを務めています。

「このしろは子の代なりといひつたへたり」

そして古歌を一首引きます。

「東路のむろの八嶋に立煙 誰かこのしろにつなし焼くらん」

むろの八嶋——『本朝食鑑』の物語と、同じ場所です。

ここで吾山は、こう書いて筆を止めます。

「此哥につきては古き物かたり有。普く人の知れる事なれは爰に贅せず」

この歌については古い物語がある。広く人の知っていることなので、ここでは贅言しない——。

説明する必要すらない。それくらい、この話は行き渡っていたことになります。

7. 「この城を食う」

ここまでは名前の由来です。武家が食べなかった理由は、もっと直接的でした。

『古事類苑』が引いている江戸の随筆『塵塚談(ちりづかだん)』に、一行だけ書いてあります。

『古事類苑』動物部十七 魚中に引かれた『塵塚談』下の該当列と翻刻
赤枠は該当列。この列の末尾「此城を食」は次列の「といふひゞきを忌て也」に続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ735・著作権保護期間満了)

「河豚、鰶魚 我等若年の頃は、武家は決て食せざりしもの也」

フグと、コノシロ。私たちが若かったころは、武家は決して食べなかったものである——。

そして理由が続きます。

「鰶魚は此城を食といふひゞきを忌て也」

コノシロは——「この城を食う」という響きを忌んだからである。

コノシロ。この城。城を食う。

城に仕える身で、口に運ぶたびにその音が立つ。だから食べない。屍の匂いでも、山の神でも、狐でもなく、語呂でした。

ただし著者は、そのすぐあとにこうも書いています。「鰶魚は今世も士人以上は喰はざれども、魚鮓にして士人も婦人も賞翫しくらふ」

いまでも士分以上は食べない。けれども鮓にすれば、武士も女性も賞翫して食べる——。

形が変われば、禁は解ける。

8. 鮓にすれば、鯛と並ぶ

その「鮓にすれば」を、はっきり書いた本があります。

天保二年(1831年)、江戸の武井周作が書いた魚の事典『魚鑑』です。

『魚鑑』巻之下「このしろ」の、コハダについて記した2列と翻刻
赤枠は該当2列。「蓋壌」の右に「てんち」、「相違」の右に「ちがひ」のふりがな。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557483 コマ19・著作権保護期間満了)

「こはだ即今年のこのしろなり」

コハダとは、つまり今年のコノシロである。

「鮓とをすときは鯛とともに上饌に供そ」

鮓にするときは、鯛とともに上等の膳に出す——。

そして最後の一行。

「このしろとは蓋壌の相違あり」

コノシロとは、天地ほどの違いがある——。「蓋壌」の右には、小さく「てんち」とふりがなが振ってあります。

同じ魚です。大きさが違うだけで、片方は「魚中の下品、最も賤しいもの」、もう片方は鯛と並んで膳に上がる。

名前が変わると、身分が変わる

整理すると、この魚には三つの層がありました。

  • 匂い——焼くと屍のようだと書かれ、女性に忌まれた
  • 物語——棺に詰めて焼かれ、継子の身代わりに焼かれ、胞衣とともに埋められた。人の代わりを務める魚
  • 語呂——「この城を食う」。武家が箸をつけなかった、いちばん現実的な理由

そのどれも、コハダには効きません。小さいうちは名前が違うからです。

いま寿司屋のケースにコハダが並び、コノシロが並ばないのは、味や大きさの問題だけではないのかもしれません。この魚は江戸で、名前を変えることで食べられるようになった魚でした。

ちなみに『本朝食鑑』の必大は、この手の話をひととおり書き写したうえで、薬効の項でこう付け加えています。下層の民が廃疾に苦しむのはこの魚のせいだ、という古老の説に対して——「愚按此言未當理」(愚かながら思うに、この言はまだ理に当たっていない)。

物語は残す。でも、そのせいで人が責められることには反対する。三百年以上前の食べ物の本に、そう書いてあります。

ここに引いた本はすべて、国立国会図書館デジタルコレクションで無料公開されています。PIDとコマ番号を入れれば、同じページがそのまま開きます。

出典国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『古事類苑』動物部 / 『物類称呼』 / 『魚鑑』巻之下 / 『梅園魚品図正』2帖

💡 この記事でわかったこと

  1. 01

    同じ魚の大小です。

    元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻八は「小者江都曰小鰭、京師曰麻宇加利」——小さいものを江戸では「小鰭(こはだ)」、京都では「まうかり」という、と記しています。天保二年(1831年)の『魚鑑』はさらにはっきりと「こはだ即今年のこのしろなり」(コハダとは今年のコノシロである)と書き、そのうえで「このしろとは蓋壌(てんち)の相違あり」——コノシロとは天地ほどの違いがある、としています。

  2. 02

    『古事類苑』動物部に引かれた江戸の随筆『塵塚談』下に、理由が一行で書かれています。

    「河豚、鰶魚 我等若年の頃は、武家は決て食せざりしもの也、鰶魚は此城を食といふひゞきを忌て也」——フグとコノシロは、私たちが若かったころ武家は決して食べなかった。コノシロは「この城を食う」という響きを忌んだからである、と。ただし同じ箇所に、鮓にすれば武士も女性も賞翫して食べた、とも書かれています。

  3. 03

    江戸の本には「子の代(このしろ)」という語源譚が複数のかたちで載っています。

    『本朝食鑑』巻八は、下野国室の八島の富商が、国司に娘を求められて娘が死んだと偽り、棺にコノシロを数百尾詰めて焼いた、という物語を伝えています。『梅園魚品図正』の書き入れは、継母の讒言で殺されかけた子の代わりに家僕がツナシを焼いた、という別の話を記します。どちらも「人の代わりにこの魚を焼いた」という点だけが共通しています。ただし『本朝食鑑』の著者・人見必大自身は「予謂此言兒女之戲談、不足用之」(この話は子どもや女の戯れごとで、採るに足りない)と書いており、語源として断定はしていません。

  4. 04

    『本朝食鑑』巻八「鰶」の釈名に「按、海上鰶魚、其臭如尸」——海のコノシロは、その臭いが屍のようだ、とあります。

    同じ項の集解にも「凡婦女忌之者多、是因有其尸氣乎」(およそ女性でこれを忌む者が多い。この魚に屍の気があるからだろうか)と書かれています。棺にこの魚を詰めて焼いたという物語も、この「焼いたときの匂い」を前提にしています。

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SAKANA 編集部

良輔

論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 古文献の記事は、国立国会図書館デジタルコレクション等で公開されている原本画像を 拡大して字を目視で照合し、読めた箇所だけを引用しています。