江戸時代のサンマはなぜ下品な魚だったのか|サヨリと偽って売られた記録
この記事の目次
正徳2年(1712年)に自叙が書かれた『和漢三才図会』は、いまのサンマにあたる魚を、脂を取って灯油にし、いつわってサヨリの名で売る魚とし、「魚中之下品」とまで書いています。秋の刀の魚と書く「秋刀魚」の字は、江戸時代の本を何冊開いても出てきませんし、明治に編まれた古典籍の引用集では、この魚は自分の項目すら立ててもらえず、サヨリの項の欄外に名前があるだけでした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ30・パブリックドメイン)
サヨリの項に、間借りしていた
手始めに開いたのは、明治に神宮司庁が編んだ古典籍の巨大な引用集『古事類苑』です。動物部(第49冊、876コマ)の魚の巻を頭からたどると、鯛、鰹、鰤、鰆と、魚の名前が一つずつ見出しになって並んでいくのに、サンマの見出しはありません。見つかったのはコマ739、それもサヨリの項のページの上の余白に、小さく三文字だけ刷られた頭注でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』第49冊・NDL PID:1874269 コマ739・パブリックドメイン)
なぜサヨリなのかは、同じ見開きの右ページ、サヨリの項に引かれた一文を読むと分かります。
「江戸ニテサンマト呼モノナリ」
引かれているのは『本草綱目啓蒙』(『古事類苑』の表記は『重修本草綱目啓蒙』)で、原本画像で開けるのは弘化4年(1847年)刊の『重訂本草綱目啓蒙』です。巻頭に「蘭山小野先生 口授」「孫 小野職孝士徳 録」「後學 井口望之蘇仲 訂」と並ぶとおり、本草学者・小野蘭山の講義を孫の小野職孝が書き録し、井口望之が校訂した本で、そのサヨリ(鱵魚)の項にこうあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『重訂本草綱目啓蒙 48巻』[17]・NDL PID:2555647 コマ26・パブリックドメイン)
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翻刻
ヨリト云、方言ニサヨリト呼モノハ江戸ニテサンマト呼モノナリ、サンマハ勢州津ニテサイロト云、播州讃州ニテサイラト云
現代語訳
(紀州熊野ではこの魚をオキサ)ヨリという。方言でサヨリと呼ぶものは、江戸でサンマと呼ぶものである。サンマは伊勢の津ではサイロといい、播磨・讃岐ではサイラという。
「方言ニサヨリト呼モノハ、江戸ニテサンマト呼モノナリ」。地方でサヨリと呼んでいるものは、江戸ではサンマと呼ぶもので、同じ魚が土地によってサヨリと呼ばれたりサンマと呼ばれたりしていたことになり、『古事類苑』がサンマをサヨリの項に置いたのもこの記述と符合します。続きはそのまま呼び名の一覧で、「サンマハ勢州津ニテサイロト云、播州讃州ニテサイラト云」と、伊勢の津ではサイロ、播磨と讃岐ではサイラと呼ぶと書いています。江戸でサンマ、ほかの土地ではサヨリ、伊勢でサイロ、播磨・讃岐でサイラと、ひとつの魚に四つの名前が並んでいるわけです。
『古事類苑』は同じページに、上方と江戸のことばを対にして並べた『皇都午睡』も引いています。「上方にて買(かう)て來るを江戸にて買(かつ)て來る」という言い比べの列に「さいらをさんま」が混じっていて、買うて来る/買って来る、と同じ調子で、さいら/さんま。方言の一項目としての扱いです。
「いつわってサヨリの名で売る」
呼び名がぶれるだけなら、まだ牧歌的な話で済みます。百年あまりさかのぼって開いた『和漢三才図会』は、寺島良安が天地のあらゆる事物を図つきで解説した百科事典で、ここで読むのは明治18年(1885年)に活字で組み直された版です。その巻第四十九「江海有鱗」に、ふりがなを「さいら」とする「佐伊羅魚」の項があります。
本文は次のページに続き、読んでいくと途中から様子がおかしくなります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・NDL PID:898161 コマ200・パブリックドメイン)
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翻刻
△按、佐伊羅、状似馬鮫而狹長、背似鱵、大者八九寸、細鱗、領短、冬春多出於紀泉及西海、脂多取爲燈油、或作鮑、以詐名鱵販之、伊賀大和土民好食之、魚中之下品也、故鱵稱眞佐與利別之
現代語訳
考えるに、サイラは、形はサワラに似て細長く、背はサヨリに似る。大きなもので八、九寸(約24〜27センチ)。鱗は細かく、領(くび)は短い。冬と春に紀伊・和泉および西海に多く出る。脂が多く、取って灯油にする。あるいは加工して、いつわってサヨリの名で売る。伊賀・大和の土地の者はこれを好んで食べる。魚の中の下品である。だから(本物の)サヨリのほうを「真サヨリ」と称して区別する。
はじめの「状似馬鮫而狹長、背似鱵、大者八九寸」は、形は馬鮫(サワラ)に似て細長く、背は鱵(サヨリ)に似て、大きなもので八、九寸(およそ24〜27センチ)という、ふつうの記載です。問題はその次の「脂多取爲燈油、或作鮑、以詐名鱵販之」で、脂が多いので取って灯油にし、あるいは加工して、いつわってサヨリの名で売る、とあります。食べるためではなく、まずあかりの油として書かれていて、売るときは自分の名前では売れなかったのです。
とどめはそのあとの「伊賀大和土民好食之、魚中之下品也」、伊賀・大和の土地の者はこれを好んで食べる、魚の中の下品である、という一行です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』中之巻・NDL PID:898161 コマ200・パブリックドメイン)
ここでの下品は、いまの「下品」ではなく、上・中・下の等級の下という意味ですが、それにしてもはっきりした言い方です。最後の「故鱵稱眞佐與利別之」は、だから本物のサヨリのほうを「真サヨリ」と称して区別する、という意味で、サヨリの名で売られる魚があるために、本物のほうが「真」をつけて名乗り分けていました。サンマは、サヨリの偽物として売られていたことになります。
「上饌に充らず、病者によからす」
天保2年(1831年)に武井周作がまとめた『魚鑑』は、魚ごとに産地・味・食べ方・体への良し悪しを数行ずつ書き並べていく本で、江戸の魚屋の店先に近い距離感があります。その下巻に、ひらがなで「さんま」の項が立っています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑』2巻[2]・NDL PID:2557483 コマ29・パブリックドメイン)
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翻刻
さんま 漢名しれず、秋冬の交、房総海多し、淡塩して鬻ぐ、又鮮なるもの炙食するによし、上饌に充らず、病者によからす、京都にてはさよりと稱ふ
現代語訳
さんま。漢名は分からない。秋から冬にかけて、房総の海に多い。薄く塩をして売る。また新しいものは炙って食べるとよい。上等な膳に出すものではない。病人には向かない。京都ではこれを「さより」と称する。
書き出しの「さんま 漢名しれず」からしてそっけなく、中国の本のどの名前に当たるのか分からない、と言っています。続く「秋冬の交、房総海多し、淡塩して鬻ぐ」は、秋から冬にかけて房総の海に多く、薄く塩をして売るということで、生ではなく塩物として出回っていました。「又鮮なるもの炙食するによし」、新しいものは炙って食べるとよい、というところでやっといまのサンマの姿が出てきますが、すぐあとで「上饌に充らず、病者によからす」と、上等な膳に出すものではなく病人には向かない、と突き放されます。
そして最後に、「京都にてはさよりと稱ふ」と、もう一度あの呼び名の話が出てきます。江戸ではサンマ、京都ではサヨリで、『本草綱目啓蒙』ときれいに話がつながったように最初は読んでしまいましたが、啓蒙の三列を見返すと、どこにも「京都」とは書いていませんでした。あるのは「方言ニ」、土地のことばでは、の一語だけで、ほかの呼び名にはサイロは「勢州津ニテ」、サイラは「播州讃州ニテ」とちゃんと土地がついているのに、サヨリにだけ土地の名前がありません。
上方での呼び名を探すと、『皇都午睡』の言い比べで上方の側に置かれていたのは「さいら」で、『和漢三才図会』の見出しも「佐伊羅魚」、ふりがなは「さいら」でした。ここまで開いた本で、サヨリと呼ぶ土地を「京都」と名指ししているのは『魚鑑』のこの一行だけです。啓蒙の「方言ニ」は、どこか一つの町の呼び名ではなく、土地によってはサヨリと呼ぶという書き方なので、「江戸はサンマ、京都はサヨリ」ときれいな対にすると、啓蒙が書いていないことまで書き足してしまいます。
生のサンマを、その年ようやく手に入れた
文字ばかり追ってきたので、姿も見ておきます。『梅園魚品図正』は、毛利梅園が実物を前にして描いた彩色写生図集で、手に入れた魚をその日の日付とともに写しとっています。同じページのもう一尾には「癸巳八月十二日 永代橋之邊 釣真寫」と書いてあって、永代橋のあたりで釣ったものまで写していた人でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ30・パブリックドメイン)
青い背、銀の腹、とがった下あごは、いま見るサンマそのものです。おもしろいのは、絵の脇に書き込まれた八行のほうでした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ30・パブリックドメイン)
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翻刻
此者房州常州ヨリ多塩ニ〆遠ニ送ル生ナルハ味不美而遠ニ送ル事少シ故ニ見ル人稀也生ナル者今年漸ク得之總テ塩ニ和シテ味美ナル者ハ生魚ニ〆味不宜鱒鮭最同シ
現代語訳
これは房州・常州から、塩をして遠くへ送られる。生のものは味がよくないので遠くへ送られることが少ない。だから生を見る人は稀である。生のものを、今年ようやく手に入れた。総じて塩をして味のよいものは、生の魚では味がよくない。鱒・鮭もまったく同じである。
「此者房州常州ヨリ、多塩ニ〆遠ニ送ル」は、これは房州(千葉)・常州(茨城)から塩をして遠くへ送られる、という意味で、「〆」は「して」を一字に縮めた書き方です。七行目の「生魚ニ〆」にも同じ字が出てきます。次の「生ナルハ味不美而遠ニ送ル事少シ、故ニ見ル人稀也」は、生のものは味がよくないので遠くへ送られることが少なく、だから生を見る人は稀である、ということで、その次に「生ナル者今年漸ク得之」、生のものを今年ようやく手に入れた、と続きます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻1・NDL PID:1287112 コマ30・パブリックドメイン)
江戸の川で釣れた魚まで写していた人が、生のサンマを一尾手に入れるのに、それだけ待っていたわけで、産地の房総は目と鼻の先です。締めくくりの「總テ塩ニ和シテ味美ナル者ハ、生魚ニ〆味不宜、鱒鮭最同シ」は、総じて塩をして味のよいものは生の魚では味がよくない、鱒・鮭もまったく同じだ、という冷静な一文で、サンマは塩鮭・塩鱒と同じ棚に置かれていました。江戸のサンマは、焼きたてを囲む魚ではなく、樽で届く塩物だったのです。
「秋刀魚」の字が現れるまで
開いた本の見出しを並べると、『和漢三才図会』は「佐伊羅魚」、『本草綱目啓蒙』はカタカナの「サンマ」、『魚鑑』はひらがなの「さんま」、梅園も「サンマ」で、「秋刀魚」はどこにも出てきません。この三文字が現れるのは、時代がひとつ変わってからでした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌』上巻・NDL PID:842749 コマ141・パブリックドメイン)
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翻刻
第十一 秋刀魚網秋刀魚は東海に於て多く之を漁獲し關東にては専ら「サンマ」と稱し關西にては「サイレ」又は「サイラ」或は「カド」とも稱す安房國、志摩國、紀伊國を以て殊に盛漁の地
現代語訳
第十一 秋刀魚網。秋刀魚は東海で多く漁獲され、関東ではもっぱら「サンマ」と称し、関西では「サイレ」または「サイラ」あるいは「カド」とも称する。安房国・志摩国・紀伊国がとくに漁の盛んな土地である。
農商務省水産局が編み、明治44年(1911年)に水産書院から刊行された『日本水産捕採誌』は、全国の漁法をまとめた本で、その旋網の章に「第十一 秋刀魚網」という節が立ち、見出しの「秋刀魚」には「サンマ」とふりがながついています。本文は「秋刀魚は東海に於て多く之を漁獲し關東にては専ら『サンマ』と稱し關西にては『サイレ』又は『サイラ』或は『カド』とも稱す」と始まります。
役所の編んだ本が「秋刀魚」の三文字を見出しに立てた一方で、関東はサンマ、関西はサイラという呼び名の東西差はそのまま残っていて、『本草綱目啓蒙』が記したのと同じ線を引いています。「安房國、志摩國、紀伊國を以て殊に盛漁の地」と、安房が盛漁の地の筆頭に挙がっているのも梅園の書き入れの「房州」と重なり、変わったのは字と扱いだけでした。
下品から、秋の代表へ
脂が多いから灯油にされ、名前を偽って売られ、上等な膳には出せないと書かれた魚が、いまは秋の食卓の主役になっています。脂が多いという性質は二百年前も今日も同じで、ひっくり返ったのは評価のほうです。「秋刀魚」というよくできた字は、この魚が長く持てなかった自分の名前を、ようやく手に入れたときの姿なのだと思います。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『古事類苑』動物部 / 『重訂本草綱目啓蒙 48巻』[17] / 『和漢三才図会』中之巻 / 『魚鑑』2巻[2] / 『梅園魚品図正』巻1

この記事でわかったこと
地方によって呼び名がまるで違いました。
『重訂本草綱目啓蒙』(弘化4年刊)は、江戸では「サンマ」、伊勢の津では「サイロ」、播磨・讃岐では「サイラ」と記し、さらに「方言ニサヨリト呼モノハ、江戸ニテサンマト呼モノナリ」として、地方でサヨリと呼ぶものが江戸のサンマだと説明しています。『魚鑑』は「京都にてはさよりと稱ふ」と書いていますが、上方と江戸のことばを並べた『皇都午睡』(『古事類苑』所引)では、上方の側は「さいら」です。
今回開いた江戸時代の本には「秋刀魚」の字は一度も出てきません。
『和漢三才図会』は「佐伊羅魚」、『魚鑑』は「さんま」、『梅園魚品図正』は「サンマ」と書いています。この三文字が確認できたのは、農商務省水産局編・明治44年(1911年)刊の『日本水産捕採誌』の「第十一 秋刀魚網」という節で、見出しには「サンマ」とふりがながついています。
『和漢三才図会』巻第四十九は、サンマ(佐伊羅魚)を「魚中之下品也」——魚の中の下品である、と書いています。
脂が多いので取って灯油にし、加工していつわってサヨリの名で売る、ともあります。『魚鑑』も「上饌に充らず、病者によからす」として、上等な膳に出す魚ではないとしています。
生のサンマは江戸ではめずらしいものでした。
彩色写生図集『梅園魚品図正』の書き入れには、房州・常州から塩をして送られてくること、生のものは味がよくないので遠くへ送られることが少なく「見ル人稀也」であること、そして生のものを「今年漸ク得之」——今年ようやく手に入れた、と記されています。年記は癸巳(天保4年・1833年)七月廿九日です。
サンマとサヨリは、どちらも細長い銀色の魚です。
『和漢三才図会』はサンマ(佐伊羅魚)を「状似馬鮫而狹長、背似鱵」——形はサワラに似て細長く、背はサヨリに似る、と記しています。そのうえで、いつわってサヨリの名で売る者がいるため、本物のサヨリのほうを「真サヨリ」と称して区別する、と書いています。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻1
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 古事類苑.第49冊
神宮司庁 編 明治43
- 重訂本草綱目啓蒙 48巻.[17]
蘭山小野先生 口授・小野職孝士徳 録・井口望之蘇仲 訂 弘化4 [1847]
- 和漢三才図会.中之巻
寺島良安 (尚順) 編 明18
- 魚鑑 2巻.[2]
武井周作 天保2 [1831]
- 日本水産捕採誌.上巻
農商務省水産局 編 明44.7
ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。



