江戸の白魚は「蒔いた」魚だった——隅田川に種を埋めたという記録
春先の魚売り場に、指ほどの、透きとおった小さな魚が並ぶことがあります。シラウオです。
この魚は、江戸ではとくべつな魚でした。隅田川の白魚。冬から春にかけて、佃島の沖には毎晩、白魚をとる漁の篝火が並んだといいます。
ところが、江戸の本を開くと、その名物について、少し変わったことが書いてあります。
この魚は、もともと江戸にはいなかった。誰かが、よそから運んできて蒔いたのだ——と。
魚を、蒔く。しかも、干した魚を土に埋める。それで翌年、川に白魚が生える。
本当にそんなことが書いてあるのか。書いてあります。
その前に、江戸の絵師が描いた白魚を見ておきます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ18・著作権保護期間満了)
0. 江戸の本は、いま家で無料で読める
国立国会図書館デジタルコレクション(NDLデジコレ)には、江戸時代の本が撮影されたまま公開されています。会員登録も費用も要りません。ブラウザで開けば、そのまま最後のページまでめくれます。
ただ、いきなり原本を開いても、どのページに目当ての魚がいるのかは分かりません。江戸の本には索引がないからです。
そこで先に開くのが『古事類苑(こじるいえん)』です。明治政府のもとで編まれた巨大な百科事典で、テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きしてあります。活字なので機械で検索できる——これが古文献をたどるときの入口になります。
その「動物部」(NDL PID:1874269、全876コマ)を「白魚」「鱠残魚」「しらうを」などの表記で走査すると、白魚の記事帯はコマ674から678の5ページに集まっていました。
開いてみると、ページの欄外にちゃんと見出しが立っています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ674・著作権保護期間満了)
あとは、ここに引かれている本を一つずつ開いていけばいい。
そうやって5ページを読み進めて、2ページ目に入ったところで手が止まりました。
1. 「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」
引かれているのは『甲子夜話(かっしやわ)』。江戸後期の随筆で、著者は松浦静山(まつら・せいざん)。本文の割注に「○松浦清」とあるとおり、本名を清といい、みずから領国を持つ人でした。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」。
白魚は、種を蒔けば生じるものである。
続けて、その実例が書かれています。水戸の黄門・光圀が、常陸の川に隅田川の白魚を干して取り寄せ、砂の中に埋めておいた。すると翌年に白魚が生じ、その種が絶えることはなかった。しかも隅田川産と大きさも変わらなかった——。
ただし静山は正直な人で、「嘗テ見シガ其書ヲ忘レタリ」(以前どこかで読んだが、書名を忘れてしまった)と付け加えています。
ここまでなら、よくある伝聞です。ところが、この直後に静山自身の体験が続きます。
2. 周防の宿で、隅田川の白魚が出てきた

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
旅の途中、周防小郡(いまの山口市小郡)の宿場に泊まった晩のことです。
夕食に白魚が出た。「隅田ノ産ニ異ナラズ」——隅田川のものと変わらない。
静山は驚いて尋ねます。「コレ何レヨリ得タル」。これはどこで獲れたのか。料理人は、宿場の前の小郡川のものだと答える。
そこで土地の人に由来を聞くと、こういう話が返ってきました。
領主である萩の隠居侯が、先年この辺りの三田尻に隠居所を構えたとき、江戸で獲れるこの魚を好んだ。そこで隅田川の白魚を干して土に入れ、この地まで運ばせ、川に投げ入れておいた。すると翌年から育って、今はこのとおりです——。
静山は、出された白魚を隅田川のものと見分けられなかった、と書いています。
干した魚を土に入れる。運ぶ。川に投げる。翌年、生える。これが、江戸のごく普通の理解でした。
3. では、江戸に蒔いたのは誰か
同じ5ページのなかに、江戸の白魚についても、同じ話が出てきます。
まず、江戸の地誌『続江戸砂子(ぞくえどすなご)』。江戸の名所や名産を集めた『江戸砂子』(菊岡沾凉)の続編にあたる本です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「浅草川の白魚 むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也」。
浅草川とは、隅田川の下流のことです。昔はこの海にも川にもいなかったのを、寛永の末ごろ(1640年前後)、白魚の胤(たね)を蒔かせられたのだという。
いっぽう『甲子夜話』のほうでは、別の説が語られます。静山の話を聞いた天瀑子(てんばくし)という人物が、こう言った、と。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「江都ノ白魚ハ、享保中徳庿ノ勢州ヨリ取寄セ給ヒ、品川ニ蒔カレシヨリ始マレリ」。
「徳庿(とくびょう)」の下には、小さく「○徳川吉宗」と註がついています。八代将軍・吉宗のことです。
江戸の白魚は、享保のころ、吉宗が伊勢から取り寄せて品川に蒔いたのが始まりだ。それも卵の多い白魚を干し固めて持ってきた種だった。「ソレ迄ハ江都ニ此魚無リシトナリ」——それまで江戸にこの魚はいなかったという。
吉宗は紀州の出です。紀伊家の領分である伊勢に白魚が獲れることを知っていたから、将軍職を継いだあとで取り寄せたのだ、とも書かれています。
ここで話がややこしくなります。
光圀の話、寛永末の話、享保の吉宗の話。どれも「白魚を蒔いた」話でありながら、年代がばらばらです。
そして、そのことに江戸の人自身が気づいています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「此説ハ光圀卿ヨリハ年代後レタリ、孰ガソノ始ナルニヤ」。
この説は光圀の話より年代が後になる。いったい、どちらが始まりなのだろうか——。
答えを出さないまま、そこで終わっています。
4. ところが、慶長六年に家康は白魚を食べている
同じ『古事類苑』の白魚の項に、まったく毛色の違う資料が並んでいます。
『雑件録』という記録に写された、白魚役(しらうおやく)・庄五郎という人物の願書です。日付は慶応三年(1867年)十月。江戸幕府が終わる、ほんの数か月前の文書です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「権現様御代慶長六辛丑年、上総国東金筋御鷹野御成之節、浅草川白魚献上仕候ニ付」。
権現様——徳川家康の御代、慶長六年(1601年)、上総国の東金筋へ鷹狩においでになった折に、浅草川の白魚を献上した。
「夫より引続冬春之間、白魚御用被仰付」。それ以来、冬と春のあいだは白魚御用を仰せつけられ、その後は夏秋のあいだ御小魚御用を勤めてきた。
そして——「当卯年迄、弐百六拾六年無滞奉相勤」。今年(慶応三年)まで二百六十六年、滞りなく勤めてまいりました。
1867年から266年を引くと、1601年。慶長六年です。数が合っています。
つまり、慶長六年の時点で、浅草川ではもう白魚が獲れていた。将軍に差し上げられるほどに。
これは、寛永の末(1640年前後)に蒔いたという話とも、享保(1720年代)に吉宗が蒔いたという話とも、噛み合いません。
ちなみにこの願書には、白魚役が抱えていた土地の話も出てきます。「京橋東西白魚屋敷川岸地」——京橋の東西に白魚屋敷と呼ばれる土地がありました。京橋川筋の川岸地は一坪につき五分の冥加金を納めるところ、白魚屋敷は「由緒柄も御座候ニ付、坪数ニ不抱壹ヶ年金貳拾両ヅヽ上納」——由緒があるというので、坪数にかかわらず年二十両の定額で済んでいた、と書かれています。
白魚は、役職と、屋敷と、その由緒とを持つ魚でした。
5. 「氏より育ち」——天保の折り合いのつけ方
この食い違いを、江戸の人はどう始末したのか。ひとつの答えが、天保二年(1831年)の魚の本『魚鑑(うおかがみ)』にあります。著者は武井周作。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑』・NDL PID:2557483 コマ34・著作権保護期間満了)
「備前平江、伊勢桑名に多し」。白魚の産地として、まず備前と伊勢の桑名が挙がります。
そして、江戸。
「武蔵角田川及ひ中川のものも桑名の種といへども、水美なれは魚も亦美なり」。
角田川は隅田川のこと。隅田川や中川のものも桑名の種だというけれども、水がよいので魚もまた美味い。
そのうえで、こう締めます。
「諺にいふ氏よりそだちなるべし」。
諺にいう「氏より育ち」であろう——。
移植説を否定していません。むしろ認めたうえで、それでも江戸の白魚のほうがうまいと言い切っている。たいへん江戸らしい決着のつけ方です。
6. 梅園が両国川で見た白魚
では、その江戸の白魚は、どんな魚だったのか。
姿を残した人がいます。毛利梅園(もうり・ばいえん)。江戸の武士で、目の前の実物を写生し、日付まで書き入れた彩色図譜『梅園魚品図正』を残しました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ18・著作権保護期間満了)
白魚が二尾。銀色というより、半透明の白に、うっすら黄色い筋が通っています。黒いのは目だけです。
その脇に、梅園の書き入れがあります。
「鱠残魚江戸ニ多シ 両国川及中川又尾久ニテ網ニテスク」。
鱠残魚(かいざんぎょ)は白魚の漢名です。江戸に多い。両国川および中川、また尾久で、網ですくう。
両国、中川、尾久。いまの地図でそのまま指させる場所です。図の隅には「甲午年 陸月十四日 真写」とあり、甲午は天保五年(1834年)にあたります。
7. 佃沖の篝火
獲り方も書き残されています。天保九年(1838年)刊、江戸の年中行事の本『東都歳事記』の十一月の項です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
「當月より春に至るまで、毎夜佃沖四ツ手網を以て白魚をとる篝火多し」。
十一月から春にかけて、毎晩、佃沖では四つ手網で白魚をとる篝火が多い。
四つ手網は、四隅を竹で張った四角い網を水に沈め、魚が入ったところで引き上げる仕掛けです。同じ道具が、寛政十一年(1799年)刊の『日本山海名産図会』に描かれています。ただし、こちらは江戸ではなく、摂津の西宮の図です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会 5巻』・NDL PID:2575829 コマ17・著作権保護期間満了)
川岸に杭と簀を並べ、その間に集まってきた魚を、四つ手網ですくい上げる。図の右下では、男が一人で網の柄を操っています。
『東都歳事記』の同じ項には、句も添えられています。「しら魚にあたひあるこそうらみなれ」——白魚に値段がついているのが恨めしい。芭蕉の句として引かれています。
白魚が上ってくる隅田川そのものは、北斎も描いています。

出典:葛飾北斎筆『絵本隅田川両岸一覧』(江戸時代・19世紀)東京国立博物館蔵 ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2852)CC BY 4.0
8. 白魚は、二十一筋で「一ちょぼ」
最後に、数え方の話を。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ677・著作権保護期間満了)
柳亭種彦の随筆『柳亭記』に、「白魚をいくちよぼといふ事」という一項があります。
「白魚を一ト樗蒲(ちょぼ)といふは、廿一筋なりしが故なり」。
白魚を「一ちょぼ」と数えるのは、二十一筋(二十一尾)で一単位だったからだ。
「廿一は簺(さい)の目の数なり」。二十一は、さいころの目を全部足した数です。
そして川柳が引かれます。「佃島女房は廿筋かぞへ」。
佃島の女房は二十筋しか数えない。「女は吝きが故一筋すくなくかぞへたる人情をいひしなり」——けちだから一筋少なく数える、という人情を詠んだ句だ、と。
この句が安永のころ(1770年代)の作だから、当時はまだ二十一筋だった。ところが「今はおしなべて廿筋となり、樗蒲の義聞えず」——いまはみな二十筋になってしまい、「ちょぼ」という言葉の意味が通じなくなった。
川柳一句を証拠にして、数え方の単位が一尾減っていたことが押さえられています。
まとめ
江戸の白魚について、江戸の本にはこんな話が並んでいました。
白魚は種を蒔けば生じる。干した白魚を土に埋めれば、翌年その川に生える。光圀は常陸の川に蒔き、萩の隠居侯は周防の川に投げ入れ、吉宗は伊勢から取り寄せて品川に蒔いた。寛永の末には、浅草川に胤が蒔かれた。
いっぽうで、それより前の慶長六年に、家康は浅草川の白魚を献上されています。
どれが本当なのかは、江戸の人にも分かりませんでした。『甲子夜話』は「孰ガソノ始ナルニヤ」と書いたきり、答えを出していません。
ただ、はっきりしていることがあります。江戸の人は、名物を「たまたまそこにあったもの」だとは考えていなかった。誰かが運んできて、蒔いて、根づかせたものだと考えていた。だから、干した白魚を土に入れて周防まで運ぶ人が実際にいたわけです。
そして天保の『魚鑑』は、その話をぜんぶ認めたうえで、こう書きました。「氏よりそだち」。どこから来たにせよ、江戸の水で育ったのだから、江戸の白魚がうまい——。
出典
- 『古事類苑』動物部 コマ674-678(白魚・麪條魚の項)——国立国会図書館デジタルコレクション。『甲子夜話』『続江戸砂子』『東都歳事記』『雑件録』『柳亭記』の引用はすべてこの活字本の画像で照合した
- 『魚鑑』巻之下「しらうを」(武井周作・天保二年刊)コマ34——国立国会図書館デジタルコレクション
- 『梅園魚品図正』2帖 コマ18(毛利梅園)——国立国会図書館デジタルコレクション
- 『日本山海名産図会 5巻』巻五「西宮 白魚」コマ17(蔀関月・寛政十一年刊)——国立国会図書館デジタルコレクション
- 葛飾北斎『絵本隅田川両岸一覧』「三俣の白魚 永代春風」東京国立博物館蔵——ColBase(CC BY 4.0)
💡 この記事でわかったこと
- 01
江戸時代の本には、そう書いたものが複数あります。
『続江戸砂子』は浅草川(隅田川下流)の白魚について「むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也」と記し、『甲子夜話』巻十八は「江都ノ白魚ハ、享保中徳庿〈○徳川吉宗〉ノ勢州ヨリ取寄セ給ヒ、品川ニ蒔カレシヨリ始マレリ」という説を伝えています。ただし同じ『甲子夜話』は、水戸光圀が常陸に蒔いたという別説も挙げたうえで「孰ガソノ始ナルニヤ(どちらが始まりなのか)」と書いており、江戸の人自身が結論を出していません(『古事類苑』動物部 NDL PID:1874269 コマ676)。
- 02
干した魚から魚が生まれることはありません。
ただし江戸ではそう理解されていました。『甲子夜話』は「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」と書き出し、隅田川の白魚を干して砂中に埋めたら翌年に生じた、という話を伝えています。著者の松浦静山自身も、周防小郡の宿で出た白魚が隅田川のものと変わらず、土地の人から「隅田ノモノヲ乾カシテ土ニイレ、此地ニ運バレ、カノ川ニ投ジ置レシガ、明年ヨリ生育シテ」と聞いた、と記録しています(NDL PID:1874269 コマ676)。
- 03
慶応三年(1867年)十月付の白魚役・庄五郎の願書に「京橋東西白魚屋敷川岸地」として出てくる土地です。
同じ願書によれば、庄五郎は慶長六年(1601年)に家康が上総国東金筋へ鷹狩に出た折、浅草川の白魚を献上して以来、冬春は白魚御用、夏秋は御小魚御用を勤め、慶応三年まで「弐百六拾六年」続けてきたとしています(『雑件録』二を『古事類苑』動物部が引く。NDL PID:1874269 コマ676-677)。
- 04
柳亭種彦の『柳亭記』によれば、もとは二十一尾で「一ちょぼ(一ト樗蒲)」でした。
二十一はさいころの目を全部足した数です。ただし同書は、安永ごろの川柳「佃島女房は廿筋かぞへ」を引いて、女房が一筋少なく数える人情を詠んだ句だとしたうえで、「今はおしなべて廿筋となり、樗蒲の義聞えず」——いまは二十尾が普通になり、語の意味も通じなくなった、と書いています(『古事類苑』動物部 NDL PID:1874269 コマ677)。
SAKANA 編集部
良輔
論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 古文献の記事は、国立国会図書館デジタルコレクション等で公開されている原本画像を 拡大して字を目視で照合し、読めた箇所だけを引用しています。