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魚と貝

江戸の白魚は「蒔いた」魚だった——隅田川に種を埋めたという記録

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この記事の目次

松浦静山の随筆『甲子夜話』は、「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」と書いています。冬から春にかけて佃島の沖に毎晩漁の篝火が並んだという、江戸の名物の隅田川の白魚(シラウオ)も、江戸の本によれば、もともと江戸にはいなかったのを誰かがよそから運んできて蒔いたものでした。干した魚を土に埋めると、翌年その川に白魚が生える、という話が実際に書かれていて、しかも誰が、いつ蒔いたのかは本ごとに食い違い、その話と噛み合わない記録まで残っています。

『梅園魚品図正』1帖。右上に白魚が二尾、下に黒い魚(カサゴ)が描かれている
白魚は半透明の白に、うっすら黄色い筋が通り、黒いのは目だけ。左ページにはクラゲ(水母)も小さく描かれている。右上に「鱠残魚」「銀魚」「王餘魚」の名が並ぶ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ18・著作権保護期間満了)

『古事類苑』の白魚の項

江戸の本のどこに白魚が出てくるかを探すのに使ったのは、明治に神宮司庁が編んだ『古事類苑(こじるいえん)』(ここで使う冊は明治四十三年刊)です。テーマごとに古典の該当箇所を活字で抜き書きした百科事典で、その「動物部」(NDL PID:1874269、全876コマ)を「白魚」「鱠残魚」「しらうを」などの表記で走査すると、白魚の記事帯はコマ674から677までの4コマ(見開き4つ)に集まっていて、ページの欄外にもちゃんと見出しが立っていました。

『古事類苑』動物部を開いたところ。右ページ上部の欄外に「白魚 麪條魚」とある
右ページ上の欄外に「白魚 麪條魚」。この見開きの途中から白魚の項が始まり、古代の風土記や平安の辞書から江戸の随筆まで、二十あまりの本が順に引かれていく。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』動物部・NDL PID:1874269 コマ674・著作権保護期間満了)

ここに引かれている本を一つずつ開いていき、3つめの見開き(コマ676)に入ったところで手が止まりました。

「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」

引かれているのは松浦静山(まつら・せいざん)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』巻十八で、文中で自分を指す「予」の脇には、小さく「○松浦清」と註がついています。「予ガ領國」という言い方も出てくるので、みずから領国を持つ人だったことが分かりますが、この小さな註を誰が書いたのかは、あとで大事になります。

『古事類苑』動物部が引く『甲子夜話』巻十八の冒頭2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

〔甲子夜話十八〕白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ、嘗テ見シガ其書ヲ忘レタリ、黄門光圀卿常州ノ川ニ、隅田川ノ白魚ヲ乾シテ取寄セ、沙中ニ埋置レケレバ、翌年白魚生ジテ其種絶ルコトナク、

現代語訳

白魚は種を蒔けば生じるものである。以前どこかで読んだが、その書名は忘れてしまった。黄門・光圀卿が、常陸の川に隅田川の白魚を干して取り寄せ、砂の中に埋めておかれたところ、翌年に白魚が生じて、その種が絶えることはなかった——という話だった。

白魚は種を蒔けば生じるものだ、と書いたあとに、その実例が続きます。黄門・光圀卿が常陸の川に隅田川の白魚を干して取り寄せ、砂の中に埋めておくと、翌年に白魚が生じてその種が絶えることはなく、しかも隅田川産と大きさも変わらなかった、という話です。ただし静山はこれを、「嘗テ見シガ其書ヲ忘レタリ」、以前どこかで読んだが書名を忘れてしまった、と断ってから書いていて、ここまでならよくある伝聞で済みます。ところがこの直後に、静山自身の体験が続きます。

周防の宿で、隅田川と同じ白魚が出てきた

『古事類苑』動物部が引く『甲子夜話』巻十八のうち、周防小郡の宿での体験を記した4列と翻刻
赤枠は該当4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

晩飯ニ白魚ヲ供セリ、隅田ノ産ニ異ナラズ、予驚キ問フ、コレ何レヨリ得タル、厨人答フ、駅ノ前小郡川ノ所産ナリ、因テ其由ヲ聞クニ、里人云フ、領主萩老侯、先年此邊ノ三田尻ニ隠居ヲ占メラレシトキ、此魚ノ江都ニ産セルヲ好マレ、隅田ノモノヲ乾カシテ土ニイレ、此地ニ運バレ、カノ川ニ投ジ置レシガ、明年ヨリ生育シテ、至今テ如此ト、イカニモ隅田ノ産ニ少シモ殊ナラザリシ

現代語訳

(旅の途中、周防小郡の宿で)晩飯に白魚が出た。隅田川のものと変わらない。私は驚いて尋ねた。これはどこで獲れたのか。料理人が答えるには、宿場の前の小郡川で獲れたものです、と。その由来を聞くと、土地の人が言うには——領主である萩の隠居侯が、先年この辺りの三田尻に隠居所を構えられたとき、この魚が江戸で獲れるのを好まれ、隅田川のものを干して土に入れ、この地に運ばせ、あの川に投げ入れておかれた。すると翌年から生育して、今のようになったのです、と。まったく隅田川のものと少しも違わなかった。

静山はその前に、自分の領国の白魚について、江戸のようなものはなく、たまに白魚と呼ばれるものも「細小ニシテ淡黑ヲ帶ブ」、細く小さく薄黒い、西のほうはたいていこうだ、と書いています。そう思っていた静山が、旅の途中、周防小郡(いまの山口市小郡)の宿場に泊まった晩、夕食に出た白魚が「隅田ノ産ニ異ナラズ」、隅田川のものと変わらなかったのです。

驚いた静山が「コレ何レヨリ得タル」と尋ねると、料理人は宿場の前の小郡川のものだと答えました。土地の人に由来を聞くと、領主である萩の隠居侯が、先年この辺りの三田尻に隠居所を構えたとき、江戸で獲れるこの魚を好んだので、隅田川の白魚を干して土に入れ、この地まで運ばせて川に投げ入れておいたところ、翌年から育って今はこのとおりだ、という話が返ってきます。静山は最後に、いかにも隅田川のものと少しも違わなかった(「イカニモ隅田ノ産ニ少シモ殊ナラザリシ」)と書いていて、干した魚を土に入れて運び、川に投げると翌年生える、という話を疑わずに聞いているように見えます。

静山はこのあと、字書で見つけた話も書き留めています。『博物志』という本を引いた「吳王江行食魚膾、棄殘餘於水、化爲魚名膾殘」で、呉王が川を旅しながら魚の膾(なます)を食べ、食べ残しを水に捨てたらそれが魚になり、名を膾残という、という話です。字書はさらにそれが今の銀魚だと続け、静山はこれがわが国の白魚だろうと書いていて、白魚のもう一つの名「鱠残魚(かいざんぎょ)」(「膾」は魚へんで「鱠」とも書きます)は、食べ残しの膾から生まれた魚という名前だったことになります。干した白魚が川に生える話も、捨てた膾が魚になる話も、死んだ魚から生きた魚が出てくる点では同じです。

江戸に蒔いたのは誰か

同じ見開きには、江戸の白魚についても同じ話が出てきます。国立国会図書館サーチの書誌で菊岡沾涼の著、享保二十年(1735年)の江戸の地誌『続江戸砂子(ぞくえどすなご)』は、江戸の名産を並べたところにこう書いています。

『古事類苑』動物部が引く『続江戸砂子』一の該当列と翻刻
赤枠は該当列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

浅草川の白魚むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也、

現代語訳

浅草川(隅田川の浅草あたりでの呼び名)の白魚。昔はこの海にも川にもいなかったものを、寛永の末ごろ、白魚の胤(たね)を蒔かせられたのだという。

「浅草川の白魚 むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也」。浅草川は隅田川の浅草あたりでの呼び名で、昔はこの海にも川にもいなかったのを、寛永の末ごろ(1640年前後)、白魚の胤(たね)を蒔かせられたのだという、という内容です。いっぽう『甲子夜話』では、静山の話を聞いた天瀑子(てんばくし)という人物が、別の説を語っています。

『古事類苑』動物部が引く『甲子夜話』巻十八のうち、享保の移植説を記した箇所と翻刻
赤枠は該当箇所。「徳庿」の下に小さく「○徳川吉宗」と註がある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

曰、江都ノ白魚ハ、享保中徳庿〈○徳川吉宗〉ノ勢州ヨリ取寄セ給ヒ、品川ニ蒔カレシヨリ始マレリ、是モ卵多キ白魚ヲ乾カタメ来レル種ナリ、ソレ迄ハ江都ニ此魚無リシトナリ、紀伊殿ノ領分勢州ニ

現代語訳

(天瀑子が)言うには——江戸の白魚は、享保のころ、徳庿(『古事類苑』の編者の註では徳川吉宗)が伊勢から取り寄せられ、品川に蒔かれたのが始まりである。それも卵の多い白魚を干し固めて持って来た種であった。それまでは江戸にこの魚はいなかったという。紀伊家の領分である伊勢に、

「江都ノ白魚ハ、享保中徳庿ノ勢州ヨリ取寄セ給ヒ、品川ニ蒔カレシヨリ始マレリ」。「徳庿(とくびょう)」の下には小さく「○徳川吉宗」と註がついていて、これで吉宗が伊勢から取り寄せたと読めるのですが、この註を書いたのが誰なのかが問題になります。

『古事類苑』は、明治の編者が古い本の文章を抜き出して並べた本で、抜き出すときに省いたところには小さく「○中略」と書き込んであります。その「○中略」と、静山の「予」につく「○松浦清」、「徳庿」につく「○徳川吉宗」を、同じページから切り出して並べてみました。

『古事類苑』動物部コマ676の「白魚○中略」「予○松浦清」「徳庿○徳川吉宗」の大写し
右から、『東都歳事記』の引用の「白魚〈○中略〉」、『甲子夜話』の「予〈○松浦清〉」、同じく「徳庿〈○徳川吉宗〉」。同じコマの3か所を切り出して並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)

三つとも、頭に同じ「○」がついた小さな字です。「中略」と書き込むのは文章を抜き出した側、つまり明治の編者なので、同じ印のついた「松浦清」「徳川吉宗」も、編者が読者のために補った註と見るのが自然です。『甲子夜話』の文章そのものには「吉宗」という名前は出てこず、書かれているのは「徳庿」の二字だけで、「庿」は「廟(おたまや)」の字ですから、亡くなった将軍を名前で呼ばず廟の呼び名で指した言い方を、明治の編者が徳川吉宗のことだと読み解いて註を添えた、ということになります。

天瀑子の話では、江戸の白魚は享保のころ、徳庿(吉宗)が伊勢から取り寄せて品川に蒔いたのが始まりで、それも卵の多い白魚を干し固めて持ってきた種で、「ソレ迄ハ江都ニ此魚無リシトナリ」、それまで江戸にこの魚はいなかったといいます。紀伊家の領分が伊勢にあり、そこで白魚がとれることをご存じだったので、跡を継いだあと(「御承統ノ後」)にこうしたのだ、とも書かれています。

光圀の話、寛永末の話、享保の吉宗の話と、どれも白魚を蒔いた話でありながら年代はばらばらです。しかも『続江戸砂子』は享保二十年の本なので、享保のさなかに出た本が江戸の白魚は寛永の末に蒔かれたと書いていて、享保に始まったという天瀑子の話とは同じ時代のうちに食い違っています。そして、そのことに江戸の人自身が気づいていました。

『古事類苑』動物部が引く『甲子夜話』巻十八の末尾、「孰ガソノ始ナルニヤ」の列と翻刻
赤枠は該当列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

バ、勢州ノ名産タルコト著ケレト、又曰、此説ハ光圀卿ヨリハ年代後レタリ、孰ガソノ始ナルニヤ、

現代語訳

(以前から桑名侯が白魚を献上していたのだから)伊勢の名産であることははっきりしている。(天瀑子が)また言うには、この説は光圀卿の話よりも年代が後になる。いったいどちらが始まりなのだろうか。

「此説ハ光圀卿ヨリハ年代後レタリ、孰ガソノ始ナルニヤ」。この説は光圀の話より年代が後になる、いったいどちらが始まりなのだろうか、という一文で、「又曰(また曰く)」で始まり、直前まで話していたのは天瀑子なので、これも天瀑子の言葉と読むのが自然です。吉宗の説を持ち出した本人が、自分の話のほうが光圀より年代が後だと認め、答えを出さないまま話はそこで終わっています。

慶長六年に、家康へ白魚が献上されている

同じ『古事類苑』の白魚の項には、まったく毛色の違う資料も並んでいます。『雑件録』という記録に写された、白魚役(しらうおやく)・庄五郎という人物の、慶応三年(1867年)十月の日付の願書です。

『古事類苑』動物部が引く『雑件録』二、白魚役庄五郎の願書の該当2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

一 權現樣御代慶長六辛丑年、上總國東金筋御鷹野御成之節、淺草川白魚獻上仕候ニ付、夫より引續冬春之間、白魚御用被仰付、猶其後夏秋之間者、御小魚御用被仰付、當卯年迄、貳百六拾六年無

現代語訳

一、権現様(徳川家康)の御代、慶長六年(1601年)、上総国東金筋へ鷹狩においでになった折に、浅草川の白魚を献上いたしました。それより引き続き冬春のあいだは白魚御用、その後は夏秋のあいだ御小魚御用を仰せつけられ、今年(慶応三年)まで二百六十六年、滞りなく勤めてまいりました。

「權現樣御代慶長六辛丑年、上總國東金筋御鷹野御成之節、淺草川白魚獻上仕候ニ付」。権現様、つまり徳川家康の御代の慶長六年(1601年)、上総国の東金筋へ鷹狩においでになった折に浅草川の白魚を献上し、「夫より引續冬春之間、白魚御用被仰付」、それ以来、冬と春のあいだは白魚御用を仰せつけられ、その後は夏秋のあいだ御小魚御用を勤めてきた、というのです。そして「當卯年迄、貳百六拾六年無滯奉相勤」、今年(慶応三年)まで二百六十六年、滞りなく勤めてまいりました、と続きます。

1867年から266年を引くと1601年、慶長六年で、数は合っています。願書の言うとおりなら、慶長六年の時点で、浅草川ではもう家康に差し上げられるほど白魚が獲れていたことになり、寛永の末(1640年前後)に蒔いたという話とも、享保(1720年代)に吉宗が蒔いたという話とも噛み合いません。

この願書には、白魚役が抱えていた土地の話も出てきます。「京橋東西白魚屋敷川岸地」、京橋の東西に白魚屋敷と呼ばれる土地があり、京橋川筋の川岸地は一坪につき五分の冥加金を納めるところ、白魚屋敷は「由緒柄も御座候ニ付、坪數ニ不抱壹ヶ年金貳拾兩ヅヽ上納」、由緒があるというので、坪数にかかわらず年に金二十両ずつの定額を納めることになっていた、と書かれています。白魚は、役職と屋敷と、その由緒とを持つ魚でした。

「氏より育ち」という折り合いのつけ方

この食い違いを江戸の人がどう始末したのかについては、天保二年(1831年)の魚の本、武井周作の『魚鑑(うおかがみ)』に一つの答えがあります。

『魚鑑』巻之下「しらうを」の項、産地と「氏よりそだち」を記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑』・NDL PID:2557483 コマ34・著作権保護期間満了)
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翻刻

(漢名鱠)残魚。綱目に出づ。備前平江、伊勢桑名に多し。武蔵角田川及ひ中川のものも桑名の種といへども、水美なれは魚も亦美なり。諺にいふ氏よりそだちなるべし。

現代語訳

漢名は鱠残魚。『本草綱目』に出ている。備前の平江、伊勢の桑名に多い。武蔵の角田川(隅田川)や中川のものも桑名の種だというけれども、水がよいので魚もまた美味い。諺にいう「氏より育ち」であろう。

白魚の産地として、まず「備前平江、伊勢桑名に多し」と備前と伊勢の桑名を挙げ、江戸については「武蔵角田川及ひ中川のものも桑名の種といへども、水美なれは魚も亦美なり」と書いています。角田川は隅田川のことで、隅田川や中川のものも桑名の種だというけれども、水がよいので魚もまた美味い、という意味です。そのうえで「諺にいふ氏よりそだちなるべし」、諺にいう「氏より育ち」であろう、と締めています。桑名の種だという話を「といへども」と受けておいて、江戸の白魚がうまいのは水がよいからだと言っているので、どこから来たかより、どこで育ったかで決着をつけたことになります。

梅園が両国川で見た白魚

江戸の白魚の姿は、毛利梅園(もうり・ばいえん)が残しています。目の前の実物を写生して「真寫」と日付を書き入れた彩色の魚の図譜『梅園魚品図正』の1帖です。

『梅園魚品図正』1帖の白魚。右上に「鱠残魚 銀魚 王餘魚」、脇に梅園の書き入れ
赤枠は書き入れの2列。図の右上には「鱠残魚(シラウヲ)」「銀魚」「王餘魚」と異名が並ぶ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ18・著作権保護期間満了)
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翻刻

鱠殘魚江戸ニ多シ両國川及中川又尾久ニテ網ニテスクフ

現代語訳

鱠残魚(シラウオ)は江戸に多い。両国川および中川、また尾久で、網ですくって獲る。

白魚が二尾、銀色というより半透明の白に、うっすら黄色い筋が通っていて、黒いのは目だけです。その脇の梅園の書き入れには「鱠殘魚江戸ニ多シ 両國川及中川又尾久ニテ網ニテスクフ」とあり、静山が字書で見た「膾残」の名で、江戸に多く、両国川および中川、また尾久で網ですくう、と書いています。両国、中川、尾久はいまの地図でそのまま指させる場所で、図の脇の「甲午年 陸月十四日 真寫」は、この本の序が天保六年(1835年)なので(国立国会図書館の書誌)、前年の天保五年(1834年)と見られます。

ここまで「白魚」という字を当たり前のように使ってきましたが、この図の見出しをもう一度見ると、梅園が並べた名前は「鱠残魚」「銀魚」「王餘魚」の三つで、「白魚」の字は、見出しにありません。わけは、同じ紙の右下にある梅園の長い書き入れに書いてありました。

『梅園魚品図正』1帖コマ18の書き入れ「俗鱠殘魚ヲ白魚ト記非也」「武王ノ船ニ飛入ル者也」の大写し
右が「俗鱠殘魚ヲ白魚ト記非也」(この列の頭の「俗」は、前の列の末尾の「和」に続く)、左が「武王ノ船ニ飛入ル者也」。同じコマの書き入れから2か所を切り出して並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・NDL PID:1287112 コマ18・著作権保護期間満了)

「和俗鱠殘魚ヲ白魚ト記非也」、日本の世間で鱠残魚を「白魚」と書くのは誤りだ、と書き、本来の白魚については「武王ノ船ニ飛入ル者也」、武王の船に飛び込んだもの、と続けています。『古事類苑』の次のコマ(678)に引かれた『大和本草』巻十三にも「白魚 周武王ノ船ニ入ルモノナリ」とあり、武王は古代中国・周の武王のことです。梅園の考えでは、「白魚」は古い中国の話に出てくる別の魚の名前で、隅田川のこの小さな魚に当てるのは字の当て違いだったことになります。随筆も地誌も願書もみな当たり前に「白魚」と書いていたその江戸で、実物を写した梅園は、同じ紙の上でその書き方に異を唱えていたわけです。

佃沖の篝火

獲り方は、天保九年(1838年)刊の江戸の年中行事の本『東都歳事記』の十一月の項に書かれています。

『古事類苑』動物部が引く『東都歳事記』十一月「白魚」の該当2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ676・著作権保護期間満了)
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翻刻

當月より春に至るまで、毎夜佃沖四ツ手網を以て白魚をとる篝火多し、初春は海にありて二月頃川へ上る、しら魚にあたひあるこそうらみなれ、芭蕉、

現代語訳

今月(十一月)から春にかけて、毎晩、佃沖では四つ手網で白魚をとる篝火が多い。初春は海にいて、二月ごろ川へ上る。「しら魚にあたひあるこそうらみなれ(白魚に値段がついているのが恨めしい)」——芭蕉。

「當月より春に至るまで、毎夜佃沖四ツ手網を以て白魚をとる篝火多し」。十一月から春にかけて、毎晩、佃沖では四つ手網で白魚をとる篝火が多い、という一文です。四つ手の網は『日本山海名産図会』にも出てきますが、こちらは江戸ではなく摂津の西宮の図です。

『日本山海名産図会』巻之四「西宮 白魚」。川に杭を打ち並べ、大きな網を竿で吊り上げる
右ページの上に「西宮 白魚(しろうを)」の題。前のコマ(16)の本文に、柱の頭に穴をあけ、小車(滑車)をかけて網を上げ下げする、とある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本山海名産図会』巻之四・NDL PID:2575829 コマ17・著作権保護期間満了)

川岸から杭を打ち並べ、潮が引くときにその間へ集まる魚を網で待ち受けるやり方で、本文によれば網は蚊帳(かや)の布で作った四手(よつで)です。図の右ページの手前では、大きな網を吊った竿を男が一人で操っています。『東都歳事記』の同じ項には芭蕉の句として「しら魚にあたひあるこそうらみなれ」が添えられていて、白魚に値段がついているのが恨めしい、と詠んでいます。北斎の絵本にも、「三俣の白魚」と題した見開きがあります。

葛飾北斎『絵本隅田川両岸一覧』より「三俣の白魚 永代春風」の見開き
右ページ上の枠に「三俣の白魚」、その脇に「永代春風」の題。左ページの川には、網目の入った四角い網を竿で吊った舟が出ている。狂歌はくずし字で読み切れないため、ここでは引かない。
出典:葛飾北斎筆『絵本隅田川両岸一覧』(江戸時代・19世紀)東京国立博物館蔵 ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2851 ・ https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2852)CC BY 4.0。同じ題のついた2枚を見開きの形に並べた

白魚は、二十一筋で「一ちょぼ」

数え方の話も残っています。

『古事類苑』動物部が引く『柳亭記』上「白魚をいくちよぼといふ事」の該当2列と翻刻
赤枠は該当2列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1874269 コマ677・著作権保護期間満了)
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翻刻

白魚を一ト樗蒲といふは、廿一筋なりしが故なり、廿一は簺の目の数なり、川柳點の前句に佃島女房は廿筋かぞへ、女は吝きが故一筋すくなくかぞへたる人情をいひしなり、此句安永の頃の

現代語訳

白魚を「一ちょぼ」というのは、二十一筋(二十一尾)が一単位だったからである。二十一は賽(さいころ)の目の数である。川柳の前句に「佃島女房は廿筋かぞへ」とあるのは、女はけちだから一筋少なく数える、という人情をいったものだ。この句は安永のころの詠みだから、

柳亭種彦の随筆『柳亭記』には「白魚をいくちよぼといふ事」という一項があり、「白魚を一ト樗蒲(ちょぼ)といふは、廿一筋なりしが故なり」、白魚を一ちょぼと数えるのは二十一筋(二十一尾)で一単位だったからだ、と書いています。「廿一は簺(さい)の目の数なり」、二十一はさいころの目を全部足した数だ、というのです。

そして川柳「佃島女房は廿筋かぞへ」が引かれ、「女は吝きが故一筋すくなくかぞへたる人情をいひしなり」、けちだから一筋少なく数えるという人情を詠んだ句だ、と説明されます。この句が安永のころ(1770年代)の作なので当時はまだ二十一筋だったが、「今はおしなべて廿筋となり、樗蒲の義聞えず」、いまはみな二十筋になってしまい、ちょぼという言葉の意味が通じなくなった、とあって、川柳一句を証拠に、数え方の単位が一尾減っていたことを押さえています。

どれが始まりかは、江戸の人にも分からなかった

白魚は種を蒔けば生じ、干した白魚を土に埋めれば翌年その川に生える、と江戸の本は書いていました。光圀は常陸の川に蒔き、萩の隠居侯は周防の川に投げ入れ、徳庿(吉宗)は伊勢から取り寄せて品川に蒔き、寛永の末には浅草川に胤が蒔かれたといい、いっぽうで白魚役の願書によれば、それより前の慶長六年に家康は浅草川の白魚を献上されています。『甲子夜話』は「孰ガソノ始ナルニヤ」と書いたきり、答えを出していません。

これらの本を書いた人たちは、名物をたまたまそこにあったものではなく、誰かが運んできて、蒔いて、根づかせたものと考えていたようで、周防では干した白魚を土に入れて運ばせた殿様の話が、土地の人の口から語られていました。その「白魚」という書き方にさえ、実物を写した梅園は「非也」と書き込んでいます。天保の『魚鑑』が「氏よりそだち」と書いたのは、どこから来たにせよ江戸の水で育ったのだから江戸の白魚はうまい、という、いちばん江戸らしい片のつけ方だったのかもしれません。

出典

この記事でわかったこと

  • 江戸時代の本には、そう書いたものが複数あります。

    『続江戸砂子』は浅草川(隅田川下流)の白魚について「むかしは此海川になかりしを、寛永の末の比、しら魚の胤をまかせられしと也」と記し、『甲子夜話』巻十八は「江都ノ白魚ハ、享保中徳庿ノ勢州ヨリ取寄セ給ヒ、品川ニ蒔カレシヨリ始マレリ」という天瀑子の説を伝えています(「徳庿」を徳川吉宗とする註は『古事類苑』の編者のもの)。ただし同じ『甲子夜話』は、水戸光圀が常陸に蒔いたという別説も挙げたうえで「孰ガソノ始ナルニヤ(どちらが始まりなのか)」と書いており、江戸の人自身が結論を出していません(『古事類苑』動物部 NDL PID:1874269 コマ676)。

  • 干した魚から魚が生まれることはありません。

    ただし江戸時代の本には、そう書いたものがあります。『甲子夜話』は「白魚ハ種ヲマケバ生ズルモノナリ」と書き出し、隅田川の白魚を干して砂中に埋めたら翌年に生じた、という話を伝えています。著者の松浦静山自身も、周防小郡の宿で出た白魚が隅田川のものと変わらず、土地の人から「隅田ノモノヲ乾カシテ土ニイレ、此地ニ運バレ、カノ川ニ投ジ置レシガ、明年ヨリ生育シテ」と聞いた、と記録しています(NDL PID:1874269 コマ676)。

  • 慶応三年(1867年)十月付の白魚役・庄五郎の願書に「京橋東西白魚屋敷川岸地」として出てくる土地です。

    同じ願書によれば、庄五郎は慶長六年(1601年)に家康が上総国東金筋へ鷹狩に出た折、浅草川の白魚を献上して以来、冬春は白魚御用、夏秋は御小魚御用を勤め、慶応三年まで「貳百六拾六年」続けてきたとしています(『雑件録』二を『古事類苑』動物部が引く。NDL PID:1874269 コマ676-677)。

  • 柳亭種彦の『柳亭記』によれば、もとは二十一尾で「一ちょぼ(一ト樗蒲)」でした。

    二十一はさいころの目を全部足した数です。ただし同書は、安永ごろの川柳「佃島女房は廿筋かぞへ」を引いて、女房が一筋少なく数える人情を詠んだ句だとしたうえで、「今はおしなべて廿筋となり、樗蒲の義聞えず」——いまは二十尾が普通になり、語の意味も通じなくなった、と書いています(『古事類苑』動物部 NDL PID:1874269 コマ677)。

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