アユが餌で釣れない理由——江戸の漁師は馬の尾で毛鉤をつくった
六月になると、川の中に人が立ちます。アユ釣りの解禁です。
ただ、この魚の釣り方は少し変わっています。餌をつけません。アユは餌では釣れないのです。
生きたアユをオトリにして泳がせ、縄張りに入ってきた一匹を引っかける「友釣り」。あるいは、羽根を巻いた小さな鉤を流す「テンカラ」。どちらも、魚に餌を食べさせて掛ける釣りではありません。
では、江戸の人はこの魚をどうやって捕っていたのでしょうか。
0. 江戸時代の魚の本は、いまそのまま読める
国立国会図書館デジタルコレクションには、江戸時代の本が撮影されたままの画像で公開されています。著作権はとうに切れているので、誰でも、無料で、1ページずつ拡大して読めます。
ただ、開けばすぐ目当ての一行に届く、というわけにはいきません。江戸の本に索引はないからです。
そこで先に開くのが『古事類苑』。明治から大正にかけて編まれた、古典籍の巨大な引用集です。テーマごとに、あちこちの本の該当箇所をまとめて並べてくれています。
その動物部でアユを探すと、コマ682から700あたりがまるごとアユの帯でした。『日本書紀』『万葉集』『延喜式』から江戸の食物本まで、十数点が並んでいます。
その中に、ひときわ長い引用がありました。『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』です。原本を開いてみます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ145・著作権保護期間満了)
元禄十年(1697年)に刊行された、医師・人見必大(ひとみ・ひつだい)の食物本です。魚を一種ずつ、名前・姿かたち・味・薬効の順に解説していきます。
アユは巻七、川と湖の魚を集めた巻に入っています。
釈名(呼び名)が終わり、集解(かたちと生態)に入って、体長や卵の話が続きます。そこを五行ほど読み進めたところで、話がとつぜん釣りに変わります。
1. 「餌がなければ、釣れない」

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
まず、理由が書かれています。
「性常食沙及石垢」。
この魚はふだん、砂と石垢(せきこう)——川石にはりつく苔を食べている。
だから、と続きます。
「故無餌不能釣」。
だから餌では釣れない。
魚を釣るというのは、ふつう餌を食わせることです。その前提が、この魚には通じない。三百年以上前の本が、まずそこを断っています。
ただし、と必大は続けます。
「惟喜蠅」——ただ、蠅(はえ)を好む。
2. だから、馬の尾で蠅をつくる
次の一行が、この項でいちばん有名な箇所です。
「故遠州大井川邊漁俗、以馬尾造蠅頭、着綸頻釣之」。
だから遠州・大井川あたりの漁師は、馬の尾で蠅の頭に似せたものを作り、糸につけて、しきりにこれを釣る——。
馬の毛を巻いて虫に似せた鉤。いまでいう毛鉤です。
そして、そのあとに一言。
「非妙手則不能釣、其手熟者少」。
名人でなければ釣れない。その手練れは少ない——。
道具を説明したうえで、「ただし誰にでもできるわけではない」と釘を刺しています。元禄の時点で、これはすでに技術の要る釣りだったことになります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)
3. 京都・八瀬では、一日に五、六十匹
毛鉤を使うのは大井川だけではありませんでした。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
「洛之八瀬里民、以馬尾之長而結定之」。
京都八瀬(やせ)の里人は、馬の尾の長いものを結わえて仕立てる。
それを谷川に投げ入れ、岸辺の草や苔のあいだをねらう。「一日獲五六十頭」——うまい者は一日に五、六十匹を獲る。
さらに「豫州大津水邊」——伊予国の大津(いまの愛媛県松山市の一帯)でも、細縄と竹竿でアユを掛けている、と続きます。
そして、そのあとの一文が効いています。
「然健速泝于急灘、超網脱簗而難捕」。
しかしこの魚は達者ですばやく、急な瀬をさかのぼり、網を越え、簗(やな)を抜けてしまうので捕らえにくい——。
網も簗も突破される。だから工夫が要る。ここから先は、釣り以外の手も並びます。
4. 石の音で追い込む——「汲鮎」

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
三人がかりの漁です。
まず二人が、長い縄を持ちます。その縄には小石をいくつも結びつけてあります。
「相曳碌碌下於小石川、則鮎驚石聲而落」。
二人が縄を引きながら、ごろごろと小石の川を下っていく。すると鮎は石の音に驚いて落ちる。
下流には、もう一人が待っています。
「一夫立于下流、張扇網而待二夫之至」。
下流に立って扇網を張り、二人が来るのを待つ。
二人はしだいに近づいて寄り合い、「如結合作團樣」——輪をつくるようにする。追われたアユは扇網に入ります。
そこからが名前の由来です。
「半擧網、持小杓而汲鮎。此謂汲鮎也」。
網を半分持ち上げ、小さな杓(しゃく)で汲む。これを「汲鮎(くみあゆ)」という——。
釣るのでも、掬うのでもなく、汲む。魚を水のように扱う言い方です。
5. そして、鵜
アユが大きく育つころになると、手はまた変わります。
「到長大時、簗口張網」——簗の口に網を張る。
そして最後に出てくるのが、鵜です。必大はこう説明しています。
「本邦之鵜者、華之鸕鶿也」——日本でいう鵜は、中国でいう鸕鶿(ろじ)である。
群れの鵜を飼っておいて、アユを捕らせる。鵜飼のことです。

出典:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/東京国立博物館蔵(TNM A-739・CC BY 4.0)
ここまでで、元禄十年の本が並べたアユの捕り方は五つになりました。毛鉤、竿での掛け釣り、汲鮎、簗、鵜飼。
ひとつの魚に、これだけの方法が用意されている。それはつまり、ふつうのやり方では捕れなかったということでもあります。
6. 二百年後も、まだ馬の尾だった
ではこの毛鉤は、そのあとどうなったのか。
明治44年(1911年)、農商務省水産局が『日本水産捕採誌』という本を出しています。全国の漁法を、図つきで記録した官撰の調査書です。
その第五冊、「釣漁業各論・竿釣」の章に、第十一「鮎蚊鉤釣(あゆかばりづり)」という項目がありました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌 第5』・NDL PID:842745 コマ21・著作権保護期間満了)
仕掛けの説明はこうです。桐で作った尖った形の泛子(うき)をつけ、その麻糸に——
「馬尾毛一筋つゝ附けたる黄色の蚊鉤十二個を繋く」。
馬の尾の毛を一本ずつつけた黄色い蚊鉤を、十二個つなぐ。
元禄十年の「以馬尾造蠅頭」から、二百十四年が経っています。それでも材料は馬の尾のままでした。
使い方も書かれています。曇りの日、小さな虫が水面を流れるときがよい。水底を泳いでいるときは沈子をつける。三尺ほどの短い竿に蚊鉤を七、八個つけ、竿を逆手に持って先を水に入れ、手先を少し揺すって釣ることもある。これを方言で「按摩釣(あんまづり)」という——。
7. 友釣りは、そのすぐ隣に並んでいた
同じ章を読み進めると、次の項目が出てきます。
第十二「鮎友釣」。
「友釣とは囮の鮎を置き、他の鮎來りて之に戯るゝを懸鉤を以て懸け捕るものなり」。
オトリのアユを置き、寄ってきた別のアユを掛け鉤で引っかけて捕る——。いま川で行われているものと、同じ説明です。
この漁は急流に向き、ゆるい流れでは分が悪い、とも書かれています。そして例に挙がっているのが「伊豆國狩野川筋」。季節は六、七月ごろが最もよい、とあります。
オトリの扱いも具体的です。縫い針を折ったものをアユの鼻の孔に貫き、その上に鉛の沈子をつける。枝糸から鉤元までの距離は、かならずオトリの体の長さより少し長くしておく。そうしないと鉤がオトリ自身に掛かって傷つけてしまうからだ——。
さらに項目は続きます。
- 第十三「鮎懸」——相模国厚木川筋では方言で「ゴロビキ」という
- 第十四「鮎てんから釣」——各地で行われるが、加賀国金沢地方が最もよくこれを行う
そのテンカラの糸の説明が、また同じところに戻ってきます。
「緡絲は天蠶絲數本を繼き又は馬尾毛數縷を撚り合せたるものを用ふ」。
糸は天蚕糸を継ぐか、または馬の尾の毛を数本より合わせたものを用いる——。
元禄の毛鉤、明治の蚊鉤、テンカラ、友釣り。並べてみると、これらは別々の発明ではなく、「餌では釣れない」という一つの条件から枝分かれした方法だったことが見えてきます。
8. そして、獲れすぎた
同じ『日本水産捕採誌』の第八冊には、簗(やな)の記録があります。安芸国・太田川の簗です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌 第8』・NDL PID:842748 コマ31・著作権保護期間満了)
この簗の説明のあとに、こういう記述が置かれています。
「此の梁は明治革新以前に於ては藩廳の直轄にして」——この簗は明治維新より前は藩庁の直轄だった。
太田川筋の六里ほどの区間は、毎年八十八夜から「川止(かわどめ)」と称していっさいの漁業を禁止。夏の土用入りからは吏員を派遣して監視させ、
「若し禁を犯す者あれば假令一竿の釣一投の網に於けるも尙且捕へて獄に下す」。
禁を犯す者があれば、たとえ竿一本、網ひと投げであっても捕らえて牢に入れる、という制度があった。
だから、と続きます。
「故に梁漁の苛酷なるに拘はらず年々敢て魚の減ずるを見ざりしも」。
簗漁が苛酷であるにもかかわらず、年々魚が減るということはなかった。ところが——
「明治以降斯る制は廢止し而して梁漁は民業に移り依然として之を爲すを以て近年漸く魚の減少せんとするの傾向ありと云ふ」。
明治以降この制度は廃止され、簗漁は民業に移った。それでも同じように行われているので、近年しだいに魚が減ろうとする傾向があるという——。
この本の編者は、簗という漁法そのものに批判的です。梁類の章の冒頭では、繁殖への害が大きいので西洋各国ではおおむね禁止されている、本篇にこれを記すのは編者の喜ばぬところだ、とまで書いています。
アユは、捕りにくい魚だった
もういちど、元禄十年の一行に戻ります。
「無餌不能釣、惟喜蠅」。
餌では釣れない。ただ蠅を好む。
この不便が、馬の尾を巻いた鉤を生み、石の音で追う汲鮎を生み、簗と鵜飼を並べさせました。二百年後の官撰書にも、同じ材料の鉤が載っていました。
六月の川に立つ人が、餌をつけない理由。それは三百年以上前の本に、すでに一行で書かれていたことになります。
なお、この魚の名前——なぜ「鮎」という字がアユを指すのか——については、「鮎」がアユを指すのは日本だけ——神功皇后が魚で占った話で扱っています。
ここに引いた本はすべて、国立国会図書館デジタルコレクションで無料公開されています。PIDとコマ番号を入れれば、同じページがそのまま開きます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『古事類苑』動物部 / 『日本水産捕採誌』第5 / 『日本水産捕採誌』第8 / 『梅園魚品図正』巻1 / ColBase 高橋由一《長良川鵜飼》(東京国立博物館蔵・CC BY 4.0)
💡 この記事でわかったこと
- 01
元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻七「鮎」の項は、その理由を「性常食沙及石垢、故無餌不能釣」と説明しています。
この魚はふだん砂と石垢(川石にはりつく苔)を食べているので、餌では釣れない、という意味です。ただし「惟喜蠅」——蠅は好む、と続き、そこから馬の尾で蠅に似せた鉤を作る釣りが説明されています。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』NDL PID:2557333 コマ146)
- 02
少なくとも元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』巻七に、遠州・大井川あたりの漁師が「以馬尾造蠅頭、着綸頻釣之」——馬の尾で蠅の頭に似せたものを作り、糸につけて釣る、と記されています。
京都の八瀬や伊予の大津でも馬の尾を使った漁が挙げられています。明治44年(1911年)の『日本水産捕採誌』第五にも「鮎蚊鉤釣」の項があり、「馬尾毛一筋つゝ附けたる黄色の蚊鉤十二個を繋く」と、同じ材料の仕掛けが図つきで載っています。
- 03
『本朝食鑑』巻七に手順が残っています。
二人が長い縄を持ち、その縄に小石をいくつも結びつけて、ごろごろと引きながら小石の川を下る。アユは石の音に驚いて落ちる。下流にもう一人が立って扇網を張り、二人が来るのを待つ。二人がしだいに寄り合って輪をつくるとアユは扇網に入るので、網を半分持ち上げ、小さな杓で汲む——。この最後の動作から「汲鮎」と呼ばれた、と説明されています。
- 04
今回開いた資料のうち、友釣りの具体的な手順が出てくるのは明治44年(1911年)の『日本水産捕採誌』第五です。
「友釣とは囮の鮎を置き、他の鮎來りて之に戯るゝを懸鉤を以て懸け捕るものなり」とあり、例として伊豆国狩野川筋が挙げられ、季節は六、七月ごろが最もよいとされています。一方、元禄十年の『本朝食鑑』巻七の鮎の項に並ぶのは毛鉤・掛け釣り・汲鮎・簗・鵜飼で、友釣りは出てきません。ただしこれは今回開いた本の範囲の話で、起源を断定するものではありません。
SAKANA 編集部
良輔
論文・古文献・信頼報道から確認した事実だけを掲載する魚の知識図鑑。 古文献の記事は、国立国会図書館デジタルコレクション等で公開されている原本画像を 拡大して字を目視で照合し、読めた箇所だけを引用しています。