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魚と貝

アユが餌で釣れない理由——江戸の漁師は馬の尾で毛鉤をつくった

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この記事の目次

元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』は、アユの項に「故無餌不能釣」と書いています。アユはふだん川石の苔を食べているので、餌では釣れない。六月の解禁で川に立つ人たちが、生きたアユをオトリにして縄張りに入ってきた一匹を引っかける「友釣り」や、羽根を巻いた小さな鉤を流す「テンカラ」で釣っていて、どちらも魚に餌を食べさせて掛ける釣りでないのは、この性質のためです。

同じ項には、江戸の漁師が馬の尾で毛鉤をつくっていたことも書かれていて、その二百年ほど後の明治の漁業の記録にも、まだ馬の尾の鉤が載っていました。

この一行に行きついたのは、明治から大正にかけて編まれた古典籍の引用集『古事類苑』からです。その動物部(NDL PID:1874269)ではコマ683から687までがアユの帯で、『日本書紀』『万葉集』『延喜式』から江戸の食物本まで並ぶなかに、ひときわ長い『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』の引用がありました。

『本朝食鑑』巻七の「鮎」の項の冒頭。見出しに「鮎」、その下に小さく「訓阿由」(アユと読む)とある
左端の柱に「本朝食鑑巻七」。見出しに続く「釋名」には、細鱗魚(日本紀)・年魚(同上)・銀口魚(漢語抄)が並ぶ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ145・著作権保護期間満了)

人見必大(ひとみ・ひつだい)が魚を一種ずつ、名前・姿かたち・味・薬効の順に解説した食物本で、アユは川と湖の魚を集めた巻七に入っています。釈名(呼び名)が終わって集解(かたちと生態)に入り、体長や卵の話を五行ほど読み進めたところで、話がとつぜん釣りに変わります。

砂と石垢を食べる魚

『本朝食鑑』巻七「鮎」集解の、餌釣りができない理由と毛鉤について記した3列と翻刻
赤枠は該当3列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

爛、呼曰鏽鮎。是魚之老勞也。性常食沙及石垢、故無餌不能釣、惟喜蠅。故遠州大井川邊漁俗、以馬尾造蠅頭、着綸頻釣之。非妙手則不能釣、其手熟

現代語訳

(背に白斑が出て)ただれたようになったものを「さびあゆ」と呼ぶ。魚が老いたのである。この魚はふだん砂と石垢(川石の苔)を食べている。だから餌では釣れない。ただ蠅を好む。そこで遠州・大井川あたりの漁師は、馬の尾で蠅の頭に似せたものを作り、糸につけてしきりに釣る。名人でなければ釣れず、その手練れは少ない。

理由として書かれているのは「性常食沙及石垢」、この魚はふだん砂と石垢(せきこう)、つまり川石にはりつく苔を食べている、ということで、そこから「故無餌不能釣」が導かれます。魚を釣るというのはふつう餌を食わせることなのに、その前提がこの魚には通じない、と三百年以上前の本がまず断っているわけです。ただし必大は、「惟喜蠅」、蠅(はえ)だけは好む、と続けています。

『本朝食鑑』巻七「鮎」集解の「無餌不能釣」「惟喜蠅」の大写し
右が「無餌 不能釣」、左がその次の列の「惟喜蠅」。同じ列の続きを2つに切って並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)

アユと釣りといえば、『日本書紀』の神功皇后の話が有名です。川のほとりで釣りをした皇后は粒を餌にしてアユを釣り上げたと書かれていて(くわしくは「鮎」がアユを指すのは日本だけで扱いました)、餌では釣れない魚を皇后は餌で釣ったことになります。必大はこの話を知っていて、同じ項の冒頭、呼び名を並べた釈名の小さな注にそのまま引いていました。

『本朝食鑑』巻七「鮎」釈名の注の「取粒爲餌」「人間非所可爲」の大写し
右が「取粒爲餌」、左がその次の列の「人間非所可爲」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ145・著作権保護期間満了)

皇后は針を曲げて鉤にし、「取粒爲餌」、粒を取って餌にし、裳(も)の糸を抜いて釣り糸にした。そのすぐあとに「是神徳之霊威、人間非所可爲」、これは神の徳がもたらした不思議で人間にできることではない、という必大自身の言葉が続き、さらに「後世以何爲餌釣鮎乎」、後の世の人はいったい何を餌にアユを釣るというのか、と問いを投げています。

ページをめくると、「今采鮎者以網以鵜」、いまアユを捕る者は網を使い、鵜を使い、近ごろは餌なしで釣る、くわしくは後で述べる、とあり、その「後で述べる」が集解のこの一行でした。餌では釣れないという一文は、川で見たことを書いただけのものではなく、皇后の釣りを神わざとして脇に置いたうえで、人間はどう捕るのかを書き始める合図でもあったのです。

馬の尾で蠅の頭をつくる

次の一行が、この項でいちばん知られた箇所です。

「故遠州大井川邊漁俗、以馬尾造蠅頭、着綸頻釣之」。

だから遠州・大井川あたりの漁師は、馬の尾で蠅の頭に似せたものを作り、糸につけてしきりにこれを釣る。いまでいう毛鉤です。

『本朝食鑑』巻七「鮎」集解の「以馬」「尾造蠅頭」の大写し
右が列の末尾の「以馬」、左が次の列の頭の「尾造蠅頭」。列をまたぐ一続きの語を並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』・NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)

そのあとに「非妙手則不能釣、其手熟者少」、名人でなければ釣れず、その手練れは少ない、と一言添えてあって、道具を説明したうえで、誰にでもできるわけではないと釘を刺しています。元禄の時点で、これはすでに技術の要る釣りでした。

『梅園魚品図正』に描かれたアユの彩色図。大小2尾
江戸後期の博物家・毛利梅園による写生図。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:1287112 コマ29・著作権保護期間満了)

京都の八瀬では一日に五、六十匹

馬の尾を使う釣りは、大井川だけのものではありませんでした。

『本朝食鑑』巻七「鮎」集解の、京都・八瀬と伊予・大津の釣りを記した4列と翻刻
赤枠は該当4列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

者少。洛之八瀬里民、以馬尾之長而結定之、投澗水、臨岸畔草苔之間、而繫鮎能捕之者、一日獲五六十頭。豫州大津水邊、亦以細繩竹竿繫鮎。此亦妙手者少矣。然健速泝于急灘、超網脱簗而難捕

現代語訳

手練れは少ない。京都の八瀬の里人は、馬の尾の長いものを結わえて仕立て、谷川の水に投げ入れ、岸辺の草や苔のあいだをねらってアユを掛ける。うまい者は一日に五、六十匹を獲る。伊予国大津の水辺でも、細縄と竹竿でアユを掛ける。これもまた名人は少ない。しかもアユは達者ですばやく、急な瀬をさかのぼり、網を越え簗を抜けてしまうので捕らえにくい。

「洛之八瀬里民、以馬尾之長而結定之」。京都八瀬(やせ)の里人は馬の尾の長いものを結わえて仕立て、谷川に投げ入れて岸辺の草や苔のあいだをねらう、という釣りで、こちらには蠅の頭に似せるとは書かれていません。うまい者は「一日獲五六十頭」、一日に五、六十匹を獲り、さらに「豫州大津水邊」、伊予国の大津(いまの愛媛県松山市の一帯)でも細縄と竹竿でアユを掛けている、と続きます。

そのあとの「然健速泝于急灘、超網脱簗而難捕之」が効いています。この魚は達者ですばやく、急な瀬をさかのぼり、網を越え簗(やな)を抜けてしまうので捕らえにくい。網も簗も突破されるから工夫が要るわけで、ここから先は釣り以外の手も並びます。

石の音で追い込む汲鮎

『本朝食鑑』巻七「鮎」集解の、「汲鮎」の手順を記した5列と翻刻
赤枠は該当5列。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(NDL PID:2557333 コマ146・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

之。魚未長時、用小網而采之。或二夫持長繩、繩上重重緊繫小石塊、相曳碌碌下於小石川、則鮎驚石聲而落。一夫立于下流、張扇網而待二夫之至。二夫隨近相依、如結合作團樣、則鮎入扇網。半擧網、持小杓而汲鮎。此謂汲鮎也。到長大時、簗口張

現代語訳

(前の列から続いて「これを捕らえにくい」。)アユがまだ大きくならない時期は、小網を使って採る。あるいは二人が長い縄を持ち、その縄に小石をいくつも重ねて結びつけ、ごろごろと引きながら小石の川を下ってゆく。すると鮎は石の音に驚いて落ちる。もう一人が下流に立って扇網を張り、二人が来るのを待つ。二人はしだいに近づいて寄り合い、輪をつくるようにする。すると鮎は扇網に入る。網を半分持ち上げ、小さな杓で汲む。これを「汲鮎(くみあゆ)」という。大きく育つころになると、簗の口に網を張り……

三人がかりの漁です。小石をいくつも結びつけた長い縄を二人が持ち、「相曳碌碌下於小石川、則鮎驚石聲而落」、縄を引きながらごろごろと小石の川を下っていくと、鮎は石の音に驚いて落ちていく。下流ではもう一人が「一夫立于下流、張扇網而待二夫之至」、扇網を張って二人が来るのを待っていて、二人がしだいに近づいて「如結合作團樣」、輪をつくるように寄り合うと、追われたアユは扇網に入ります。

名前の由来はそこからで、「半擧網、持小杓而汲鮎。此謂汲鮎也」、網を半分持ち上げて小さな杓(しゃく)で汲むので「汲鮎(くみあゆ)」という。釣るのでも掬うのでもなく汲むという、魚を水のように扱う言い方です。

簗と鵜

アユが大きく育つころには、手はまた変わります。「到長大時、簗口張網」、簗の口に網を張って水とともに落ちてくるアユをすくい上げ、最後に出てくるのが鵜で、群れの鵜をつないで飼い(ふりがなは「ツナキ」)アユを捕らせる鵜飼のことを書いたうえで、必大は「本邦之鵜者、華之鸕鶿也」、日本でいう鵜は中国でいう鸕鶿(ろじ)である、と説明しています。

高橋由一《長良川鵜飼》。篝火を焚いた鵜舟が並び、水面に鵜が浮かぶ
明治24年(1891年)の油彩。江戸の書物が文字で記した鵜飼が、近代の絵として残っている。
出典:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)/東京国立博物館蔵(TNM A-739・CC BY 4.0)

元禄十年の本が並べたアユの捕り方は、毛鉤、竿での掛け釣り、小網、汲鮎、簗、鵜飼の六つになりました。ひとつの魚にこれだけの方法が用意されているのは、ふつうのやり方では捕れなかったということでもあります。

二百年後も、まだ馬の尾だった

その後の毛鉤は、農商務省水産局の『日本水産捕採誌』に出てきます。全国の漁具と漁法を図つきで記録した官撰の調査書で、凡例によると明治十九年(1886年)に編纂を始めて明治二十八年(1895年)に書き上げ、長くしまわれたあと明治四十三年(1910年)から分冊で刊行されました。アユの釣りが載る第五冊の奥付は、明治四十五年(1912年)二月十五日発行です。

その「釣漁業各論・竿釣」の章には、アユの項目がいくつも続きます。最初の第十「小鮎餌釣」は、相模国酒匂川筋でごく小さいアユを川虫の餌で釣る釣りで、まだ擬餌鉤を使いにくいので餌釣りをする、と理由も書かれています。アユが餌でまったく釣れないわけではなく、少なくとも明治の記録では、小さいうちは餌で釣られていました。

次の第十一「鮎蚊鉤釣(あゆかばりづり)」によると、アユは二寸ほどに育つと食欲がいちばん盛んになるので、そこから秋のはじめまではもっぱら蚊鉤、つまり擬餌鉤で釣ります。例に挙がっているのは武蔵国多摩川筋です。

『日本水産捕採誌』第五、第六十図「蚊鉤釣具」。羽根を巻いた小さな鉤が並ぶ
図の説明に相模国馬入川・加賀国・土佐国の名が並ぶ。右の本文に「絲に馬尾毛一筋つゝ附けたる黄色の蚊鉤十二個を繋く」とある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌 第5』・NDL PID:842745 コマ21・著作権保護期間満了)

仕掛けは、桐で作った尖った形の泛子(うき)をつけ、その麻糸に「馬尾毛一筋つゝ附けたる黄色の蚊鉤十二個を繋く」というものでした。元禄十年の「以馬尾造蠅頭」から、書き上げられた明治二十八年までおよそ二百年がたっても、材料は馬の尾のままだったことになります。

使い方も書かれていて、曇りの日や小さな虫が水面を流れるときがよく、水底を泳いでいるときは沈子をつける。三尺ほどの短い竿に蚊鉤を七、八個つけ、竿を逆手に持って先を水に入れ、手先を少し揺すって釣ることもあり、これを方言で「按摩釣(あんまづり)」という、とあります。

友釣りはそのすぐ隣に並んでいた

同じ章の次の項目が、第十二「鮎友釣」です。

「友釣とは囮の鮎を置き、他の鮎來りて之に戯るゝを懸鉤を以て懸け捕るものなり」。

いま川で行われているものと同じ説明で、この漁は急流に向きゆるい流れでは分が悪いこと、例として「伊豆國狩野川筋」、季節は六、七月ごろが最もよいことが書かれています。オトリの扱いも具体的で、縫い針を折ったものをアユの鼻の孔に貫いてその上に鉛の沈子をつけ、枝糸から鉤元までの距離はかならずオトリの体の長さより少し長くしておく。そうしないと鉤がオトリ自身に掛かって傷つけてしまうからです。

項目はさらに、相模国厚木川筋では方言で「ゴロビキ」という第十三「鮎懸」、各地で行われるが加賀国金沢地方が最もよくこれを行うという第十四「鮎てんから釣」と続きます。テンカラと聞くといまの釣り人は毛鉤の釣りを思い浮かべるので、明治の毛鉤の記録がここにもあると読みたくなるのですが、本文は「此の漁も懸釣の一にして」、この漁も掛け釣りの一つである、と始まっていて、前の「鮎懸」と同じ仲間だと断っています。

鉤の説明を読むとその意味が分かります。「鈎は三尖にして錨狀を爲したるもの」、先が三つに分かれた錨の形の鉤で、軸には鉛を鋳つけて筍(たけのこ)の形にしてある。

『日本水産捕採誌』第五、第六十四図「鮎てんから釣鈎」。鉛の軸に三本の鉤がついた錨形の鉤が3つ
図の説明は右から「加賀國にて使用のもの」「紀伊國にて使用のもの」「周防國にて使用のもの」。右の本文はこの鉤の使い方の説明。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌 第5』・NDL PID:842745 コマ25・著作権保護期間満了)

浅瀬に立ってこの重い鉤を遠くへ投げ、糸を三度に分けて手前へ引き、途中でアユに掛かれば手に感じるので合わせて引き寄せる、という使い方です。明治の「てんから」は羽根の毛鉤ではなく、鉛の錨を投げてアユを引っかける釣りで、名前は同じでも中身は別物でした。

それでも糸の説明で、また同じところに戻ってきます。「緡絲は天蠶絲數本を繼き又は馬尾毛數縷を撚り合せたるものを用ふ」、糸は天蚕糸を継ぐか、馬の尾の毛を数本より合わせたものを用いる、というのです。元禄の毛鉤、明治の蚊鉤、友釣り、錨で掛けるてんからは、どれもアユに餌を食わせずに捕る方法で、餌では釣れないという一つの条件から枝分かれした工夫だったことが見えてきます。

そして、獲れすぎた

『日本水産捕採誌』の第八冊には、安芸国・太田川の簗(やな)の記録があります。

『日本水産捕採誌』第八、第百九図「梁」。川を横切って組まれた簗の全景
安芸国太田川の簗。本文の説明では、川を下ってきたアユが簗の口で波に押され、水とともに簗の中へ落ち込む。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本水産捕採誌 第8』・NDL PID:842748 コマ31・著作権保護期間満了)

この簗の説明のあとに、「此の梁は明治革新以前に於ては藩廳の直轄にして」という記述が置かれています。太田川筋の六里ほどの区間は、毎年八十八夜から「川止(かわどめ)」と称していっさいの漁業を禁止し、夏の土用入りからは吏員を派遣して監視させていて、「若し禁を犯す者あれば假令一竿の釣一投の網に於けるも尙且捕へて獄に下す」、たとえ竿一本、網ひと投げであっても捕らえて牢に入れる、という制度だったそうです。

だから「故に梁漁の苛酷なるに拘はらず年々敢て魚の減ずるを見ざりしも」、簗漁が苛酷であるにもかかわらず年々魚が減ることはなかったのに、「明治以降斯る制は廢止し而して梁漁は民業に移り依然として之を爲すを以て近年漸く魚の減少せんとするの傾向ありと云ふ」。制度がなくなって簗漁が民業に移り、それでも同じように行われているので、近年しだいに魚が減ろうとする傾向があるという。この本の編者は簗という漁法そのものに批判的で、梁類の章の冒頭では、繁殖への害が大きいので西洋各国ではおおむね禁止されている、本篇にこれを記すのは編者の喜ばぬところだ、とまで書いています。

捕りにくい魚

元禄十年の「無餌不能釣、惟喜蠅」は、餌では釣れない、ただ蠅を好む、という短い一行です。必大は皇后が粒を餌に釣った話を人間にできることではないと脇に置き、馬の尾で作った鉤、石の音で追う汲鮎、簗、鵜飼と、人間の捕り方を並べました。およそ二百年後の官撰書にも同じ馬の尾の鉤が載っていて、六月の川に立つ人が餌をつけない理由は、三百年以上前の本にすでに書かれていたことになります。

この魚の名前、なぜ「鮎」という字がアユを指すのかについては、「鮎」がアユを指すのは日本だけ——神功皇后が魚で占った話で扱っています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』 / 『古事類苑』動物部 / 『日本水産捕採誌』第5 / 『日本水産捕採誌』第8 / 『梅園魚品図正』巻1 / ColBase 高橋由一《長良川鵜飼》(東京国立博物館蔵・CC BY 4.0)

この記事でわかったこと

  • 元禄十年(1697年)の『本朝食鑑』巻七「鮎」の項は、その理由を「性常食沙及石垢、故無餌不能釣」と説明しています。

    この魚はふだん砂と石垢(川石にはりつく苔)を食べているので、餌では釣れない、という意味です。ただし「惟喜蠅」——蠅は好む、と続き、そこから馬の尾で蠅に似せた鉤を作る釣りが説明されています。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション『本朝食鑑』NDL PID:2557333 コマ146)

  • 少なくとも元禄十年(1697年)刊の『本朝食鑑』巻七に、遠州・大井川あたりの漁師が「以馬尾造蠅頭、着綸頻釣之」——馬の尾で蠅の頭に似せたものを作り、糸につけて釣る、と記されています。

    京都の八瀬でも馬の尾を使った釣りが挙げられています。明治四十五年(1912年)発行の『日本水産捕採誌』第五にも「鮎蚊鉤釣」の項があり、「馬尾毛一筋つゝ附けたる黄色の蚊鉤十二個を繋く」と、同じ材料の仕掛けが図つきで載っています。

  • 『本朝食鑑』巻七に手順が残っています。

    二人が長い縄を持ち、その縄に小石をいくつも結びつけて、ごろごろと引きながら小石の川を下る。アユは石の音に驚いて落ちる。下流にもう一人が立って扇網を張り、二人が来るのを待つ。二人がしだいに寄り合って輪をつくるとアユは扇網に入るので、網を半分持ち上げ、小さな杓で汲む——。この最後の動作から「汲鮎」と呼ばれた、と説明されています。

  • 今回開いた資料のうち、友釣りの具体的な手順が出てくるのは『日本水産捕採誌』第五(明治二十八年〈1895年〉脱稿、明治四十五年〈1912年〉発行)です。

    「友釣とは囮の鮎を置き、他の鮎來りて之に戯るゝを懸鉤を以て懸け捕るものなり」とあり、例として伊豆国狩野川筋が挙げられ、季節は六、七月ごろが最もよいとされています。一方、元禄十年の『本朝食鑑』巻七の鮎の項に並ぶのは毛鉤・掛け釣り・小網・汲鮎・簗・鵜飼で、友釣りは出てきません。ただしこれは今回開いた本の範囲の話で、起源を断定するものではありません。

この記事で開いた原本

どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。

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