魚図鑑

古代と江戸の辞典9冊を『鰺アヂ』で引いてみた。マアジは全員が知っていて、全員が違うことを書いていた

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マアジを江戸時代の辞典で引いてみました。前回のマグロ編と同じ9冊をマアジで引き直します。

結論を先に言うと、マグロとは正反対のパターンが出ました。

マグロは9冊中3冊が独立項目にしていなかった。「下魚」だから記録に値しない——そういう扱いでした。ところがマアジは、9冊中6冊が独立項目を立てている。江戸の学者たちはマアジを「記録すべき魚」として認めていた。

ただし面白いのは、6冊がそれぞれ全く違うことを書いていること。語源辞典は「意味がわからない」と書き、食物百科は薬効を論じ、絵入り辞典は絵を描き、方言辞典は地方名を集め、博物学書は近縁種を分類した。同じ魚を見ているのに、誰も同じことを書いていない。

🐟

本記事では、NDL(国立国会図書館デジタルコレクション)で公開されている原典画像とOCRテキストを照合して読み込んでいます。画像で字が読み取れた箇所は逐語で引用し、判読が難しい箇所は要約にとどめます。

SAKANA編集部

『和漢三才図会』巻51 鰺の項の木版画(部分)
『和漢三才図会』巻51「江海無鱗魚」、鰺の項に添えられた木版画(部分)。波間を泳ぐ姿として描かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション PID:898161 コマ225(著作権保護期間満了)

今回あたった9つの古文献

成立年順に並べます。いずれも国立国会図書館デジタルコレクションで画像閲覧可能な資料です。

書名

成立

著者

鰺の扱い

倭名類聚抄

931年頃

源順

独立項(アチ)

頭書増補訓蒙図彙

1695年(原版1666)

中村惕斎

独立項+図版+薬効

本朝食鑑

1697年

人見必大

独立項(釈名・集解・気味・主治)

大和本草

1709年

貝原益軒

独立項なし

和漢三才図会

1712年頃

寺島良安

独立項+図版+近縁種分類

東雅

1717年

新井白石

独立項(語源考証)

物類称呼

1775年

越谷吾山

独立項(地方呼称詳細)

日本山海名産図会

1799年

蔀関月

独立項なし(鯛漁の餌として言及)

本草綱目啓蒙

1803年

小野蘭山

独立項なし

9冊中6冊がマアジを独立項目にしています。マグロの場合は9冊中3冊が独立項目なしでした。つまりマアジは、マグロよりずっと「辞典に載せるべき魚」として扱われていた。

一方で、貝原益軒の『大和本草』は、マアジを独立項目にしていません。「毒アリ 往々人ヲシム」とまで書いたマグロに独立項を立てたのに、身近で安全なマアジには立てなかった。この落差の意味を考えるのが、今回の記事の一つの核心です。

古代:鰺は「アチ」と読んだ

『倭名類聚抄』(源順、931年頃)

マアジの古典的記録を辿ると、最古は平安中期の源順が編纂した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に行き当たります。日本最古の分類辞典です。

今回閲覧したのは、その源順本の校訂注釈版である狩谷棭斎『箋注倭名類聚抄』(明治16年=1883年、印刷局刊)。源順の原本は NDL では個人送信限定なので、この校訂本(IIIF 公開、PID 991791)で代替しました。マグロ編でも同じ本を使っています。

『箋注倭名類聚抄』龍魚部 コマ16 見開き全体(PID 991791)
『箋注倭名類聚抄』龍魚部、PID 991791 コマ16 見開き全体。鰺の項を含むとされるコマで、右ページには鰕(エビ)の項の続き、左ページには狩谷棭斎の校注が続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『箋注倭名類聚抄』鰺の項を含むとされる部分 クローズアップ(PID 991791 コマ16)
鰺の項を含むとされる部分のクローズアップ。原典引用と狩谷棭斎の校注が密に書き込まれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)

【OCRテキスト(画像での逐語照合は未了)】(源順の本文+狩谷棭斎の校注)

崔禹食經云、鰺、蘇遭反、與騒同、阿知。味甘温無毒、貌似鰻而尾白刺相次者也

【現代語訳】

崔禹錫の『食經』(唐代の食物書)によれば、鰺は「アチ」と読む。味は甘く温かい性質で、毒はない。姿は鰻(あるいは暖魚=うつぼ類)に似て、尾が白く、刺(ヒレの棘条)が次々と連なる魚である。

狩谷棭斎の校訂と「鰺」の字の異同

興味深いのは、校注者の狩谷棭斎(1775〜1835)が文字の異同について細かく注記している点です。

【OCRテキスト(画像での逐語照合は未了)】(棭斎の校注)

伊勢本下總本作鰺、刻版本同、與本草和名合。…醫心方引而作皮中有白垢五字、相次作連々逆々四字

【現代語訳】

伊勢本・下總本では「鰺」と書き、刻版本も同じで、『本草和名』の表記と一致する。…『醫心方』が引用した版では「皮中有白垢」の五字があり、「相次」は「連々逆々」の四字に替わっている。

ここで読み取れるのは、「鰺=アチ、味甘温無毒」という基本情報が早い時期から伝わっていたこと。この情報は唐代の崔禹錫食經を経由したものとされ、江戸期の学者たちが繰り返し引いています。東雅・和漢三才図会なども、この倭名類聚抄系の記述を引いている書として並びます。

📚 NDLで原典を読む
▶ 『箋注倭名類聚抄』龍魚部 コマ16(鰺の項を含むとされるコマ)を NDL で開く

江戸前期の絵入り辞典:『頭書増補訓蒙図彙』(1695年)

書誌

江戸前期、寛文6年(1666)に中村惕斎が編纂した『訓蒙図彙(きんもうずい)』は、日本最古の体系的な絵入り百科事典です。今回閲覧したのはその増補版『頭書増補訓蒙図彙』(元禄8年=1695年刊、全8冊)。鰺はコマ18にあります。

『頭書増補訓蒙図彙』水族の部 コマ18 見開き全体(PID 2557103)
『頭書増補訓蒙図彙』巻14 水族の部、PID 2557103 コマ18。鯛・鯖・鯵・鰤など多くの魚の名前と図版が並ぶ見開き。各魚に簡潔な薬効・食味の説明が付されている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)

【OCRテキスト(画像での逐語照合は未了)】(頭書部分の薬効記述)

鯵は木腫剤疾を治す

【現代語訳】

鯵は、腫れ物と諸疾患を治す。

絵入り辞典らしく、鰺の魚体が描かれた図版と共に、ごく簡潔な薬効記述が付されています。訓蒙図彙は「子ども向けの教育図鑑」という性格が強く、難しい語源論や詳細な博物学的記述は省かれています。江戸前期の民衆が、鰺をまず「薬効のある食材」として認識していたことが読み取れます。

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▶ 『頭書増補訓蒙図彙』水族の部 コマ18 を NDL で開く

人見必大『本朝食鑑』(1697)——巻9に「鯵魚」として収録

書誌データ

『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』は、京都の医師・人見必大が元禄10年(1697年)に著した食物百科事典です。全12巻、約440品目の食材を、名称・産地・旬・味・効能・調理法の観点から漢文で詳述しています。

『本朝食鑑』は鰺を独立項目として収録しています。巻9「鱗部之三 江海無鱗類 三十七種」の一つとして、PID 2557334 のコマ22右ページに「鰺」の項があります。

『本朝食鑑』第一冊の表紙(PID 2557332 コマ1)
『本朝食鑑』第一冊 表紙。元禄10年(1697年)刊の原典画像。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『本朝食鑑』巻之九 目録(PID 2557334 コマ2)
『本朝食鑑』巻之九 目録、「鱗部之三 江海無鱗類 三十七種」の冒頭とされるコマ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『本朝食鑑』巻9 鰺の項とされるコマ 右ページ(PID 2557334 コマ22)
『本朝食鑑』巻9「江海無鱗類」内の鰺の項とされるコマ(字の逐語照合は未了)。集解・気味・主治など食物学的な記述が漢文で展開される。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)

『本朝食鑑』の本文は漢文(訓点付き)で、江戸期写本という事情からOCRの精度が安定しません。本記事では文字単位の逐語引用は行わず、鰺がこのコマに収められていること項目が釋名/集解/気味/主治の構成をとることを要約として記します。

『本朝食鑑』の特徴は、食材ごとに 「釈名(名前の由来)→ 集解(形状・生態・産地)→ 気味(味と性質)→ 主治(薬効)」 という医学書的な定型で整理されていること。著者の人見必大が京都の医師だからこその構成です。

マグロには独立項目を立てなかった必大が、鰺には立てた——この差は、鰺が「食材として特記すべき対象」だったことをうかがわせます。保存がきかず食あたりの危険があったマグロと違い、鰺は日常的に安心して食べられる魚だったのでしょう。

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▶ 『本朝食鑑』巻9 鰺の項とされるコマ22 を NDL で開く
▶ 『本朝食鑑』巻9 目録 コマ2 を NDL で開く

ところが貝原益軒『大和本草』はマアジを独立項目にしていない

1709年刊、貝原益軒『大和本草』——「毒アリ 往々人ヲシム」(マグロには毒がある、しばしば人を死なせる)とマグロについて記した書物です。全16巻+附録2巻の大著で、NDL IIIF公開の全10冊(PID 2557353〜2557362)を走査しました。

結果、鰺の独立項目は見つかりませんでした

PID 2557359(巻13 魚類)のコマ43に「鯵白シ」、コマ49に「形アヂニ似」という記述がありますが、いずれも他の魚(白魚やヱソ類)の描写中の比較対象として言及されているだけで、「○アヂ」という見出しの独立項は見当たりません。

「載せない」ことの意味——マグロとの逆転
マグロ編では、本朝食鑑と東雅が独立項目なしでした。理由は「下魚だから特記に値しない」と考えられます。

大和本草の場合、逆の理由が考えられます。益軒にとってマアジはあまりにも当たり前すぎて、わざわざ項目を立てるほどの情報がなかったのではないか。マグロは「毒がある」「カツオに味が劣る」という警告すべき情報があったから独立項目にした。鰺は「無毒」「どこにでもいる」——書くべき特記事項がなかった、という見方ができます。

皮肉なことに、「危険な魚」のほうが辞典に載り、「安全な魚」は載らない。益軒の実用主義が透けて見えます。

寺島良安『和漢三才図会』(1712頃)——複数のアジ類を分類

書誌データ

『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』は、大阪の医師・寺島良安が正徳2年(1712年)頃に完成させた、全105巻81冊の超大型百科事典です。鰺は 中之巻 PID 898161 コマ225、巻第五十一 江海無鱗魚 に図版付きで登場します。

『和漢三才図会』巻51 江海無鱗魚 コマ225 見開き全体(PID 898161)
『和漢三才図会』中之巻 PID 898161 コマ225 の見開き全体。章題「和漢三才圖會卷第五十一 江海無鱗魚」の直下、右ページ右端に鰺の図版(実際のアジの絵)が描かれ、その左に漢文の本文が続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『和漢三才図会』巻51 鰺の項 クローズアップ(PID 898161 コマ225 右ページ)
『和漢三才図会』巻51 鰺の項のクローズアップ。波間を泳ぐ鰺の図版と、読み「あぢ」「ツアヅ」(中国音)、本文漢文が大きく確認できる。本文には「按鰺無鱗」と明記されており、寺島良安が鰺を鱗なしと記述した根拠がここにある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『和漢三才図会』コマ225 鰺の項 翻刻並記(赤枠=該当箇所)
赤枠の一節を翻刻・現代語訳と並べたもの。翻刻は「△按鰺無鱗魚」。「按ずるに」は良安自身の見解を示す語で、鰺を無鱗魚とした判断がこの1行にあたる。
出典:『和漢三才図会』巻51 江海無鱗魚(寺島良安、1712年頃)国立国会図書館デジタルコレクション PID:898161 コマ225(著作権保護期間満了)

【原文1】見出しと和名抄引用

「和名抄載崔禹錫食經云 鰺似暖而尾白刺相次者也」

【現代語訳】

和名抄(倭名類聚抄)が崔禹錫の『食経』を引用して、「鰺は暖(うつぼ、または鰻のような魚)に似て、尾が白く、刺(ヒレの棘)が次々と連なる者である」と記している。

ここでも崔禹錫食經が引かれています。倭名類聚抄系の同じ一節が、江戸期の博物書に繰り返し引かれていることがわかります。

【原文2】良安自身の観察

「按鰺無鱗、骨刺甚微、肉白、小者尺餘」

【現代語訳】

(良安が)按ずるに(考えるに)、鰺には鱗がなく、骨と刺(ヒレの棘)は非常に細かい。肉は白く、小さい者でも一尺(約30cm)あまりある。

現代の魚類学では鰺には当然鱗がありますが、江戸の博物学では「鱗が小さく目立たない魚」を便宜的に「無鱗」として括っていた——そのロジックがここで言語化されています。

【原文3】近縁種のリストと室鰺の語源

「島鰺、似鰺而梁層有横文」「目高鰺、似鰺而黒眼」「白棘高鰺、室鰺、大三四寸、皮厚刺硬、作鰺」「多出於播州室津、故名之」

【現代語訳】

  • 島鰺(しまあじ):鰺に似ているが、梁層(背側)に横縞模様がある
  • 目高鰺(めだかあじ):鰺に似ているが、目が黒い
  • 白棘高鰺・室鰺:大きさ3〜4寸(9〜12cm)、皮が厚く刺(ヒレ)が硬い。鰺の一種として扱う
  • (室鰺について)播州(播磨国、現在の兵庫県西部)の室津に多く出るので、その地名から「室鰺」と名付けられた

島鰺は現代のシマアジ、室鰺は現代のムロアジに相当するとみられ、良安が300年前にすでにこれらを書き分けていたことがわかります。室鰺(ムロアジ)の名の由来を「播州室津」という地名に結びつける説明も記録されています。

📚 NDLで原典を読む
▶ 『和漢三才図会』巻51 江海無鱗魚 コマ225(鰺の項・図版付き)を NDL で開く

新井白石『東雅』(1717)——「アヂ」の意味は詳らかならず

書誌データ

『東雅(とうが)』は、新井白石(1657〜1725)が享保2年(1717年)に著した日本語の語源辞典です。全20巻・15門49部。国会図書館デジタルコレクションで公開されているのは、明治36年(1903年)刊、大槻如電校訂の活字翻刻本。鰺は第四冊(PID 993111)巻19「鱗介」のコマ34にあります。

『東雅』第一冊の表紙(PID 993108 コマ1)
『東雅』第一冊 表紙。明治36年刊、大槻如電校訂本。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『東雅』巻19 鱗介部 コマ34 見開き全体(PID 993111)
『東雅』巻19 鱗介部、PID 993111 コマ34 見開き全体。右ページは前の項目(鰹)の続き。左ページ上段に「鰺 アヂ」の見出しから鰺の項が始まり、その左隣に「鯖 アヲサバ」の項が並ぶ。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『東雅』巻19 鱗介部 鰺の項クローズアップ(PID 993111 コマ34 左ページ上段)
『東雅』巻19 鱗介部、PID 993111 コマ34 左ページ上段のクローズアップ。見出しに「鰺」、読み「アヂ」、本文冒頭に「義不詳」と記されているのが大きく確認できる。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『東雅』コマ34 鰺の項 翻刻並記(赤枠=該当箇所)
赤枠の見出しと冒頭を翻刻・現代語訳と並べたもの。翻刻は「鰺 アヂ」「義不詳」。白石が語源を「詳らかでない」と明言した箇所にあたる。
出典:『東雅』巻19 鱗介(新井白石、1717年。明治36年刊 大槻如電校訂活字本)国立国会図書館デジタルコレクション PID:993111 コマ34(著作権保護期間満了)

【原文】

「鰺アヂ義不詳、倭名鈔に崔禹錫食經を引て。鰺はアチ。味甘溫無毒。貌似饑而尾白刺相次者也と註せり。或人說にアヂとは味也。其味の美をいふなりといへり。萬葉集に據るに。鳥の名またアヂといふあり。古にアヂといひし。別に義ありげむ。詳なる事を知らず」

【現代語訳】

鰺(読み「アヂ」)。この字の由来はよく分からない。倭名抄(倭名類聚抄)は崔禹錫の『食經』を引用して「鰺はアチ(アヂの古い読み)と読む。味は甘く温かい性質で、毒はない。姿は饑(鰻のような魚)に似て、尾が白く、刺(ヒレの棘)が次々と連なる魚である」と註釈している。ある人の説では、「アヂ」とは味のことで、その味の美しさを言ったものであるという。しかし万葉集を見ると、「アヂ」という鳥の名もあって、古くは何か別の意味で「アヂ」と呼ばれた可能性もあるように思われる。詳しいことは分からない。

いきなり 「義不詳」(由来はよく分からない)で始まるのが最高にいい。白石は「意味はよく分からない」と最初に宣言しています。

「アヂ=味」は白石自身の説ではない

ここは重要なポイントで、鰺の語源としてよく紹介される「アヂ=味がいい」説は、白石自身が断定した説ではない。白石はあくまで「或人說に」(ある人の説として)紹介し、万葉集の鳥名との関係も示唆して、最終的には「詳なる事を知らず」と締めくくっています。

300年前の学者が、「わからないことはわからない」と書き残せる 知的誠実さ。現代のネット記事が見習いたいところです。

「鳥のアヂ」とは?
万葉集に登場する「アヂ」は、現代で言うトモエガモ(巴鴨)のこと。奈良時代には魚の「アヂ」と鳥の「アヂ」が同じ音で呼ばれていて、白石は両者の関係を気にしていたわけです。結論は「わからない」ですが、そのわからなさを律儀に書き残すのが東雅のすごさ。

📚 NDLで原典を読む
▶ 『東雅』巻19 鱗介部 コマ34(鰺の項)を NDL で開く

越谷吾山『物類称呼』(1775)——地方呼称の地図

江戸中期の方言辞典の傑作が『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』です。越谷吾山が全国を歩いて集めた方言を整理した全5巻の辞典で、鰺は巻2 生類の部、PID 2539349 コマ38に独立項目で収録されています。

『物類称呼』巻2 鰺の項 見開き全体(PID 2539349 コマ38)
『物類称呼』巻2 生類の部、PID 2539349 コマ38 の見開き全体。くずし字で各地の方言が詳細に記録されている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)
『物類称呼』鰺項のクローズアップ(PID 2539349 コマ38)
『物類称呼』鰺項のクローズアップ。地方名が列記されている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)

【OCRテキスト(画像での逐語照合は未了)】

あぢ ○紀州にて○とつかは 土佐にて○とつぱこと云 小しきなる物を西国たて○こびらと 相州にて○ぢんだんご 加賀にて○さくさねと云 此魚播州文鯵魚室ノ津にて多く捕る故にむろあちの名有

【現代語訳】

あぢ(鰺)。紀州では「とつか」と呼ぶ。土佐では「とつぱこ」と呼ぶ。小さいものを西国では「こびら」、相模(神奈川)では「ぢんだんご」、加賀では「さくさね」と呼ぶ。この魚は播州(兵庫)の室津で多く獲れるので、「むろあち(室鰺)」の名がある。

マアジの地方呼称マップ

  • 紀州(和歌山):とつか
  • 土佐(高知):とつぱこ
  • 西国(九州・中国地方):こびら(小型のもの)
  • 相州(神奈川):ぢんだんご
  • 加賀(石川):さくさね
  • 播州室津(兵庫):むろあち → 現代のムロアジの語源

マグロの場合は「畿内=ハツ、江戸=マグロ」という東西の大きな分断がありました。マアジの場合は逆に、地方ごとにバラバラの名前が乱立している。「とつか」「とつぱこ」「こびら」「ぢんだんご」「さくさね」——どれもマアジを指す言葉なのに、音の共通項がほとんどない。これは、マアジが全国どこでも獲れる身近な魚だったからこそ、各地が独自の呼び名を育てた結果でしょう。

📚 NDLで原典を読む
▶ 『物類称呼』巻2 鰺の項 コマ38 を NDL で開く

蔀関月『日本山海名産図会』(1799)——鰺は「餌」として登場

江戸後期の名産・産業誌『日本山海名産図会』。マグロ編では「鮪冬網」という迫真の漁図が圧巻でしたが、鰺については独立項目がありません

PID 2575828 のコマ21、鯛漁の解説中に「飼は鯵鯖等なり」(餌は鰺・鯖など)と記されているのみ。また延喜式の引用部分(コマ6)にも「鰯鯵」と並列で名が出ますが、あくまで他の食材の文脈です。

名産図会に載らない魚
日本山海名産図会は、各地の「名産品」を図版付きで紹介する書物。ここにマアジが独立項目として載っていないのは、マアジが「名産」と呼ぶには普通すぎたからでしょう。マグロは九州の漁場で大規模な冬網漁が行われ、「名産」として描くだけの産業的スケールがあった。マアジは全国津々浦々で日常的に獲れる魚——わざわざ名産図会に載せるほどの特産性がなかったと考えられます。

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803)——本草学もマアジを独立項にしなかった

江戸後期の本草学の到達点とされる小野蘭山『本草綱目啓蒙』(全48巻、1803〜1806年)。PID 2555647 の全75コマを走査しましたが、鰺の独立項目は見つかりませんでした

コマ11に「方キアヂ 雲州」という記述がありますが、これは石首魚(イシモチ)の項内で「雲州ではこの魚を方きアヂと呼ぶ」と記されたもので、鰺自体の項目ではありません。

これはマグロ編と同じパターンです。李時珍の『本草綱目』(1596年、中国)本体が鰺を独立項目にしていないため、蘭山もその構成を踏襲したと考えられます。中国由来の本草学の体系には、鰺の居場所がなかった

現代との比較——マアジは「当たり前の魚」の代表格

ここまでの9冊の記録を、現代の一般知識と重ねてみましょう。

1. 分類学上の位置

現代では一般に、マアジはスズキ目アジ科マアジ属(Trachurus japonicus)の沿岸回遊魚と説明されます。体長は30〜40cm程度。日本全国の沿岸に広く分布し、世界的にも東アジアの温帯海域に生息。

和漢三才図会が分類した近縁種は現代の分類とよく対応します:

  • 島鰺(シマアジ)→ Pseudocaranx dentex。現代では高級魚として珍重
  • 室鰺(ムロアジ)→ Decapterus 属。くさや・干物の原料として知名
  • 目高鰺(メアジ?)→ Selar crumenophthalmus の可能性。熱帯・亜熱帯の魚

良安が1712年に記録した「横縞がある鰺」「目が黒い鰺」「播州室津に多い鰺」という観察は、300年後の分類学的知見と矛盾しない

2. 語源「アヂ=味」は本当か

現代の辞典(広辞苑、日本国語大辞典など)でも、「アジ」の語源として「味がよいことから」という説が一般に紹介されます。しかし原典に当たると:

  • 白石は「或人說に」と留保をつけて紹介し、自身は「詳なる事を知らず」
  • 倭名類聚抄は語源について何も言わず、崔禹錫食經の「味甘温無毒」を引くのみ
  • 万葉集にはトモエガモの「アヂ」があり、魚名との関係は不明

つまり「アジ=味」説は、少なくとも江戸期の一次資料では「一つの仮説」に過ぎない。現代の辞典が断定的に書いているほど確実な説ではないことが、原典から読み取れます。

3.「無鱗魚」の分類は間違っていたのか

東雅・本朝食鑑・和漢三才図会の三冊とも、鰺を「無鱗魚」または「鱗介」に分類しています。現代の魚類学ではマアジにも鱗はあるので、この分類は「間違い」に見えます。

しかし良安は「按鰺無鱗」と書きつつも、シマアジやムロアジの詳細な外見描写(横縞、皮の厚さ、刺の硬さ)を正確に記録しています。江戸の博物学は「鱗が目立つか目立たないか」という食卓での実用基準で分類していたのであって、解剖学的な正誤の問題ではありません。マグロ・カツオ・サバも同じ「無鱗」分類でした。

4. なぜマアジは「当たり前の魚」だったのか

9冊を通して見えてくるマアジの像は、一言でいえば「特筆すべきことがない魚」です。

  • マグロのように「毒がある」わけでも、「下魚」扱いされるわけでもない
  • フグのように「死ぬ危険」があるわけでもない
  • 鯛のように「めでたい」象徴性を持つわけでもない
  • 全国どこでも獲れて、味は甘く温かく、毒はない

倭名類聚抄が引く「味甘温無毒」——この四文字が、マアジの本質をよく言い表しています。甘くて温かくて毒がない。だから特記事項がない。だから辞典に載ったり載らなかったりする

現代でもマアジは「大衆魚」の代名詞です。スーパーで一年中手に入り、価格は安定し、刺身・たたき・フライ・干物と万能。この「当たり前さ」が古くから変わっていないことが、一次資料から読み取れます。

5. 地方名の乱立と「ぜんご」

物類称呼が記録した地方名の多様さは、現代でもマアジの世界に残っています。現代の漁業・市場用語でも:

  • ぜんご(稜鱗=側線上の硬い鱗)——マアジの最大の外見的特徴で、料理の際に取り除く部位
  • 関アジ(大分県佐賀関)、松輪アジ(神奈川三浦半島)——現代のブランドアジ
  • 黄アジ(瀬付き=沿岸に居着くマアジ)/黒アジ(回遊型)——味と脂の乗りが異なる

江戸時代に「とつか」「とつぱこ」「こびら」「ぢんだんご」「さくさね」と呼び分けていた地方名の多様性は、現代のブランドアジや漁業用語に形を変えて生き続けています。

この「黄アジ/黒アジ」の違いは、感覚的な呼び分けではなく、古くから水産学が系群(けいぐん)として研究してきたものです。畔田正格・落合明「若狭湾産マアジの系群に関する研究」(1962)は、沿岸に居着くキアジ(黄アジ)が背側に黄色みを帯びて体高が高く産卵期は六〜七月、沖合を回遊するクロアジ(黒アジ)は体が細長く背が黒ずみ産卵期は一〜三月、と両者が体型・体色・産卵期・食性などで区別できることを報告しています。江戸の辞書が地方名で書き分けたマアジの多様さは、近代以降は系群という形で捉え直されたわけです。
出典:畔田正格・落合明「若狭湾産マアジの系群に関する研究」『日本水産学会誌』28巻10号 967–978頁、1962年。DOI: 10.2331/suisan.28.967

江戸から近代へ——明治の漁業書はアジ専用の網を載せた

江戸の辞書では「当たり前すぎて項目が立たない」こともあったマアジですが、明治末の『日本水産捕採誌』(1911年)には、アジを獲るための専用漁具が図入りで記録されています。

日本水産捕採誌 鰺網のページ
『日本水産捕採誌』(NDL PID:842749)コマ244。「第七 鰺網」の節と図「第百四十一圖 鰺網」。出雲・石見の沿海でアジを漁するのに用いる麻製の抄網(漏斗形)が描かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(著作権保護期間満了)

出雲・石見の海で使われた漏斗形の「鰺網」。ありふれた魚であっても、地域ごとに最適化された漁具が発達していたことが、近代の一次資料からうかがえます。

【番外】梅園魚譜が描いた「鰺」——そして「室鰺」の語源

最後に、江戸後期の彩色魚譜『梅園魚品図正』(毛利梅園、1830年代の写本)を番外として開きます。実物を写したこの魚譜の2帖に、マアジとムロアジの図があります。

梅園魚品図正 マアジの彩色図
『梅園魚品図正』2帖(NDL PID:1287112)コマ21。右下の魚が「鰺(マアヂ)竹莢魚」と題されたマアジの彩色図。体高のある体と尾柄のぜいご(稜鱗)が描かれている(同じ紙面には白鱚魚なども併載)。
出典:NDLデジタルコレクション(著作権保護期間満了)
梅園魚品図正 ムロアジの図と室鰺の語源
『梅園魚品図正』2帖(NDL PID:1287112)コマ33。上の魚が「鯵ノ一種 ムロアジ」。傍らの本文に「播磨室ノ海…」とあり、播磨の室の海に多く産することからムロアジ(室鰺)と呼ぶ旨が記されている(下の魚はハタジロで別種)。
出典:NDLデジタルコレクション(著作権保護期間満了)

とりわけ目をひくのが「室鰺」の図です。本文に「播磨室ノ海」に多く産すると記され、ムロアジという名が地名に由来するという理解が、江戸後期にはすでに図入りで残されていたことがわかります。文字の辞書が記した語源が、彩色図のなかにも生きていたのです。

9冊を並べて見えてきたもの

マグロ編との比較で、面白い逆転が浮かび上がります。

書名

マグロ独立項

マアジ独立項

倭名類聚抄

○(シビ)

○(アチ)

訓蒙図彙

本朝食鑑

×

大和本草

×

和漢三才図会

東雅

×

物類称呼

日本山海名産図会

×

本草綱目啓蒙

×

×

マグロが「載っていない」のは食物百科(本朝食鑑)と語源辞典(東雅)。つまり「食べ物として記録する価値がない」「語源を論じる価値がない」と判断された。

マアジが「載っていない」のは博物学書(大和本草)と産業誌(日本山海名産図会)。つまり「博物学的に特記すべきことがない」「名産品として図版化するほどの産業的特殊性がない」と判断された。

この逆転は、江戸時代のマグロとマアジの社会的地位の違いを映し出していると考えられます。マグロは「危険だが興味深い魚」、マアジは「安全だが当たり前の魚」。辞典に載る理由も載らない理由も、魚ごとに違っていた。

9冊の辞典を横断してみると、「載せる」判断と「載せない」判断の両方に、学者それぞれの個性と価値基準が透けて見える。益軒は実用主義だから「危険な魚」を優先的に記録し、白石は語源が面白いものを優先し、吾山は方言が多様なものを優先し、関月は産業として目立つものを優先した、という見方ができます。

マアジという魚は、こうした学者たちの価値基準の「隙間」に、静かに、しかし確実に記録され続けてきた魚です。

マグロとマアジで、辞典に載るパターンが逆転しているのはなぜ?
辞典に載るかどうかは、その辞典の目的によって変わります。食物百科(本朝食鑑)は「食材として重要か」で判断するのでマアジは載りマグロは載らない。博物学書(大和本草)は「博物学的に警告すべきことがあるか」で判断するのでマグロは載り(毒がある)マアジは載らない。語源辞典(東雅)は「語源が面白いか」で判断するのでマアジは載り(「義不詳」も一つの記録)マグロは「カツオの類」として処理される。辞典の性格が、収録魚を決めているのです。
「アヂ=味がいいから鰺」は本当?
東雅の原文を読むと、白石は「或人說にアヂとは味也。其味の美をいふなりといへり」と紹介したうえで、万葉集の鳥「アヂ(トモエガモ)」の存在を指摘し、「詳なる事を知らず」と結論を保留しています。つまり「味」説は有力な仮説の一つですが、白石自身は断定していません。現代の辞典が断定的に書いている場合、それは原典の慎重さを省略した結果です。
なぜ江戸の辞典は鰺を「無鱗魚」に分類したの?
現代の分類学では鰺には鱗があります。江戸の博物学では「鱗が細かくて目立たない魚」や「一見鱗がなさそうな魚」を便宜上「無鱗類」として括る慣習がありました。マグロ・カツオ・サバなどの回遊魚も同じ分類に入っています。和漢三才図会の良安は「按鰺無鱗」と明記していて、これは食卓での実用的な観察に基づく分類です。
物類称呼に記録された地方名は現代にも残っている?
直接の残存は少ないですが、地方名が多様だった背景——マアジが全国で獲れる身近な魚だったこと——は現代も同じです。現代では「関アジ」「松輪アジ」「岬アジ」などのブランド名が各地で生まれており、これは江戸時代の「とつか」「こびら」「ぢんだんご」に対応する、産地アイデンティティの表れと言えるでしょう。また「むろあち→ムロアジ」は地名由来の魚名として現代まで直接継承されています。
マアジの「ぜんご」は古典籍にも記載がある?
倭名類聚抄の崔禹錫食經引用に「尾白刺相次者也」(尾が白く、刺が連なる)とあり、これがマアジの稜鱗(ぜんご=体側線上の硬い鱗の列)を指している可能性があります。和漢三才図会でも「骨刺甚微」と記述されています。ただし「ぜんご」という用語自体は、今回調べた9冊の中には見当たりませんでした。「ぜんご」の語源と初出は別途の調査課題です。
「鳥のアヂ」って本当にいたの?
万葉集では確かに「味鴨(あぢがも)」という鳥名が登場します。現代ではトモエガモ(巴鴨、学名 Sibirionetta formosa)と同定されており、奈良時代の日本人は魚の「アヂ」と鳥の「アヂ」を同じ音で呼んでいました。白石はこの同音異義を気にして、『東雅』の鰺の項で「別に義ありげむ。詳なる事を知らず」と宿題にしています。

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SAKANA 編集部

良輔 × Claude(Anthropic)

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