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魚のことば

「まな板の鯉」の語源 なぜ鯛ではなく鯉なのか江戸の台本が答えた

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この記事の目次

明治43年(1910年)刊の『諺語大辞典』で「ま」の部を引くと、見出しは「爼板ノ魚」で、鯉の項はどこにもありません。相手に運命を握られ、もうじたばたしてもしかたがないという意味の「まな板の鯉」は、手術前や試験の発表前に自分をこう呼ぶ人もいるほどなじんだ言葉ですが、その語源をさかのぼると、本筋は長いあいだ「魚」でした。辞書を引いても、まな板に載る魚なら鯛でもアジでもよさそうなのに鯉が選ばれた理由までは書いてありません。その理由を語っていたのは、江戸の上方の芝居の台本でした。

『梅園魚品図正』1帖コマ6のコイの写生図。見開きいっぱいに描かれた一匹の鯉
江戸後期の博物家・毛利梅園が写生した鯉。見開き2ページを丸ごと使い、鱗の一枚一枚まで描き込まれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』1帖・毛利梅園筆・NDL PID:1287112 コマ6・著作権保護期間満了)

手がかりは、検索の空振りから始まりました。次世代デジタルライブラリーの全文検索を古典籍に絞り、「まな板の鯉」「俎板の鯉」「俎上の鯉」で引くと、どれも0冊。「まないたの魚」で引くと、天保13年(1842年)の合巻が1冊だけ出てきます。江戸の本では、鯉ではなく魚だったのかもしれない。そう考えて、ことわざを五十音順に集めた明治の辞典から確かめることにしました。冒頭に書いた『諺語大辞典』のコマ487です。

『諺語大辞典』コマ487の見開き。「ま」の部のことわざが活字で並び、左ページに「爼板ノ魚」の項がある
『諺語大辞典』の「ま」の部。「マナイタ」と振り仮名のついた「爼板ノ魚」の項がある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『諺語大辞典』・藤井乙男編・明治43年・NDL PID:862766 コマ487・著作権保護期間満了)

明治の辞書の本項は「まな板の魚」

鯉の項がないのは、この辞書ができた1910年の時点で、ことわざの見出しがまだ「魚」だったからです。ここから、魚がいつ鯉に変わったのかを追いかけることになります。

『諺語大辞典』コマ487の「爼板ノ魚」の項と翻刻
「【爼板ノ魚】死を待つのみにて、何ともし難き喩。」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『諺語大辞典』・藤井乙男編・明治43年・NDL PID:862766 コマ487・著作権保護期間満了)
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翻刻

【爼板ノ魚】死を待つのみにて、何ともし難き喩。

現代語訳

まな板の魚。死を待つばかりで、どうしようもないことのたとえ。見出しは「鯉」ではなく「魚」。

死を待つばかりでどうしようもないことのたとえ、という意味は今と同じで、違うのは魚を鯉に限っていない点だけです。少し前の辞書も見ておくと、明治39年(1906年)の『俚諺辞典』には「爼板に鯉」の見出しがあります。ところが説明は一言で、「爼板に鯉。次の語に同じ。爼板の魚。袋の鼠に同じ。」とあるだけです(NDL PID:900343 コマ247)。

「まな板に鯉」は「次の語に同じ」とされ、その次の語が「まな板の魚」で、袋のねずみに同じ、という扱いでした。1906年の辞書は鯉の形を知っていながら、本項は「魚」に置いていたわけで、編者にとって鯉は、まだ新しい言い方として映っていたように見えます。「まな板の魚」のほうは、ずっと古くまでさかのぼれます。

千年前の辞書が引いた『史記』

平安時代の10世紀に源順が編んだ辞書『和名類聚抄』は、漢語に和名を添えた本です。「俎」の項を開くと、まな板の和名を示す前に、中国の歴史書『史記』の一節がまず引かれています。

『和名類聚抄』5巻本コマ14の見開き。写本で、箸・匙・俎などの器の項が並び、俎の項に「史記云人為刀俎我為魚肉」とある
『和名類聚抄』の器の項。右ページに「俎」の項があり、『史記』を引いて和名「末奈以太」を添える。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和名類聚抄』5巻 [3]・源順撰・写本・NDL PID:2550693 コマ14・著作権保護期間満了)
『和名類聚抄』コマ14の「史記云人為刀俎我為魚肉」と「和名末奈以太」の列と翻刻
「俎 史記云、人為刀俎、我為魚肉。俎、莊呂反、和名末奈以太。」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和名類聚抄』5巻 [3]・源順撰・写本・NDL PID:2550693 コマ14・著作権保護期間満了)
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翻刻

俎 史記云、人為刀俎、我為魚肉。俎、莊呂反、和名末奈以太。

現代語訳

俎(まないた)。『史記』にいう、人は刀と俎、我は魚肉である。俎の字音は荘呂の反切、和名は「まないた」。

『史記』にいわく、人は刀と俎、我は魚肉である、と引いてから、俎の和名は「まないた」と添える順序です。引かれているのは『史記』項羽本紀の鴻門の会で、紀元前206年、項羽の陣に招かれた劉邦が、命を狙われていることに気づいて宴を抜け出そうとする場面にあたります。挨拶をしてから帰ろうかとためらう劉邦に、家臣の樊噲が言い放った台詞がこれで、明の万暦7年(1579年)刊の『史記纂』でも確かめられます。

『史記纂』巻一コマ44の「如今人方爲刀俎我爲魚肉何辭爲」の列と翻刻
「如今人方爲刀俎、我爲魚肉、何辭爲。」鴻門の会で樊噲が劉邦に言った言葉。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『史記纂』12巻 [1]・凌稚隆校・万暦7年刊・NDL PID:2550907 コマ44・著作権保護期間満了)
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翻刻

如今人方爲刀俎、我爲魚肉、何辭爲。

現代語訳

いま相手は包丁とまな板、こちらは魚の肉だ。どうして挨拶などしていられよう。鴻門の会で樊噲が劉邦に言った言葉。

いま相手は包丁とまな板、こちらは魚の肉なのだから、どうして挨拶などしていられようか、と樊噲は言っています。まな板の上の魚は、紀元前の中国からすでに殺される側のたとえで、日本の辞書は千年前にこれを引き、江戸の本はそれを受け継ぎました。ただし、ここにはまだ魚の種類がありません。書かれているのは「魚肉」です。

江戸の本の「まな板の上」

明和4年(1767年)刊の浮世草子『今昔九重桜』には、恐ろしい場面があります。皇子が母である皇后を人質にとり、まな板に載せて天皇を脅すのです。

『今昔九重桜』巻二コマ35の「此まな板の上に置て爪さきよりてへんまで」の列と翻刻
「此まな板の上に置て爪さきよりてへんまで。」このあと、ずたずたに切り刻む、と続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『今昔九重桜』5巻 [2]・八文字自笑作・明和4年・NDL PID:2554862 コマ35・著作権保護期間満了)
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翻刻

此まな板の上に置て爪さきよりてへんまで。

現代語訳

(母である皇后を)このまな板の上に置いて、爪先から頭のてっぺんまで、ずたずたに切り刻んでやる、と脅す場面。

このまな板の上に置いて、爪先から頭のてっぺんまで、と皇子は迫ります。これはたとえではなく、本当に人をまな板に載せているのですが、まな板が、載せた相手をどうにでもできる場所の象徴として使われていることはよく分かります。

検索で1冊だけ出てきた天保13年(1842年)の合巻『隅田川月の姿見』になると、二人はまな板の魚、焼いて食おうが煮て食おうが、という台詞が出てきます(NDL PID:10301277 コマ33、OCRによる)。焼くも煮るも相手しだいという「まな板の魚」の形で、意味は今とまったく同じになっていました。

『隅田川月の姿見』コマ33の見開き。右ページに岩屋の場面、左ページに三味線を弾く女と武士の絵、周囲にくずし字の本文
『隅田川月の姿見』の見開き。絵の周りに本文が詰まり、左ページの本文に「まないたの魚」の台詞がある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『隅田川月の姿見』2編6巻・式亭小三馬作・歌川国貞画・天保13年・NDL PID:10301277 コマ33・著作権保護期間満了)

「焼いて食おうが煮て食おうが」という決まり文句は、『諺語大辞典』が「爼板ノ魚」の項で引く歌舞伎の台詞にも出てきて、まな板の魚はこの文句とセットで使われる言葉だったことが分かります。ここまでの江戸の本は、どれも「魚」のままです。

鯉が選ばれた理由を語った上方の台本

鯉が入ってくる理由は、宝暦以後の上方歌舞伎の台本『京羽二重新雛形』に書いてありました。大正5年(1916年)に国書刊行会が活字にした『徳川文芸類聚』第七で読めます。遊女のお花を身請けしようとする宅兵衛が、膳に出た鯉の洗いを見て説教を始める場面で、身請けを承知しないお花に、魚を引き合いに出して覚悟を迫ります。

『徳川文芸類聚』第七コマ90の見開き。『京羽二重新雛形』の台本が活字で組まれ、宅兵衛と花の台詞が並ぶ
『徳川文芸類聚』第七に収められた『京羽二重新雛形』。右ページの中ほどから、鯉の覚悟をめぐる宅兵衛の台詞が続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『徳川文芸類聚』第七・国書刊行会編・大正5年・NDL PID:945812 コマ90・著作権保護期間満了)
『徳川文芸類聚』コマ90の「此鯉といふうをめは、うをの中でも覺悟のよいやつ」から「どふなと被成まな板のこい」までの3列と翻刻
「此鯉といふうをめは、うをの中でも覺悟のよいやつ、まな板の上へのせるがさいご、かなわぬとくわんねんしてびくともうごかぬ、それゆへ近頃の附句にも、どふなと被成まな板のこい、よく一句がかなふたの、」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『徳川文芸類聚』第七・国書刊行会編・大正5年・NDL PID:945812 コマ90・著作権保護期間満了)
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翻刻

此鯉といふうをめは、うをの中でも覺悟のよいやつ、まな板の上へのせるがさいご、かなわぬとくわんねんしてびくともうごかぬ、それゆへ近頃の附句にも、どふなと被成まな板のこい、よく一句がかなふたの、

現代語訳

この鯉という魚は、魚の中でも覚悟のよいやつだ。まな板の上へ載せられたが最後、かなわぬと観念してびくとも動かない。それで近ごろの附句にも「どうなとなされまな板の鯉」とある。よく一句にかなったものだ。

この鯉という魚は、魚の中でも覚悟のよいやつで、まな板の上へ載せられたが最後、かなわぬと観念してびくとも動かない、それで近ごろの附句にも「どうなとなされまな板の鯉」とある――。まな板に載せると鯉は暴れないから、というのが、ここに書かれた理由です。しかも宅兵衛は、この句を「近頃の附句」と呼んでいます。附句は前句付、川柳の前身にあたる言葉遊びのことで、鯉の形はまず句の中で生まれたようです。

台詞には続きがあり、宅兵衛は今度はうなぎを指さして、「これはうなぎだそふな、こいつははなはだ覺期のわるいやつ」と言います(同コマ90)。錐を打たれても跳ね回るうなぎと、観念して動かない鯉という魚の性格の違いが、そのまま言葉の違いになっていて、人間もこの鯉のように覚悟が大事だ、と宅兵衛は話を締めくくります。

お花の返事がまた見事で、身請けされたあとは切るなり刻むなりお前の勝手だと言い捨て、最後に「どふなと被成まな板の鯉」と附句そのものを口にして奥へ入ってしまいます。同じページに、この一行も読めます。

鯉のこの見方は、のちの辞書にも残りました。『諺語大辞典』の「鯉ノ水離レ」の項です。

『諺語大辞典』コマ226の「鯉ノ水離レ」の項と翻刻
「【鯉ノ水離レ】鯉の水を離れし時は、覺悟を定めて、わるあがきせずといふ。」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『諺語大辞典』・藤井乙男編・明治43年・NDL PID:862766 コマ226・著作権保護期間満了)
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翻刻

【鯉ノ水離レ】鯉の水を離れし時は、覺悟を定めて、わるあがきせずといふ。

現代語訳

鯉の水離れ。鯉は水から離れると覚悟を決めて、悪あがきをしないという。

鯉は水から離れると覚悟を決めて悪あがきをしない、という説明で、台本とまったく同じ理屈です。同じページには、鯉は捕まっても一度跳ねるだけだという「鯉ノ一跳」の項もあり、鯉のこの性質は江戸の人にとって常識に近かったようです。

鯉には、もうひとつ格の高さもありました。寛文7年(1667年)刊の注釈書『徒然草文段抄』は、第百十八段の本文として、鯉だけは貴人の前でも切られる魚だからやんごとない魚だ、という一節を載せています(NDL PID:2562712 コマ42)。貴人の前で庖丁を披露する魚は鯉だと鎌倉時代の兼好法師が書き、江戸の注釈書がそれを広めていたわけで、まな板に載る魚の代表が鯉だという下地は、早くからできていました。覚悟のよさと格の高さの二つがそろって、まな板の上の魚は鯉になったと考えられます。

幕末の芝居で「まな板の鯉」に

嘉永7年(1854年)初演の河竹黙阿弥『都鳥廓白浪』では、酔いつぶれて眠る丑市を見て、忍ぶの惣太がこの言葉を口にします。明治27年(1894年)刊の『演劇脚本』で読めます。

『演劇脚本』第6冊コマ79の「好める酒の熟醉に横に轉りとまな板の鯉のせうぞん」の列と翻刻
「好める酒の熟醉に横に轉りとまな板の鯉のせうぞん、一ト料理ドレ作り身に掛らふか」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『演劇脚本』第6冊・吉村新七著・明治27年・NDL PID:876852 コマ79・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

好める酒の熟醉に横に轉りとまな板の鯉のせうぞん一ト料理ドレ作り身に掛らふか

現代語訳

好きな酒に酔いつぶれて横にごろりと転がった、まな板の鯉のような所存。ひとつ料理して、どれ刺身にでもしてやろうか。忍ぶの惣太が眠った丑市を見て言う台詞。

好きな酒に酔いつぶれ、横にごろりと転がった、まな板の鯉のような所存だから、ひとつ料理して刺身にでもしてやろうか、という台詞で、眠った相手を鯉に見立てています。この直後、惣太は丑市を殺して懐の巻物を奪うので、台詞どおりの筋運びです。

この芝居の「まな板の鯉」が江戸の芝居の言葉として広まり、明治の小説に受け継がれていきました。全文検索を古典籍以外に広げると、「俎板の鯉」は明治39年(1906年)の小説から現れ、大正にかけて増えていきます。1910年の辞書が「魚」を本項にしたのは、ちょうどその切り替わりの途中だったことになります。

「魚肉」から「鯉」までの道のり

紀元前の『史記』項羽本紀では「人方爲刀俎、我爲魚肉」で、魚肉であって鯉ではありません。10世紀の『和名類聚抄』は「俎」の項でこれを引いて和名「末奈以太」を添え、1667年の『徒然草文段抄』は鯉だけは貴人の前でも切られる魚だとし、1767年の『今昔九重桜』は「此まな板の上に置て爪さきよりてへんまで」と人をまな板に載せました。宝暦以後の『京羽二重新雛形』に「鯉は覺悟のよいやつ」「近頃の附句にも、どふなと被成まな板のこい」が出て、1842年の『隅田川月の姿見』はまだ魚、1854年の『都鳥廓白浪』で「横に轉りとまな板の鯉のせうぞん」となります。辞書のほうは、1906年の『俚諺辞典』が「爼板に鯉。次の語に同じ。爼板の魚。」、1910年の『諺語大辞典』の見出しは「爼板ノ魚」でした。

「まな板の鯉」の語源は、『史記』の「刀俎と魚肉」までさかのぼる「まな板の魚」で、江戸の本も明治の辞書も、本筋は「魚」です。それが鯉になったのは、まな板に載せられると観念して動かない鯉の性格を、上方の台本が「覚悟のよい魚」と呼び、附句が「どうなとなされまな板の鯉」と詠んだからでした。跳ね回るうなぎでは、この言葉は生まれていません。

この記事でわかったこと

  • 中国の『史記』項羽本紀にある「人方爲刀俎、我爲魚肉」(相手は包丁とまな板、こちらは魚の肉)が元です。

    10世紀の『和名類聚抄』が「俎」の項でこの一節を引き、和名「まないた」を添えています(NDL PID:2550693 コマ14)。江戸の本では「まな板の魚」の形で使われ、明治43年の『諺語大辞典』も見出しは「爼板ノ魚」です(NDL PID:862766 コマ487)。

  • 江戸の上方歌舞伎の台本『京羽二重新雛形』が理由を語っています。

    鯉は魚の中でも覚悟のよい魚で、まな板に載せられると観念してびくとも動かない、だから附句に「どうなとなされまな板の鯉」と詠まれた、と(『徳川文芸類聚』第七、NDL PID:945812 コマ90)。同じ台詞は、錐を打たれても跳ね回るうなぎを「覚悟の悪いやつ」と対比しています。

  • 鯉の形は江戸中期以降の附句と台本に見え、嘉永7年(1854年)初演の黙阿弥『都鳥廓白浪』に「横に轉りとまな板の鯉のせうぞん」という台詞があります(『演劇脚本』第6冊、NDL PID:876852 コマ79)。辞書では明治39年の『俚諺辞典』が「爼板に鯉」を立てつつ「次の語(爼板の魚)に同じ」としており(NDL PID:900343 コマ247)、鯉に固定したのは明治以降です。

この記事で開いた原本

どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。

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