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浅草海苔の由来は浅草で売ったから——採れたのは大森の海だった

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この記事の目次

天保十五年(1844年)刊の『広益国産考』は、浅草海苔について、浅草海苔とは呼ぶけれども実際は品川から一里ほど西の大森の海で採っていて、浅草で売るからその名があるのだろう、と書いています。おにぎりや巻き寿司に巻く乾海苔の一般名として、いまも商品名に使われる「浅草海苔」の由来は、産地ではなく売り場の名でした。国芳の絵に描かれた、海に林のように立つ木は、その大森の海で海苔を育てるために挿したものです。

海に林のように立ち並ぶ木と、そのあいだの水路を進む舟。舟の上の人物が木に手を伸ばしている
海の中に木が林のように立ち並び、そのあいだの水路を小舟が進む。舟の二人のうち一人は木に手を伸ばし、舟には笊(ざる)がいくつも積まれている。この木が、海苔を付けるために海へ挿した「麁朶(そだ)」。
出典:歌川国芳筆「東都名所・大森」東京国立博物館蔵(ColBase、CC BY 4.0) https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-851

『広益国産考』巻六の海苔の項

次世代デジタルライブラリーで「海苔」を引くと、古典籍だけで千冊を超えます。そのなかで海苔の作り方を最初から最後まで書いていたのが、大蔵永常(おおくらながつね)の『広益国産考(こうえきこくさんこう)』でした。産物ごとに作り方を並べた全八巻の本で、海苔は巻六に入っていて、項の最初のページには束ねた木と道具の図が載っています。

『広益国産考』巻六の海苔の項。左ページの下半分に道具の図が2つ入る
右ページは海苔を付ける場所の条件。左ページ下に、束ねた麁朶の図と、砂に穴をあける道具の図が並ぶ。ページ端の柱は「国産考 巻六」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ17・著作権保護期間満了)

その項を読み進めると、名前についての三行に行き当たります。

「浅草海苔」は、浅草では採れない

「浅草海苔」の名の由来を記した三行、赤枠と翻刻
赤枠は該当箇所。「浅草海苔」「品川」「大森」「麁朶」にそれぞれ振仮名が付いている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ19・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

○浅草海苔(あさくさのり)と称(しやう)すれ共(ども)、品川(しながは)より壱里程西(ほどにし)、大森(おほもり)の海(うみ)に麁朶(そだ)をさして取(とり)、浅草(あさくさ)にてひさぐゆゑ、浅草(あさくさ)のりと称(しやう)すなるべし

現代語訳

「浅草海苔」と呼ばれてはいるけれども、実際は品川から一里ほど西の大森の海に麁朶(そだ)を挿して採り、浅草で売る(ひさぐ)ので「浅草のり」と称するのだろう。

「浅草海苔と称すれ共、品川より壱里程西、大森の海に麁朶をさして取、浅草にてひさぐゆゑ、浅草のりと称すなるべし」。「ひさぐ」は売るという意味の言葉で、大森の海に麁朶(そだ)を挿して採ったものを浅草で売るから、浅草のりと言うのだろう、と永常は推しています。産地の名ではなく、売り場の名だったわけです。

「浅草にて」と「ひさぐゆゑ」の大写し
右は「浅草にて」(「浅草」に振仮名「あさくさ」)、左は次の行の頭の「ひさぐゆゑ」。行をまたいで続く二か所を切り出し、右から並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ19・著作権保護期間満了)

流木に付いた海苔から始まった

浅草が売り場になったいきさつは、江戸の地誌『御府内備考』(国立国会図書館の書誌名は『府内備考』、三島政行・神谷信順編の写本)に写された由緒書に出てきます。浅草・雷神門(雷門)前の広小路に住む海苔商、正木四郎左衛門の家のものです。

『御府内備考』の写本。前のコマから続く浅草の海苔商の由緒で、右ページ一行目は「寛永之末」で始まる
行書で書かれた写本。右ページ一行目に「寛永之末」、三行目に「大森品川」、五行目に「自然浅草海苔と唱候由」が読める。町名と正木四郎左衛門の名を記した由緒書の書き出しは、前のコマ73にある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『府内備考』巻16-17・NDL PID:2553668 コマ74・著作権保護期間満了)

くずし字で一字読み取れない箇所があるので、読めた範囲で要旨をまとめると、寛永の末に葛西・中川の海で流木などに付いた海苔を掻き取り、それを浅草で干し立てて、植木商いをしながら売り広めた。後年、大森・品川の海の中に木を建てて海苔を採るようになり、元禄・宝永の頃から大いに広まって商売も大きくなり、自然と「浅草海苔」と唱えるようになった、という趣旨の記述です。

「自然浅草海苔と唱候由」の大写し
右ページ五行目の後半「自然浅草海苔と唱候由」。一行を「自然浅草」(右)と「海苔と唱候由」(左)の二つに分けて、右から並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『府内備考』巻16-17・NDL PID:2553668 コマ74・著作権保護期間満了)

拾ってくるものから育てるものへ、という変わり目が、この由緒書のなかでは一行に畳み込まれています。浅草で干して売っていた海苔の名が、産地が大森・品川へ移ったあとも残った、という筋で、『広益国産考』の推量ともよく合います。

楢の木を、海に植える

育て方は、『広益国産考』が細かく書いています。まず場所で、内海の清らかな砂地で、大風雨のときに脇から砂が寄せてこないところ、遠浅で引潮のときに水深が二尺ほど、満潮のときには挿した木の先が水に浸る、そういう土地を見立てよ、とあります。

木は楢(なら)で、根元がひと握りほど、枝がよく付いて丈五、六尺のものを伐り、葉を残らずむしって四、五本ずつ根元を揃えて縛り、根元の二尺ほどを先細りに削ったものを、十月ごろまでに数多く拵えておく。この束が、巻六の海苔の項の最初のページ(コマ17)の図です。

図の説明書き「楢木の麁朶海へさすやうくゝりたる図」「海中の砂へ麁朶をさす穴をあくる具」の大写し
右は束ねた木の図の説明書き「楢木の麁朶海へ/さすやうくゝりたる図」、左は道具の図の説明書き「海中の砂へ麁朶をさす/穴をあくる具」。どちらも「麁朶」に振仮名「そだ」がつく。ページ上の並びのまま、右から並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ17・著作権保護期間満了)

図の説明書きは「楢木の麁朶 海へさすやう くゝりたる図」、隣の道具の図には「海中の砂へ麁朶をさす 穴をあくる具」とあって、束ねた木と、砂に穴をあける道具が並んでいます。挿すときは、潮が引いたころを見計らって舟で漕ぎ出し、舟が通れるだけの間をあけ、畑の畝を立てたように並べていきます。穴は道具を足で踏み込んで引き抜いてあけ、そこへ根元を挿し込むのだそうで、その場面が次のページ(コマ18)に絵になっています。

『広益国産考』巻六。右ページに、舟から麁朶を海へ挿し込む図と、引き潮の浅瀬の遠景
右ページ下段は「麁朶をさし込図」。舟の上で、ひとりが束ねた麁朶を抱えて海へ挿し込み、ひとりが長い棒を持って立ち、手前にもうひとりが身を乗り出している。上段の遠景には「引汐の時」「海苔を」と読める添え書きがあり、麁朶の立ち並ぶ浅瀬に人の姿が小さく描かれている。左ページには、足で踏み込んで砂に穴をあけ、そこへ麁朶の根元を挿すやり方が書かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ18・著作権保護期間満了)

冒頭の国芳の絵で海に立ち並んでいた木は、こうして植えられたものでした。「十月より海苔付初る」、十月から海苔が付きはじめ、寒中の海苔を極上とし、春三月までは付くけれども、暖かくなると色も味も落ちる、と書かれています。

海の区画に運上がかかっていた

江戸の海苔には、技術とは別に制度の側面もありました。『広益国産考』は浦の家々に持場があって海中の地面を割ってあると書いていて、海面が区画されていたことが分かります。その区画が、江戸の町ごとの書き上げを集めた『町方書上』の品川の巻に、公の記録として残っています。

『町方書上』品川の巻の、海苔ひびと運上の記述、赤枠と翻刻
赤枠は該当箇所。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『町方書上』品川寺社門前町方書上・NDL PID:2571525 コマ39・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

一、町内地先海面江起立不相分、海苔ひゝと唱、秋彼岸前後、其年ゝ気候ニ随ひ旬を撰、麁朶相建稼来り候処、延享三寅年ゟ拾ヶ年季請、御運上御上納仕来り申候。右海苔之儀ハ秋土用後ゟ追ゝ生し、十月下旬ゟ取揚、製方致候儀ニ御座候

現代語訳

一、町の地先の海面に、いつ始まったかは分からないが「海苔ひび」と呼んで、秋の彼岸の前後、その年の気候にあわせて時期を選び、麁朶(そだ)を建てて稼いできた。延享三年(1746年)からは十ヶ年季の請負として運上(税)を上納している。この海苔は秋の土用のあとから次第に生え、十月下旬から採り上げて製造している。

「町内地先海面江起立不相分、海苔ひゝと唱」、町の地先の海面に、いつ始まったかは分からないが「海苔ひび」と呼んで、と始まり、「延享三寅年ゟ拾ヶ年季請、御運上御上納仕来り申候」、延享三年(1746年)から十ヶ年季の請負として運上を上納している、と続きます。海の一区画が課税の対象になっていて、海苔は拾うものでも獲るものでもなく、運上を納める産物になっていました。採る時期も同じ書き上げに「秋土用後ゟ追ゝ生し、十月下旬ゟ取揚、製方致候儀ニ御座候」と出てきて、『広益国産考』の「十月より海苔付初る」と一致しています。

採って、叩いて、漉く

採り方と作り方も、『広益国産考』にそのまま書いてあります。十分に付いたと思うころ、小舟に二人乗り、一人が棹をさし、一人が笊を左手に持って右手で麁朶の枝々に付いた海苔を摘んでは笊に入れる。持ち帰ったら俎(まないた)の上でごみを取り除いて包丁の刃で少し叩き、四斗樽ほどの桶に清水を入れて竹の棒でかき混ぜる。棚に簀(す)を置き、その上に枠を置いて、升で桶の中の海苔をすくって枠のなかへさっと打ち明けると、水は簀の下に漏れ、海苔だけが簀に残ります。

『広益国産考』巻六。升で海苔を枠へ打ち明ける人物と、日に干す台の図
右ページ下段に、桶の脇で升を傾けて海苔を枠へ打ち明ける人物と、簀を立てかけて日に干す台が描かれている。上段の本文には、乾き上がったら取り入れ、板を重ねて重しを置き、十枚を一帖として二つに折る、とある。長く貯えるには渋紙を張った大きな壺に入れて封じておけば、夏を越しても色が変わらないと書かれている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『広益国産考』巻六・NDL PID:2556839 コマ20・著作権保護期間満了)

簀の上に枠を置き、升で汲んで、さっと流す。いまの板海苔の作り方と、骨格は変わりません。

大森・品川の海苔場は、いまはありません。東京湾の港湾整備計画に応じて昭和三十七年(1962年)に漁業権の放棄が決まり、翌年の収穫を最後に、大森の海苔づくりは江戸から数えて約三百年で終わりました。浅草で売られたから付いた名前だけが、産地が消えたあとも乾海苔の呼び名として生き延びていて、天保の本が「浅草にてひさぐゆゑ、浅草のりと称すなるべし」と書き留めておいてくれたおかげで、その理由はいまも読むことができます。

この記事でわかったこと

  • 『広益国産考』巻六(天保十五年刊)が「浅草海苔と称すれ共、品川より壱里程西、大森の海に麁朶をさして取、浅草にてひさぐゆゑ、浅草のりと称すなるべし」と書いています。

    「ひさぐ」は売るという意味で、産地ではなく売り場の名だという説明です。『御府内備考』に写された浅草の海苔商の由緒書も、浅草で干して売り広めるうちに自然と「浅草海苔」と呼ばれるようになった、という趣旨を記しています。

  • 海苔を付けるために海へ挿す木のことです。

    『広益国産考』によれば、楢(なら)の木で根元がひと握りほど、枝がよく付いて丈五、六尺のものを伐り、葉をむしって四、五本ずつ束ね、根元を先細りに削って使います。潮が引いたころに舟で運び、舟が通れる間隔をあけて、畑の畝のように並べて砂へ挿しました。同書には「楢木の麁朶 海へさすやう くゝりたる図」と「海中の砂へ麁朶をさす 穴をあくる具」の二つの図が添えられています。

  • 『町方書上』の品川の巻に、地先の海面を「海苔ひび」と呼んで麁朶を建て、延享三年(1746年)から十ヶ年季の請負として運上(税)を上納してきた、と書かれています。

    海苔は秋の土用のあとから生え、十月下旬から採り上げて製造したことも同じ書き上げに記されています。

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