鮭を殖やす「種川」は宝暦に始まったのか——三面川と青砥武平次
この記事の目次
江戸時代の越後、三面川(みおもてがわ)には、のぼってきた鮭を川の一区画で止めて産卵させる「種川(たねかわ)」という仕掛けがあり、明治の報告書はこれを、宝暦年間に村上藩が家臣の青砥武平次に命じて設けたものと書いています。ところが同じ明治に書かれた石碑の碑文は、話の順序が少し違っていて、種川を置いたのは青砥が働いたあとの藩主だと読めます。たどれたのはこの二つの明治の資料までで、江戸時代に書かれた文書そのものには行き着けていません。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻二・NDL PID:1287113 コマ35・著作権保護期間満了)
生まれた川へ帰って産卵して死ぬという鮭の性質を、人の手で殖やすことに使う考えは、この川では少なくとも明治の記録が語る宝暦のころまでさかのぼります。碑の写真は、昭和のはじめに出た郷土史に載っています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『村上郷土史』・NDL PID:1178732 コマ125・著作権保護期間満了)
明治の報告書の第五章
活字で組まれた明治の本は文字認識がよく効くので、国立国会図書館デジタルコレクションを「種川」で引くと、明治二十五年(1892年)に松原新之助の編で出た『北越河魚調査報告』がすぐに出てきました。越後の川魚を調べた報告書で、魚価の統計が終わったところから第五章が始まります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『北越河魚調査報告』・NDL PID:842772 コマ36・著作権保護期間満了)
章の見出しは「種川及ビ禁漁ノ方法」で、種川と、漁を禁じるやり方を一つの章にまとめています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『北越河魚調査報告』・NDL PID:842772 コマ36・著作権保護期間満了)
本文は、種川とは何かの定義から入ります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『北越河魚調査報告』・NDL PID:842772 コマ36・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
第五章 種川及ビ禁漁ノ方法種川ハ鮭ノ産卵ニ適スル塲所ヲ撰ビ、上流ヲ遮リテ流水ノミヲ通シ、鮭ノ泝上ヲ止メ、且他ノ妨害ヲ防ギ、此ニ安全ナル産卵ヲ為サシムルノ方法ナリ。本邦種川ノ制ハ宝暦年間、即チ今ヲ距ル百数十年前、越後三面川ニ於テ之ヲ設ケタルヲ嚆矢トス。此制ハ当時村上藩主内藤豊前守信敦公、其家臣青砥武平次ニ命シ、鮭蕃殖ノ目的ヲ以テ之ヲ設ケリ。然ルニ此種川ハ近来欧米諸国ニ
現代語訳
第五章 種川および禁漁の方法。種川とは、サケの産卵に適した場所を選び、上流をせき止めて水だけを通し、サケがそれ以上さかのぼるのを止め、そのほかの妨害も防いで、そこで安全に産卵させる方法である。日本の種川の制度は、宝暦年間(1751〜64年)、いまから百数十年前、越後の三面川に設けられたのが最初である。この制度は、当時の村上藩主・内藤豊前守信敦公が、家臣の青砥武平次に命じ、サケを殖やす目的で設けたものである。ところがこの種川は、近ごろ欧米諸国で行われているもの(産卵禁漁場)と——
「種川ハ鮭ノ産卵ニ適スル塲所ヲ撰ビ、上流ヲ遮リテ流水ノミヲ通シ、鮭ノ泝上ヲ止メ、且他ノ妨害ヲ防ギ、此ニ安全ナル産卵ヲ為サシムルノ方法ナリ」。産卵に向いた場所を選んで上流をせき止め、水だけを通して鮭がそれ以上のぼれないようにし、ほかの邪魔も防いでそこで安全に産卵させる、という定義です。卵を採って孵す方法ではなく、川の一区画を産卵専用にして、そこを守る方法だったことが分かります。
宝暦の三面川、青砥武平次
定義に続けて、起源が書かれています。「本邦種川ノ制ハ宝暦年間、即チ今ヲ距ル百数十年前、越後三面川ニ於テ之ヲ設ケタルヲ嚆矢トス」。宝暦年間は1751年から1764年で、三面川はいまの新潟県村上市を流れる川です。そして「此制ハ当時村上藩主内藤豊前守信敦公、其家臣青砥武平次ニ命シ、鮭蕃殖ノ目的ヲ以テ之ヲ設ケリ」と、藩主が家臣の青砥武平次(あおと ぶへいじ)に命じ、鮭を殖やす目的で設けたとしています。報告書の書き方はここまでで、碑文は同じ話を少し違う順序で語っていますが、その前に、碑文にしか書かれていない仕掛けの具体を読んでおきます。
碑が書きとめた、川の仕掛け
碑文は、昭和六年(1931年)に村上本町教育会がまとめた『村上郷土史』に、漢文のまま収められています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『村上郷土史』・NDL PID:1178732 コマ125・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『村上郷土史』・NDL PID:1178732 コマ125・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
乃命規芝居股若干町、竪密柵以横截中流、排列竹簀遏魚、而使産卵柵内、謂之種川、厳立村規制、以禁捕魚、於是魚苗歳増、
現代語訳
そこで芝居股の何町かを区切るよう命じ、目の詰んだ柵を立てて流れの中ほどを横切らせ、竹の簀を並べて魚をせき止め、柵のなかで産卵させるようにした。これを「種川」という。村の掟を厳しく立てて、魚を獲ることを禁じた。こうして稚魚は年ごとに増え——
「乃命規芝居股若干町、竪密柵以横截中流、排列竹簀遏魚、而使産卵柵内、謂之種川、厳立村規制、以禁捕魚」。芝居股の何町かを区切り、目の詰んだ柵を立てて流れの中ほどを横切らせ、竹の簀を並べて魚をせき止めて柵のなかで産卵させる。これを種川といい、村の掟を厳しく立てて魚を獲ることを禁じた、という一節です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『村上郷土史』・NDL PID:1178732 コマ125・著作権保護期間満了)
芝居股は、碑文の冒頭で、三面川が枝分かれした流れの一つとして名前が出てきます。柵と簀で流れをふさぎ、のぼってきた鮭をそこで止めれば、止められた場所がそのまま産卵場になるので、報告書の定義にあった、上流をせき止めて水だけを通すというやり方と同じ仕組みを言っていることになります。見落とせないのは引用の後半で、仕掛けだけでは足りず、禁漁の掟がセットになっていました。技術と村の決まりの両方があって、はじめて成り立つ制度だったのです。
鮭の一年が、月ごとに書かれている
碑文は、仕掛けの説明に入る前に、鮭という魚の性質を書いています。鮭は九月に海から川に入り、冬のあいだは砂や石のあいだに宿り、二月の末に孵化して形をなし、五月には二寸ほどになって海に入り、しだいに大きくなってまた川に入る、十一月・十二月が漁の時期である、という内容です。産卵から降海までの流れが月まで添えて押さえられていて、この魚が毎年どこで何をするかが分かっていなければ、川の一区画を産卵場として囲うという発想は出てこなかったはずです。
欧米と並べられた越後の川
明治になって、この制度は思わぬ扱いを受けます。『北越河魚調査報告』は種川の説明のあとで、この種川は近ごろ欧米諸国で行われている産卵禁漁場とほとんど目的を同じくする、と続けていて、江戸の地方の制度を、同時代の欧米の資源管理と並べています。碑文にも同じ調子の一節があり、明治十四年の博覧会で一等賞詞を賜ったときの評として、「不特本邦養魚模範、示之欧米諸国、応無愧矣」、日本の養魚の模範であるだけでなく、欧米諸国に示しても恥じることはないだろう、と記されています。
碑文では、種川を置いたのは「のちの藩主」
報告書は、宝暦年間に藩主が青砥武平次に命じて種川を設けたと書いていましたが、碑文の順序はこれと違います。碑文はまず、藩主「綜理公」が漁に力を入れ、種川を置いた話を書き、青砥武平次はそのあと、「先是」、これより先に、という言葉で登場します。藩士の青砥は才覚があって早くから魚を育てる方法に心を用いており、藩はそれを見込んで事にあたらせ、功によって禄を七十石に増した、とあって、次の一文が続きます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『村上郷土史』・NDL PID:1178732 コマ125・著作権保護期間満了)
「事盖宝暦明和間後綜理公之置種川、頗資其遺法云」。青砥の働きは宝暦・明和のころのことだろう、のちに綜理公が種川を置いたとき、その遺した方法に大いに頼ったという、と読めます。報告書では宝暦は種川が始まった年代でしたが、碑文では宝暦・明和は青砥が働いた年代で、種川を置いたのはそのあとの藩主です。碑文は藩主を「綜理公」と呼ぶだけで実名を挙げておらず、報告書の内藤豊前守信敦公と同じ人を指すのかどうかは、この二つの資料からは決められません。
どこまでが確かか
ここまで読んだのは、明治二十五年の報告書と明治に書かれた碑文で、宝暦の当事者が書いた文書ではありません。しかも二つは同じ話を同じようには書いておらず、報告書は種川の始まりを宝暦に置き、碑文は宝暦・明和を青砥の働いた時期として、種川はのちの藩主が置いたと読める書き方をしています。確かに言えるのは種川の始まりそのものではなく、明治の人たちが三面川の種川をそれぞれこう記録した、ということまでです。
それでも重なるところはあって、どちらも種川の源に青砥武平次を置き、欧米と並べて誇れるものとして書いています。明治の博覧会が越後の川の一区画を「養魚の模範」と呼んだこと自体が、当時の評価を伝える記録として残っています。
この記事でわかったこと
サケの産卵に適した場所を選び、上流をせき止めて水だけを通し、サケがそれ以上さかのぼるのを止め、そのほかの妨害も防いで、そこで安全に産卵させる方法です。
『北越河魚調査報告』(明治25年刊、NDL PID:842772)コマ36の定義によります。卵を採って人工的に孵化させるのではなく、川の一区画を産卵専用の場として囲い、村の掟で漁を禁じて守る、という仕組みでした。
『北越河魚調査報告』(明治25年刊、NDL PID:842772 コマ36)は「本邦種川ノ制ハ宝暦年間、即チ今ヲ距ル百数十年前、越後三面川ニ於テ之ヲ設ケタルヲ嚆矢トス」と記しています。
宝暦年間は1751年から1764年、三面川はいまの新潟県村上市を流れる川です。一方、『村上郷土史』(昭和6年刊、NDL PID:1178732 コマ125)が収める「村上種川碑」の碑文は、宝暦・明和のころに藩士の青砥武平次が魚を育てる方法に力を尽くし、のちに藩主の綜理公が種川を置いたときにその方法を大いに用いた、という順序で書いています。どちらも明治以降の資料で、宝暦当時に書かれた文書そのものには到達していません。
村上藩の藩士で、種川の源になった人物として記録されています。
『北越河魚調査報告』は藩主が「其家臣青砥武平次ニ命シ」種川を設けたとし、「村上種川碑」の碑文は、藩士・青砥綱義(通称・武平次)がかねて魚を育てる方法に心を用いており、藩がそれを見込んで事にあたらせ、功により禄を七十石に増した、という趣旨を記しています。碑文ではさらに、その働きは宝暦・明和のころのことで、のちに藩主が種川を置いたときにその遺した方法が大いに役立った、とされています。
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