鯛の養殖は江戸では「生かす」技術だった——活鯛納人という職業
この記事の目次
天保九年(1838年)、周防の阿知須浦(あじすうら)の人々は、渚の恵比須宮に寄進した石燈籠に「養鯛」の二字を彫りました。江戸時代に鯛の養殖があったかといえば、卵からかえして育てる技術はまだありませんが、江戸の記録には、それとはまったく別の意味の「養」が出てきます。獲った鯛を、生きたまま何か月も持たせる技術で、石燈籠の二字が指していたのも、育てることではなく死なせないことでした。いまスーパーの切り身に「養殖」と書いてあるのは見慣れた光景で、日本で養殖されている魚を国が数えるとき、ぶり類に次ぐのがまだいですが、祝いの魚を生かしておく苦労は、江戸ではそれだけで記録に残る出来事だったのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚尽錦絵』・NDL PID:2537533 コマ4・著作権保護期間満了)
手がかりは、国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」で「活鯛」、生きた鯛という熟語を引いたときに出てきた二つの資料で、ひとつは西国の浦の記録、もうひとつは江戸の役所の帳面と、まるで毛色が違います。
巡見使のために鯛を四か月生かす
西国のほうは、周防国(いまの山口県東部)の各地を書き上げた大部の写本『周防国風土記』で、その阿知須浦の項に記録があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『周防国風土記』273巻[34]・NDL PID:2560833 コマ77・著作権保護期間満了)
行書で書かれた見開きの右ページに、巡見使への鯛の用意と大風雨の顛末が書かれ、左ページには恵比須宮へ奉納した石燈籠の銘文が一字下げで写されていて、一つの出来事の記録と、それを記念した銘が、同じ見開きに並んでいます。
幕府が諸国に派遣する巡見使が回ってくる年で、その通行にあたって、浦は活鯛の用意を命じられました。記録はこれをその年かぎりの話としては書いておらず、昔から巡見の上使が通るたびに阿知須浦へ活鯛の用意が申し付けられてきた、という書き出しで始めているので、浦にとっては代々くり返されてきた御用だったことが分かります。
浦の人々は、岩屋の場から二丁(およそ二百メートル)南の海中に竹の簀船(すぶね)を浮かべ、そこに鯛を生かしておくことにしました。竹を編んだ檻のような船を海に浮かべ、獲った鯛を入れておくやり方です。その年の五月、事件が起きます。
大風雨の夜の簀船
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『周防国風土記』・NDL PID:2560833 コマ77・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
五月廿六日の夜大風雨にて、大小船数多渚へ打寄破損仕候得共、簀船活鯛共に少も不損。六月炎天に御用の節、鮮鯛百弐拾六枚差出申候。誠に此活鯛の場所
現代語訳
五月二十六日の夜、大風雨で大小の船が数多く渚へ打ち寄せられて壊れたけれども、簀船(すぶね)も中の活鯛も少しも損なわれなかった。六月の炎天のさなか、御用の日に、鮮鯛を百二十六枚差し出した。まことにこの活鯛の場所は——。
「五月廿六日の夜大風雨にて、大小船数多渚へ打寄破損仕候得共、簀船活鯛共に少も不損」。
大風雨で大小の船が数多く渚へ打ち寄せられて壊れたのに、簀船も中の活鯛も少しも損なわれなかった、というのです。そして「六月炎天に御用の節、鮮鯛百弐拾六枚差出申候」、六月の炎天のさなか、御用の日に鮮鯛を百二十六枚差し出しました。
二月から六月まで、四か月あまりを海に浮かべた竹の檻で生かしつづけたことになり、しかも最後は真夏の入り口です。冷蔵も酸素を送る道具もなく、潮の流れがそのまま生命線で、時化が来れば仕掛けごと持っていかれる。だからこそ、大風雨のあとも簀船と鯛が無事だったことが、特筆すべき出来事として書き留められています。
石燈籠の銘と、本文の数字
浦の人々はこれを神の加護と考えて、渚の恵比須宮に石燈籠を寄進し、その銘を『周防国風土記』が書き写しています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『周防国風土記』・NDL PID:2560833 コマ77・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
天保戊戌、朝使巡見之年、奉官命養鯛於岩屋西太水場磯二丁、自二月至六月無風潮害、應命之日潑剌鮮美、不減定額百二十尾、敬捧明燈以報神德
現代語訳
天保戊戌(天保九年・1838年)、幕府の巡見使が回ってきた年。官命を奉じて、岩屋の西、太水場の磯二丁で鯛を養った。二月から六月まで風や潮の害はなく、命に応じた日には、生き生きとして鮮やかであった。定めの数である百二十尾を欠かすことがなかった。つつしんで燈明を捧げ、神の徳に報いる。
銘は「天保戊戌、朝使巡見之年、奉官命養鯛於岩屋西太水場磯二丁」と始まります。天保戊戌が天保九年で、官命を奉じて、岩屋の西の太水場の磯二丁で鯛を養った、という一文の中に、「養鯛」の二字が刻まれています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『周防国風土記』273巻[34]・NDL PID:2560833 コマ77・著作権保護期間満了)
続けて「自二月至六月無風潮害、應命之日潑剌鮮美、不減定額百二十尾」、二月から六月まで風や潮の害はなく、命に応じた日には潑剌として鮮やかで、定めの数である百二十尾を欠かさなかった、と刻んでいます。本文のほうで御用の日に差し出したのは百二十六枚でしたから、定めを六枚上回っていて、銘の言葉を本文の数字が裏づけている格好です。四か月生かしきったことを、浦は「敬捧明燈以報神德」、つつしんで燈明を捧げて神の徳に報いる、と奉納で記念しました。
江戸の帳面にあった「活鯛納人」
もうひとつの資料は『肴納人調(さかなのうにんしらべ)』で、江戸の役所が魚を納める業者について調べ上げた帳面です。コマ105は、本材木町三丁目の三郎兵衛が、病気のため跡目を息子の三十郎に譲りたいと願い出た書面で、その末尾の肩書きに、聞き慣れない言葉がありました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ105・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ105・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
活鯛納人埋立地請負人本材木町三町目
現代語訳
活鯛納人(いけだいのうにん)。埋立地請負人。本材木町三丁目——願書の差出人の肩書きとして、「生きた鯛を納める人」がそのまま職名になっている。
「活鯛納人」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ105・著作権保護期間満了)
生きた鯛を納める人が、そのまま職名になっています。同じ人物は「埋立地請負人」も兼ねていて、願書の末尾に二つの肩書きが並んでいます。
問屋と囲所と助成金
同じ帳面をめくると、生きた鯛にかかわる仕組みが次々に出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ66・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ66・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
小田原町活鯛活鯉問屋御膳御次御肴直御買上受負申付候に付、壱ヶ年勤金五拾両被下之鯉屋 藤左衛門
現代語訳
小田原町の活鯛・活鯉問屋。将軍の御膳と御次の御肴を直に買い上げる御用(御肴直御買上)を請け負わせるにあたり、一年につき勤金五十両を下される。鯉屋藤左衛門。
コマ66は、将軍の御膳・御次に納める魚類の御肴の御用を、どの業者に請け負わせるかを吟味した書き上げで、左ページに問屋の町名と商い、一年の勤金、屋号と名が並びます。「小田原町 活鯛活鯉問屋」は生きた鯛と生きた鯉を扱う問屋で、名は鯉屋藤左衛門、将軍の御膳と御次に納める御用を請け負わせるにあたって「壱ヶ年勤金五拾両被下之」、一年につき勤金五十両が下されています。生きた魚を城に納めることが、年五十両の給付に値する仕事だったわけです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『肴納人調』第1冊・NDL PID:2587566 コマ80・著作権保護期間満了)
年次の記録には、さらに具体的な言葉が並びます。万延二年(1861年)三月には「活鯛助成金」の取扱人の交代にかかわる件、文久元年三月には「活鯛網人」の三郎兵衛にかかわる「活鯛囲所」の補修の件があり、この三郎兵衛は、本材木町三丁目・利兵衛地借という同じ肩書きで、コマ105の「活鯛納人」の願書にも名が出ています。活鯛囲所は、名のとおり活鯛を入れておく囲い、つまり生簀で、その補修までが役所の帳面に載り、助成金という言葉まで出てくるのです。網人、囲所、納人、問屋、助成金と、生きた鯛をめぐる言葉が一冊にこれだけ並んでいます。
生かすことと育てること
周防の浦が竹の簀船で四か月生かしたのと、江戸が囲所と納人と助成金で仕組みを組んだのは、同じ難題の裏表で、冷蔵も輸送もない時代に鯛を生きたまま届けることを、それぞれのやり方で解いていました。いま国の統計が数える海面養殖の魚種にまだいがあり、卵からかえして稚魚を育て、出荷するところまでを人の手でやっていますから、江戸の「養鯛」とは中身がまるで違います。
それでも言葉としては地続きで、四か月ぶん死なせずにおくという、ただそれだけの技術が、当時は公金と職名と神への奉納を伴うだけの重さを持っていました。周防の浦は大風雨の夜に簀船の鯛が無事だったことを神の徳として石に刻み、江戸の役所は囲所の補修の件を帳面に書き留めていて、同じ難題に片方は祈りで、片方は制度で応えています。
この記事でわかったこと
卵からかえして育てる意味での養殖は確認できません。
本記事で読んだ二つの資料が記録しているのは、獲った鯛を生きたまま保つ「畜養」です。周防の阿知須浦は竹の簀船を海に浮かべて二月から六月まで鯛を生かし、江戸には「活鯛納人」「活鯛網人」「活鯛活鯉問屋」といった職と、生簀にあたる「活鯛囲所」がありました。
生きた鯛を幕府に納める役を負った人のことです。
『肴納人調』第1冊(NDL PID:2587566)コマ105の願書末尾に、差出人の肩書きとして「活鯛納人 埋立地請負人 本材木町三町目」と書かれています。同じ帳面のコマ66には、小田原町の「活鯛活鯉問屋」鯉屋藤左衛門が御膳・御次の御用を請け負い、一年につき勤金五十両を下されたことが記されています。
『周防国風土記』が写した銘は「天保戊戌、朝使巡見之年、奉官命養鯛於岩屋西太水場磯二丁、自二月至六月無風潮害、應命之日潑剌鮮美、不減定額百二十尾、敬捧明燈以報神德」です。
天保戊戌は天保九年(1838年)。同じ一件を記す本文には、御用の日に差し出した数が「百弐拾六枚」とあり、銘の定めの数「百二十尾」を六枚上回っています。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。



