「いなせ」の意味と語源 鯔の背か頭か、江戸では「起原不詳」
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「いなせ」の意味は、勇み肌で粋なことで、明治の辞書は「いさみはだ、きほひはだ、いき」と説明しています。漢字では「鯔背」と書き、ボラの若いものをイナと呼ぶので、その背に似せた髷(まげ)を結った魚河岸の若者から出た言葉だ、とよく言われます。
ところが幕末にこの言葉を書きとめた喜田川守貞は、写本の余白に「起原不詳」と書いていました。明治の辞書が似せたと書いたのも、背ではなく頭のほうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』・毛利梅園・NDL PID:1287112 コマ12・著作権保護期間満了)
はじめは「はい」か「いいえ」の返事だった
国立国会図書館の次世代デジタルライブラリーで、江戸以前の古典籍に絞って「鯔背」と引くと、1冊も出てきません。仮名の「いなせ」ならたくさん出てくるのに、中身を開くと別の言葉ばかりでした。
元禄8年(1695年)の浮世草子『好色十弐人男』には、いなせの便りもない、という趣旨のくだりがあります(NDL PID:2534265 コマ20)。この「いなせ」は「否(いな)」と「然(せ)」、つまり「いいえ」か「はい」かの返事のことで、明治26年(1893年)の『日本大辞書』も、一つめの意味にこれを挙げて「イヤトオウト」と説明しています。
勇み肌のいなせが見つかるのは、江戸の終わり近く、喜田川守貞が江戸・京都・大坂の三都の暮らしや風俗を絵を添えて書きとめた写本『守貞謾稿(もりさだまんこう)』です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻12・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592400 コマ3・著作権保護期間満了)
安政の女の髷に「鯔脊」
女性の髪型を描いた巻12をめくっていくと、安政年間(1854〜1860年)になって丸髷が平たくなり、髷の背が下がった、という記事のところに、女性の横顔が二つ並べて描かれていて、その下の図のわきに「鯔」の字が出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻12・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592400 コマ16・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻12・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592400 コマ16・著作権保護期間満了)
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翻刻
安政ニ至リ丸髷扁平ニ髻低ク曲背下レリイナセ風也鯔脊イナセ 当時様ニシテ侠ト野卑ナルヲ云方言
現代語訳
安政年間になると、丸髷は平たくなり、髻(もとどり)が低く、髷の背が下がった。(下の図のわきに)「イナセ風也」(イナセふうである)、「鯔脊」。――イナセは、今ふうで、侠気があって品のないさまをいう、はやりことば。
図のわきには二つの列が並び、右の列はカタカナで「イナセ」、続く2字は「凡し」のように見えて、左の列は漢字で「鯔脊」です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻12・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592400 コマ16から切り出し・著作権保護期間満了)
「凡」に見える字は、守貞の手では「風」で、巻30で「侠風」と書いたところでも同じ形にくずしてあり、最後の「し」のような字は「也(なり)」ですから、右の列は「イナセ風也」、この髷はイナセふうだ、となります。そのわきに、漢字で書けばこうなると「鯔脊」が添えてあり、さらに下の注で、イナセとは今ふうで、侠気があって品のないさまを言うはやりことばだ、と説明しています。
幕末のいなせは、女性の髷の型を言うのにも使われていて、字は「鯔」に背骨の「脊」でした。守貞はそれを「方言」、つまりその時代のはやりことばとして書きとめています。
守貞は「起原不詳」と書いた
同じ『守貞謾稿』の巻30は履物の巻で、安政のころ江戸の職人や侠気を売りにする者たちが履いた足駄(高下駄)の話から、この足駄も当時のはやりことばで「イナセ」と言う、と続け、話が言葉そのものに広がっていきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻30・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592416 コマ31・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
当時万事共ニ侠風意気ナルヲイナセト云方言ナリ因云 イナセ方言ノ起原不詳或人曰 鯔ノ未長ヲイナト云……其中臨時一尾踊テ船中等ニ入ルコトアリ……彼魚ノ一尾船中ニ飛騰シテ入ルニ比シテ……故ニ彼徒ノ風ヲイナセ風ト云
現代語訳
いまは何事につけても、侠気があって粋なのを「イナセ」と言う。はやりことばである。ついでに言えば、イナセという言葉の起こりはよくわからない。ある人が言うには、ボラのまだ小さいものをイナと呼ぶ。この魚は海ではもっぱら群れで泳ぎ、その中から時々1尾だけ跳ねて船の中に飛び込むことがある。(吉原を冷やかして歩く連中から1人だけ登楼するのを)あの魚が1尾船に飛び込むのになぞらえて、その連中のふうをイナセ風と言うのだ、と。
いまは何事でも、侠気があって粋なのをイナセと言うが、ついでに言えばこの言葉の起こりはよくわからない――。守貞は、はっきり「起原不詳」と書いていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』巻30・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592416 コマ31から切り出し・著作権保護期間満了)
そのうえで「或人曰(ある人が言うには)」として書きとめた説は、魚の背とも髷とも関係がありません。ボラのまだ育ちきらないものをイナと呼び、この魚は海では一尾で泳がず群れで泳ぐが、その群れの中からときどき1尾だけ跳ねて船の中に飛び込むことがある。吉原を冷やかして歩く連中の中から1人だけが店に上がるのを、あの魚が1尾船に飛び込むのになぞらえて、その連中のふうをイナセ風と言うのだ、というのです。
ここで語られているのは、群れから跳ねて船に飛び込むイナでした。そのイナは、江戸の魚の本でも巻頭の最初に出てくる魚です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『魚鑑』2巻・武井周作著・NDL PID:2557482 コマ18・著作権保護期間満了)
明治の辞書は「いなの頭」
明治に入って辞書がこの言葉を取り上げても、明治22〜24年(1889〜1891年)の大槻文彦の『言海』には「いさみはだニ同ジ。(東京俗語)」とあるだけで、由来は書いていません(NDL PID:992954 コマ107)。由来まで書いたのは、作家の山田美妙が編んだ明治26年(1893年)の『日本大辞書』でした。
{{IMAGE:/images/articles/inase/nihondai_k93_inase_yomi.jpg|『日本大辞書』コマ93の「いな・せ」の二つの項と翻刻|「いな・せ 名〔いな(否)せ(然)ノ義〕イヤトオウト。」「いな・せ {鯔背}昔シ、東京ノ江戸ト云ツタ頃、ウヲガシカラ出タイサミハダノ人人ガマゲノイチヲ魚ノいなノカシラニ似セテ拵ヘテ結ツタ所カラハジマツタ語。」
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本大辞書』・山田美妙編・明治26年・NDL PID:902835 コマ93・著作権保護期間満了)}}
江戸のころ、魚河岸から出た勇み肌の人たちが、「マゲノイチ」を魚のイナの頭(かしら)に似せて結ったところから始まった言葉だ、という説明で、3年後の明治29年(1896年)の『帝国大辞典』も、「髷を魚のいなのかしらに似せて拵へて結びたるより、出でたる語」とほぼ同じことを書いています(NDL PID:2387590 コマ80)。文の運びまでよく似ていて、違うのは、『日本大辞書』で「マゲノイチヲ」とあったところが『帝国大辞典』では「髷を」になっていることくらいです。
守貞が「起原不詳」と書いてから40年足らずで、魚河岸と髷の話が辞書に載るようになりました。ただし、似せたのは魚の頭です。
大正の手引きは「鯔の背」、漱石の註は「鯔の頭」
大正の終わりには、説明が背に変わった本が出てきます。女学校の国語の先生向けの手引き、大正15年(1926年)の『女子現代文芸読本 教授資料』です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『女子現代文芸読本 教授資料』巻1・国語教育研究会編・大正15年・NDL PID:914158 コマ26・著作権保護期間満了)
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翻刻
【いなせ】勇み肌の人をいふ。元鯔背銀杏の略。江戸時代に江戸日本橋魚河岸邊の若者の結んだ髷の名。形が鯔の背に似てゐる。
現代語訳
「いなせ」勇み肌の人を言う。もとは「鯔背銀杏」の略。江戸時代に江戸・日本橋の魚河岸あたりの若者が結った髷の名前。形がボラの背に似ている。
もとは「鯔背銀杏(いなせいちょう)」という髷の名前の略で、形が鯔の背に似ているとあり、ここで初めて髷の名前が鯔背銀杏と書かれ、似ているのは頭ではなく背になっています。ところがその2年後、昭和3年(1928年)の『新註草枕』は、また頭と書いていました。夏目漱石の小説『草枕』に語句の註をつけた本で、床屋との会話に出てくる一言への註です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(夏目漱石『草枕』・竹野長次編『新註草枕』・昭和3年・NDL PID:1034783 コマ48・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む
翻刻
「道理で生粋(いなせ)だと思つたよ」〔生粋〕鯔背で、昔、江戸の魚河岸の勇み肌の人々が、髷を鯔背銀杏といつて、魚の鯔の頭に似せて結うた所から、やがて勇み肌のことを「いなせ」と云ふやうになつた。「否諾」の意ではない。
現代語訳
(本文)「道理で、いなせだと思ったよ」/(註)「生粋」は鯔背のことで、昔、江戸の魚河岸の勇み肌の人たちが、髷を鯔背銀杏といってボラの頭に似せて結ったところから、やがて勇み肌のことを「いなせ」と言うようになった。「否諾(いなせ=返事の諾否)」の意味ではない。
この本で見ると、漱石は「生粋」と書いて「いなせ」と読ませていて、註は鯔背銀杏を魚の鯔の頭に似せて結ったものとし、最後に「否諾の意ではない」、返事のいなせとは別の言葉だと念を押しています。元禄の浮世草子の返事のいなせから、ちょうど話が一回りしたところで註が終わるのは、少し面白い偶然です。
頭か、背か
漢字の「鯔背」のとおり、いなせはボラの若魚イナから来たと言われていて、イナに関係があるらしいということまでは、幕末から言われていました。けれども守貞は起原不詳と書いて跳ねるイナの説を一つ書き添えただけで、魚河岸の髷の話が現れるのは明治の辞書からです。似ているのが頭か背かは、明治の『日本大辞書』と『帝国大辞典』が頭、大正の『教授資料』が背、昭和の『新註草枕』がまた頭と、本によって分かれたままでした。「背」がどこの背なのかは、原本をたどるほど、かえって分からなくなります。
ボラには、成長につれて名前が変わるという話もあって、その最後の名前「とど」から来た「とどのつまり」は、別の記事で原本をたどっています(「とどのつまり」の語源)。
この記事でわかったこと
勇み肌で粋なことです。
明治29年の『帝国大辞典』は「いさみはだ、きほひはだ、いき、などの意」と説明しています(NDL PID:2387590 コマ80)。
漢字で「鯔背」と書き、ボラの若魚イナに関係があるとされます。
ただし幕末の『守貞謾稿』は「イナセ方言ノ起原不詳」と書き、群れから跳ねて船に飛び込むイナになぞらえた、という説を書き留めています(NDL PID:2592416 コマ31)。魚河岸の若者の髷に由来するという説明は、明治26年の『日本大辞書』に見えます(NDL PID:902835 コマ93)。
本によって違います。
大正15年の『女子現代文芸読本 教授資料』は「形が鯔の背に似てゐる」(NDL PID:914158 コマ26)、明治26年の『日本大辞書』や昭和3年の『新註草枕』は、魚のイナ(鯔)の「頭」に似せて結ったと書いています(NDL PID:1034783 コマ48)。
元禄8年(1695年)の浮世草子『好色十弐人男』に出てくる「いなせ」は、「否(いな)」と「然(せ)」、つまり「いいえ」か「はい」かの返事のことでした。
明治26年の『日本大辞書』も、この意味を「イヤトオウト」と説明しています(NDL PID:902835 コマ93)。勇み肌の意味は、幕末の『守貞謾稿』に「当時」のはやりことばとして出てきます(NDL PID:2592400 コマ16)。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 梅園魚品図正.巻1
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 好色十弐人男 6巻
舎衣軒 [著] 元禄8 [1695]
- 守貞謾稿.巻12
喜田川季壮尾張部守貞 誌
- 守貞謾稿.巻30
喜田川季壮尾張部守貞 誌
- 魚鑑 2巻.[1]
武井周作 天保2 [1831]
- 言海 : 日本辞書.第1-4冊
大槻文彦 編 1889-1891
- 日本大辞書
山田美妙 (武太郎) 編 明26.9
- 帝国大辞典.第1版
藤井乙男, 草野清民 編 明29.10
- 女子現代文芸読本 : 教授資料.巻1
国語教育研究会 編 大正15
- 草枕 : 新註
竹野長次 編 昭和3
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