天ぷらの語源はポルトガル語? 明治の辞書は四説を並べ「何レモイカガ」
この記事の目次
天ぷらの語源としていちばんよく知られているのは、江戸の人気作家・山東京伝(さんとう・きょうでん)が天明の初年に名付けた、という話ですが、明和5年(1768年)に出た読み物『世間学者気質』には、もう「熊の掌のてんふら」という料理の名が刷られています。えび、きす、あなごと、いまではすっかり和食の顔になった天ぷらも、名前のほうはどこから来たのかがはっきりせず、ポルトガル語から来たという話、京伝が名付けたという話、徳川家康は鯛の天ぷらを食べて亡くなったという話まであって、江戸と明治の本を開いてみると、どの説にも原本のなかで食い違いや但し書きがついていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『職人尽絵詞』第1軸・鍬形蕙斎 原画・和田音五郎 模写・NDL PID:11536004 コマ7・著作権保護期間満了)
江戸と明治の本が、それぞれ何と書いているかを先に表にしておきます。
説 | 書いてある本 | その本の言い方 |
|---|---|---|
山東京伝が名付けた | 蜘蛛の糸巻(1846年・弟の京山) | 「京傳翁が名付親」 |
外国の言葉だろう | 嬉遊笑覧(1830年) | 「蠻語なるべし」 |
スペイン語の Templo(寺) | 言海(1889〜91年)が紹介 | 「牽強カ」 |
中国語の「轉不稜」 | 言海が紹介 | ほかの説とまとめて「何レモイカガ」 |
「あぶら」の当て字を音で読んだ | 言海が紹介/日本大辞書(1893年) | 日本大辞書は「正シイ」 |
ポルトガル語の tempero(調理)など | いまの国語辞典 | 「諸説がある」とする辞典も |
天ぷらの話は料理の本にも随筆にも辞書にも散らばっているので、明治から大正にかけて国が編んだ百科事典『古事類苑(こじるいえん)』を索引がわりにしました。古い本の文章を項目ごとに抜き書きして並べた事典で、飲食部の揚げものを集めたところに天麩羅の話があります(NDL PID:897864 コマ64)。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』飲食部2・神宮司庁編・大正2年・NDL PID:897864 コマ64・著作権保護期間満了)
ここに引かれた本のうち、江戸の暮らしを書きとめた『守貞謾稿(もりさだまんこう)』、京伝の弟が書いた『蜘蛛の糸巻(くものいとまき)』、江戸の物知りが書いた『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』の三冊を開き、そこから先は、本文を言葉で検索できる「次世代デジタルライブラリー」で、「てんふら」「天麩羅」と字を変えながら古い用例を探しました。
弟・京山の「天竺浪人がふらりと」
『蜘蛛の糸巻』は、山東京山(さんとう・きょうざん)が昔の江戸のようすを書きとめた本で、自序の日付は弘化3年(1846年)、「七十八翁」と署名しています。京山は、戯作者で浮世絵師でもあった山東京伝の弟で、この本に「天ぷらのはじまり」という一段があります(明治40年の活字本『燕石十種』第一・NDL PID:991268 コマ297)。
天明(1781〜89年)の初年、大坂の商人の次男で利介という男が江戸へ逃げてきて、京山の家の裏に住んでいました。ある日、利介が京伝に、大坂で「つけあげ」というものは江戸では胡麻揚といって辻売りがあるが、魚のあげ物はまだ見かけない、うまいものだから夜店で売りたい、と言います。京伝がまず試してみろとつくらせると、「いかにも美味なれば」早く売れとすすめたのですが、利介は、行灯に「魚の胡麻揚」と書くのでは回りくどいし響きも悪い、先生、名をつけてください、と頼みました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『蜘蛛の糸巻』・山東京山・国書刊行会『燕石十種』第一・明治40年所収・NDL PID:991268 コマ297・著作権保護期間満了)
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翻刻
ひけるに亡兄すこし考へ天麩羅と書きて見せければ利介ふしんの顔にててんぷらとはいかなるいはれにやといふ亡兄うちゑみつゝ足下は天竺浪人なりふらりと江戸へ來りて賣り始める物ゆゑてんぷらなりてんは天竺のてん即ち揚ぐるなりぷらに麩羅の二字を用ひたるは小麥の粉のうす物をかくるといふ義なり
現代語訳
(名をつけてくれと)言うので、亡き兄は少し考えて「天麩羅」と書いて見せた。利介はふしぎそうな顔で、てんぷらとはどういういわれですか、と言う。亡き兄は笑いながら、あなたは天竺浪人だ、ふらりと江戸へ来て売り始める物だから、てんぷらだ。「てん」は天竺の天、つまり揚げるということ。「ぷら」に麩羅の二字を使ったのは、小麦の粉の薄物をかけるという意味だ(とたわむれて言った)。
「亡兄すこし考へ天麩羅と書きて見せければ」、兄は少し考えて天麩羅と書いて見せた。利介がふしぎそうに、どういういわれですかと聞くと、京伝は笑って「足下は天竺浪人なりふらりと江戸へ來りて賣り始める物ゆゑてんぷらなり」と答えます。あなたは天竺浪人で、ふらりと江戸へ来て売り始めるものだからてんぷらだ、というので、天竺浪人は住むところの定まらない浪人をいう言葉です(デジタル大辞泉)。字にも理屈をつけていて、「てん」は天竺の天で揚げること、「麩羅」の二字は「小麥の粉のうす物をかくるといふ義なり」、小麦の粉の薄い衣をかけるという意味だ、としました。京山は、兄がこれを「戯れ」に言ったと書き、行灯の字は兄に言われて自分が書いた、と続けています。
「今は天麩羅の名も文字も海内に流傳すれども亡兄京傳翁が名付親にて予が天麩羅の行燈を書きはじめ利介が賣り弘めしとは知る人あるべからず」。
いまは天麩羅の名も字も国じゅうに広まったが、兄の京伝が名付け親で、自分が行灯を書き、利介が売り広めたとは、知る人もあるまい――。
京山はこのとき「十二三頃」だったと書き、同じ本の別のところには、自分は明和6年(1769年)の生まれで、天明元年(1781年)には13歳だった、とあります(コマ292)。その場にいて行灯の字を書いた本人の話ですから、これ以上の証言はなさそうに見えます。
京伝が自分で描いた天麩羅の屋台
この話に合う絵を、京伝その人が描いています。天明6年(1786年)の『江戸春一夜千両』は、京伝が文を書き「まさのぶ」が絵を描いた絵入りの読み物で、まさのぶは北尾政演、京伝が浮世絵師として名乗った名でした(コトバンク「山東京伝」・デジタル大辞泉)。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『江戸春一夜千両』・京伝 作・まさのぶ 画・天明6年・NDL PID:2532477 コマ12・著作権保護期間満了)
右ページの屋台の看板を大きくすると、白抜きの字が並んでいます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『江戸春一夜千両』・京伝 作・まさのぶ 画・天明6年・NDL PID:2532477 コマ12・著作権保護期間満了)
右から読んで「天麩羅」で、京山の言う天明の初年から数年あとに、京伝は自分の本に天麩羅の屋台を描いていたことになります。文にも出てきて、大金を手にした丁稚(でっち)が、いつか四文銭をくすねて買い食いした味が忘れられない、という趣旨の場面で買ったのが「さゞいのてんふらを一つ」、さざえの天ぷらでした。屋台、看板の天麩羅、一つずつの買い食いと、京山の思い出話によく合っています。
京山が生まれる前の本に「てんふら」
ところが、江戸時代の本だけにしぼって「てんふら」「てんぷら」「天麩羅」と全文検索をかけると、天明より前の本が出てきます。冒頭に挙げた明和5年の『世間学者気質(せけんがくしゃかたぎ)』で、料理の名を並べたくだりにその一語があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『世間学者気質』第1冊・無跡散人・明和5年・NDL PID:2554859 コマ9・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『世間学者気質』第1冊・無跡散人・明和5年・NDL PID:2554859 コマ9・著作権保護期間満了)
明和5年は京山が生まれる前の年で、兄の京伝は宝暦11年(1761年)の生まれですから(デジタル大辞泉)、まだ7つか8つです。京伝が名をつけたとされる年より13年ほど前に、「てんふら」は本に刷られていました。
もう一冊は九州の本で、博多の町のことを書いた地誌『石城志(せきじょうし)』です。著者の自序に「明和二乙酉春三月」(1765年)とあり(大正期の活字本・NDL PID:987296 コマ12)、その土産の巻に、片仮名の料理名が並んでいます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『石城志』巻之七・津田元顧 撰・津田元貫 編・写本・NDL PID:11038714 コマ41・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『石城志』巻6至8・津田元貫・筑紫史談会・大正8〜10年・NDL PID:987298 コマ30・著作権保護期間満了)
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翻刻
卵索麪・油堆は南蠻菓子なるよし、西川氏が長崎夜話艸に見へたり。カステラ・ボフル・花ボフル・アルヘル等も亦同し。往古、蠻舶入津せし頃より傳りしなるべし。又、グジイド・モウリウ・ヒカド・テンプラの類も、當所の庖人等が傳へ製する處、味最よし。
現代語訳
卵索麺と油堆は南蛮菓子だということが、西川氏の『長崎夜話草』に見える。カステラ、ボウル、花ボウル、アルヘルなども同じである。昔、南蛮の船が港に入ってきたころから伝わったのだろう。また、グジイド、モウリウ、ヒカド、テンプラのたぐいも、この土地の料理人たちが伝えてつくっていて、味はたいへんよい。
卵そうめんなどは南蛮菓子で、カステラやボウルも同じだと書いたあと、「往古、蠻舶入津せし頃より傳りしなるべし」、昔、南蛮の船が港に入ってきたころから伝わったのだろうと推しはかり、「又、グジイド・モウリウ・ヒカド・テンプラの類も、當所の庖人等が傳へ製する處、味最よし」と続けています。グジイド、モウリウ、ヒカド、テンプラのたぐいも、この土地の料理人たちが伝えてつくっていて、味はたいへんよい、というのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『石城志』巻之七・津田元顧 撰・津田元貫 編・写本・NDL PID:11038714 コマ41・著作権保護期間満了)
ヒカドはいまも長崎の郷土料理に名が残っていて、「細かく刻む」という意味のポルトガル語 picado が変化した名だといいます(コトバンク「ヒカド」・日本の郷土料理がわかる辞典)。博多の地誌は、南蛮菓子の話に続けてテンプラをそのヒカドと同じ列に並べていて、江戸の京伝の話より十数年前の日付の本です。いまの辞書がいちばん古い例に挙げるのは、さらに古い1748年の料理書『歌仙の組糸』で(コトバンク「天麩羅」・精選版 日本国語大辞典)、『改訂新版 世界大百科事典』は1669年の『食道記』に「てんふらり」の名があるとしていますが、どちらも国会図書館のデジタルコレクションでは見つからず、画像では確かめていません。
守貞の「実説歟未考」と信節の「蠻語なるべし」
京山の話を、江戸の人がそのまま信じていたわけではありません。喜田川守貞(きたがわ・もりさだ)が京・大坂と江戸の暮らしを絵をまじえて書きとめた手書きの本『守貞謾稿』は、江戸時代の終わりごろの様子を伝えていて、その「天麩羅」の項は東西の違いから始まります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ25・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ25・著作権保護期間満了)
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翻刻
天麩羅 京坂ノ天フラハ前ニ云ル如ク半平ノ油揚ヲ云 江戸ノ天麩羅ハアナゴ 芝ヱビコハダ 貝ノ柱 スルメ右ノ類惣テ魚類ニ温飩粉ヲユルクトキテコロモトナシ而后ニ油揚ニシタルヲ云 菜蔬ノ油揚ハ江戸ニテモテンフラト云ズ アゲモノト云也
現代語訳
天麩羅。京・大坂の天ぷらは、前に書いたとおり、はんぺんの油揚げをいう。江戸の天麩羅は、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝の柱、スルメ。こうしたものすべて、魚のたぐいに、うどん粉をゆるく溶いて衣にし、それから油で揚げたものをいう。野菜の油揚げは、江戸でも天ぷらとは言わず、揚げものと言う。
「京坂ノ天フラハ前ニ云ル如ク半平ノ油揚ヲ云」、京・大坂の天ぷらははんぺんを油で揚げたもので、「江戸ノ天麩羅ハアナゴ 芝ヱビ コハダ 貝ノ柱 スルメ」、これらの魚にうどん粉をゆるく溶いた衣をつけて揚げたもの、と書き分けたうえで、「菜蔬ノ油揚ハ江戸ニテモテンフラト云ズ アゲモノト云也」、野菜を揚げたものは江戸でも天ぷらとは言わず揚げものと言う、と念を押しています。同じ天ぷらでも東と西では別の食べもので、江戸の天ぷらは魚にかぎった名でした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『職人尽絵詞』第1軸・鍬形蕙斎 原画・和田音五郎 模写・NDL PID:11536004 コマ7・著作権保護期間満了)
このあと守貞は、京山が『北越雪譜』に書いた話だとして、京山の話を長く引いています。それによると利介の天麩羅は「一ツ四銭ニテ毎夜賣切ルホド」で、ひと月もたたないうちにあちこちに天ぷらの夜店ができたといいますが、引き終えたところで、守貞はひとこと添えました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ26・著作権保護期間満了)
「トイヘルハ実説歟未考」、と言っているのは本当の話だろうか、まだ考えていない、と、守貞は京山の話をうのみにはしていません。
もう一人の喜多村信節は、『嬉遊笑覧』で江戸の暮らしや遊びを古い本を引きながら書きとめていて、自序の日付は文政13年(1830年)、京山の『蜘蛛の糸巻』より16年前です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』下・喜多村信節・近藤活版所・明治36年・NDL PID:992505 コマ263・著作権保護期間満了)
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翻刻
三ツ取合のなんばん菓子を一人に一斤あてにあらし云々 凡菓子何にても沙糖のすり蜜を衣にかくるをてんふらと云 蠻語なるべし 小麥の粉をねりて魚物などにつけて油あげにするをも云ハ其形同じければなり
現代語訳
(前の行から続く引用のあと)およそ菓子は何でも、砂糖のすり蜜を衣にかけるのを「てんふら」と言う。外国の言葉だろう。小麦の粉をねって魚などにつけ、油揚げにするのもそう言うのは、形が同じだからである。
信節は菓子の話のなかで、「凡菓子何にても沙糖のすり蜜を衣にかくるをてんふらと云 蠻語なるべし」、菓子は何でも砂糖の蜜を衣にかけるのを「てんふら」と言い、外国の言葉だろう、と書き、続けて「小麥の粉をねりて魚物などにつけて油あげにするをも云ハ其形同じければなり」、小麦の粉をねって魚につけ油で揚げるのもそう言うのは、形が同じだからだ、としています。砂糖の衣をかけた菓子も「てんふら」で、衣をかけるところが同じだから魚の揚げものもそう呼ぶのだと考え、言葉そのものは外国から来たと見ていたわけです。同じ巻では、江戸の天ぷらがよくなった時期にもふれていて、文化(1804〜18年)のはじめより少し前、日本橋のきわの屋台で「吉兵衛と云ものよきてんぷらを出してより他所にもよきあげものあまたになり」と書いています(コマ243)。
『言海』の「何レモイカガ」と美妙の「正シイ」
明治になると、国語辞典が語源を書くようになります。明治22年から24年(1889〜91年)にかけて出た大槻文彦の国語辞書『言海(げんかい)』の「テンプラ」の項は、こうです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『言海』・大槻文彦・明治22〜24年・NDL PID:992954 コマ427・著作権保護期間満了)
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翻刻
テンプラ(名)天麩羅〔語ノ姿ト調理ノ趣トヲ考フルニ、洋語ナラムト思ハル、斯班牙語、Templo.(寺)ノ料理ノ意ナラムトイフハ牽強カ、或云、支那ニテ、現ニ轉不稜トイフ、是レナリト、或云、油ヲ天麩羅ト記セルナリト、其他、山東京傳ノ天竺浮浪人云云ノ説ナド、尚多ケレド、何レモイカガ〕魚介ノ肉ヲ、麪粉液ニ塗シテ、胡麻ノ油ニテ煑ゲタルモノ。魚肉ノ揚物。
現代語訳
テンプラ(名詞)天麩羅。〔言葉の姿と料理のようすから考えると、西洋の言葉だろうと思われる。スペイン語の Templo(寺)の料理という意味だろうというのは、こじつけか。ある人は、中国でいま「轉不稜」と言う、これだと言う。ある人は、油(あぶら)を「天麩羅」と書いたのだと言う。そのほか、山東京伝の「天竺浮浪人」うんぬんの説など、まだ多いが、どれもどうだろうか。〕魚や貝の身を衣にまぶして、胡麻の油で揚げたもの。魚の揚げ物。
大槻はまず「語ノ姿ト調理ノ趣トヲ考フルニ、洋語ナラムト思ハル」と、言葉の姿と料理のようすから考えると西洋の言葉だろう、と自分の見立てを書き、そのうえで世にある説を並べます。スペイン語の Templo(寺)の料理という意味だという説には「牽強カ」、こじつけか、と書き添え、中国でいま「轉不稜」と言うのがそれだという説、「油ヲ天麩羅ト記セルナリ」、油(あぶら)を天麩羅と書いたのだという説、そして「山東京傳ノ天竺浮浪人云云ノ説」を挙げています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『言海』・大槻文彦・明治22〜24年・NDL PID:992954 コマ427・著作権保護期間満了)
四つ並べた結びは「尚多ケレド、何レモイカガ」で、まだほかにも多いが、どれもどうだろうか、と、西洋の言葉だろうとは思いながら、どの説にもこれだとは言わないのが大槻の答えでした。京伝の話も、四つのうちの一つとして並んでいるだけです。
2年後の辞書は、言い切っています。作家の山田美妙が編んだ『日本大辞書』(明治26年=1893年)です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『日本大辞書』第10巻・山田美妙編・明治26年・NDL PID:992951 コマ21・著作権保護期間満了)
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翻刻
てんぷら 名。{天麩羅}〔あぶらあげノ萬葉假名ノ當テ字、「天麩羅…」ヲ後世略シ、あぶらトイフ文字ヲ誤ッテ音讀シタトイフ説ガ正シイ〕。(一)魚介ナドノ肉ニ饂飩ノころもヲ掛ケテ胡麻ノ油、又ハかやノ油デ揚ゲタモノ。(二)てんぷらそばノ略。
現代語訳
てんぷら(名詞)天麩羅。〔「あぶらあげ」を万葉仮名で当て字にした「天麩羅…」を、のちの世に略し、「あぶら」という文字をまちがって音読みした、という説が正しい。〕(一)魚や貝などの身にうどん粉の衣をかけて、胡麻の油、または榧(かや)の油で揚げたもの。(二)てんぷらそばの略。
「あぶらあげノ萬葉假名ノ當テ字、「天麩羅…」ヲ後世略シ、あぶらトイフ文字ヲ誤ッテ音讀シタトイフ説ガ正シイ」。
あぶらあげを万葉仮名のように漢字の当て字で書き、のちにそれを略して、あぶらにあたる字をまちがって音で読んだ、という説が正しいというのですから、天麩羅はもともと「あぶら」と読ませる字だった、という理屈になります。『言海』が四つのうちの一つに挙げた説を美妙は「正シイ」とし、明治の辞書どうしで答えが分かれました。
家康が食べたのは鯛を榧の油で揚げたもの
江戸幕府が編んだ史書『徳川実紀(とくがわじっき)』(デジタル大辞泉)の家康の巻の附録に、元和2年(1616年)正月の鷹狩りの記事があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『梅園魚品図正』巻二・毛利梅園・天保6年序・NDL PID:1287113 コマ4・著作権保護期間満了)
京から来た茶屋四郎次郎に、家康が、近ごろ上方で珍しいことはないかとたずね、四郎次郎がこう答えます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『徳川実紀』第壹編・成島司直ら編・経済雑誌社・明治37年・NDL PID:1917811 コマ146・著作権保護期間満了)
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翻刻
元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四郎次郎京より參謁して。さま〴〵の御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の邊にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に薤をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原内記清久より能濱の鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ
現代語訳
元和2年(1616年)正月21日、駿河の田中で鷹狩りがあった。そのころ茶屋四郎次郎が京から来てお目にかかり、いろいろな話を申し上げた。近ごろ上方で何か珍しいことはないか、とおたずねになると、「ございます。このごろ京・大坂のあたりでは、鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上に薤をすりかけたものがはやっていて、わたくしもいただきましたが、たいへんよい風味でした」と申し上げた。ちょうど榊原内記清久から能浜の鯛が献上されたので、すぐにそのとおりに料理させて召し上がったところ、その夜からお腹が痛みだした。急いで駿府の城へお帰りになり、療養された。
「此ごろ京坂の邊にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に薤をすりかけしが行はれて」、このごろ京・大坂のあたりでは、鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上に薤(ラッキョウをさす字)をすりかけたものがはやっている、というのです。ちょうど鯛が献上されたので、家康はそのとおりに料理させて食べ、「其夜より御腹いたませ給へば」、その夜から腹が痛みだしました。記事は次のページへ続き、いったんはよくなったように見えたが、年のせいもあってまた具合が悪くなった、と書いています(コマ147)。
読んでみると、天ぷらという言葉はどこにもなく、書いてあるのは鯛を榧の油で揚げたということだけで、衣をつけたとも書いていません。事典もそこを注意していて、『改訂新版 世界大百科事典』は、家康の天ぷら中毒死説を「巷間の俗説に便乗したもの」とし、文献には鯛を油で揚げたと書かれているだけだ、としています(コトバンク「天麩羅」)。事典が引く文では「ごまの油」、『徳川実紀』では「かやの油」です。
ただ、鯛を榧の油で揚げる料理は、のちに「てんぷら」の名で本に載ります。鯛の料理ばかりを集めた『鯛百珍(たいひゃくちん)』で、明治28年(1895年)の『実用料理法』がページの上の段に載せていて、編者は天明の年に大阪で出版された本だと書いています(NDL PID:849051 コマ17)。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『鯛百珍』・器土堂主人・写本・NDL PID:2536202 コマ30・著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『実用料理法』・大橋又太郎編・博文館・明治28年・NDL PID:849051 コマ36・著作権保護期間満了)
見出しは「通仙流てんぷら鯛の仕方」で、泉州堺の茶人、通仙という人が始めたもの、注に「あぶらあげは何によらずかやの油をつかふ也」、揚げものは何でも榧の油を使う、とあります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『実用料理法』・大橋又太郎編・博文館・明治28年・NDL PID:849051 コマ37・著作権保護期間満了)
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翻刻
かやうにも切て。越ぜん葛に酒と水と少しづゝ入て。魚をまぶし。榧の油を煮て右魚をあげ候へば。味はひかるくなるなり。小皿にをろし大根を入て醤油をかけて出す也。此あぶら。あともあしくなり申さず。志かもごまの油よりはあたへこゝろやすく候
現代語訳
(鯛を三枚におろし、水につけて脂を抜き、)どのようにでも切って、越前葛に酒と水を少しずつ入れ、魚にまぶす。榧の油を煮立てて、その魚を揚げると、味が軽くなる。小皿におろし大根を入れ、醤油をかけて出す。この油は、あとも悪くならない。しかも胡麻の油より値が安い。
鯛を三枚におろして水につけて脂を抜き、葛を酒と水でといて魚にまぶし、「榧の油を煮て右魚をあげ候へば。味はひかるくなるなり」、おろし大根と醤油で出す、という作り方です。上方の、鯛を榧の油で揚げる料理という点では家康が聞いた話と材料は同じで、こちらには「てんぷら」の名がついていますが、二つがつながるのかどうかは、この二冊からは分かりません。
いまの国語辞典も、ポルトガル語の tempero(調理)とするもの、諸説があるとするもの、と分かれたままで(コトバンク「天麩羅」)、『改訂新版 世界大百科事典』は、スペイン語やポルトガル語から来たとする説について、当時の文献的証拠は見つかっていない、としています。行灯の字を書いた京山の証言にも、それより前の「てんふら」が立ちはだかっていて、守貞の「実説歟未考」は、いまでもそのまま通用する一言です。
同じ屋台の食べものだった握りずしの話は寿司の歴史年表、鯛の字の話は鯛の漢字の由来、「江戸前」という言葉は江戸前の由来の記事へ。
この記事でわかったこと
天ぷらの語源は、いまも一つに決まっていません。
いまの国語辞典には、ポルトガル語の tempero(調理)とするものと、ポルトガル語やスペイン語からなどの諸説があるとするものがあります(コトバンク「天麩羅」)。明治の『言海』は、スペイン語説、中国語説、「油」の当て字説、山東京伝の命名説を並べて「何レモイカガ」と書いています(NDL PID:992954 コマ427)。
山東京伝が天ぷらの名付け親だという話は、弟の山東京山が『蜘蛛の糸巻』(弘化3年=1846年の自序)に書いたものです(NDL PID:991268 コマ297)。
ただし「てんふら」の語は、京山が生まれる前の年にあたる明和5年(1768年)の『世間学者気質』にすでに出てきます(NDL PID:2554859 コマ9)。江戸の『守貞謾稿』も、京山の話を引いたうえで「実説歟未考」と書いています(NDL PID:2592417 コマ26)。
徳川家康が亡くなる年に食べた鯛の料理は、『徳川実紀』では「天ぷら」と呼ばれていません。
元和2年(1616年)正月、家康が「鯛をかやの油にてあげ」薤をすりかけた料理を食べ、その夜から腹が痛んだ、と書いてあります(東照宮御実紀附録巻十六・NDL PID:1917811 コマ146)。『改訂新版 世界大百科事典』は、天ぷら中毒死説を巷間の俗説に便乗したものとしています(コトバンク「天麩羅」)。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 職人盡繪詞.第1軸
鍬形蕙斎 原画・山東京傳, 杏花園, 手柄岡持 詞書 [1---]
- 古事類苑.飲食部2
神宮司庁古事類苑出版事務所 編 [大2]
- 燕石十種.第1
岩本佐七 編 明治40
- 江戸春一夜千両 3巻
京傳 作・まさのぶ 画 [天明6 (1786)]
- 世間学者気質 5巻.[1]
無跡散人 明和5 [1768]
- 石城志.巻1至3
津田元貫 [著] 大正8-10
- 石城志 12巻.七
津田元顧 撰・津田元貫 編
- 石城志.巻6至8
津田元貫 [著] 大正8-10
- 守貞謾稿.後集巻1
喜田川季壮尾張部守貞 誌
- 嬉遊笑覧 : 12巻附1巻.下
喜多村信節 著 1903 2版
- 言海 : 日本辞書.第1-4冊
大槻文彦 編 1889-1891
- 日本大辞書.第10巻
山田美妙 編 明治26
- 梅園魚品図正.巻2
毛氏梅園元寿<毛利梅園>//撰輯 天保6(1835)序
- 徳川実紀.第壹編
成島司直 等編・経済雑誌社 校 1904
- 実用料理法
大橋又太郎 編 明28.7
- 鯛百珍
器土堂主人
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