UOMEDIA

寿司の歴史年表 江戸の握りずしは八文、玉子巻は十六文

公開
更新
読む時間
約22分
共有B!LINE
この記事の目次

天保15年(1844年)に歌川国芳が描いた一枚の女性は、海老をのせたすしと玉子巻きを皿に盛って箸を持ち、膝の先には折箱を置いています。皿のすしは握りで、所蔵する東京都立中央図書館の解説によれば、当時人気の高級ずしだった松ずしにかけた絵です。いま寿司といえば回転ずしでもスーパーのパックでもまず握りずしですが、寿司の歴史のなかで握りはずいぶん新しい顔で、もとの「すし」は、魚を塩と飯に漬けて酸っぱくなるのを待つ食べ物でした。それが握りに変わっていく途中を、江戸の人たちは自分の目で見て本に書き残しています。

歌川国芳の錦絵「縞揃女弁慶」。格子縞の着物の女性がすしを盛った皿と箸を持ち、子どもが手をのばしている
歌川国芳「縞揃女弁慶」のうち安宅の松の一枚(天保15年=1844年)。女性が持つ皿に、海老をのせたすしや玉子巻きがのっている。膝の先には折箱。所蔵する東京都立中央図書館の解説は、当時人気の高級ずしだった「松ずし」(安宅の松が鮓)にかけた絵としている。
出典:東京都立中央図書館(TOKYOアーカイブ)「縞揃女弁慶」[安宅の松]・歌川国芳・天保15年・請求記号 K662-20-9・パブリックドメイン

奈良時代の荷札から大正の震災の記録まで、原本で読めたことを年表にすると次のようになります。

いつ

すしの姿

書いてある資料

奈良時代

魚を塩と飯に漬けた馴鮓(なれずし)。都へ納める荷札に「多比鮓」

平城宮の木簡

平安時代

辞書が「鮨」の字をスシと読む

和名抄

1664年の版

鮎を飯ごと火であぶり、重しをかけて一晩でならす

料理物語

1697年

飯に酢を少し合わせ、一昼夜で仕上げる「一夜鮓」

本朝食鑑

宝暦(1751〜64年)のころ

江戸の鮓売りは、数日漬けこんだ「古鮓」を桶で売り歩く

嬉遊笑覧

文化(1804〜18年)のはじめ

深川の松がすしで「世上すしの風一變し」

嬉遊笑覧

文政(1818〜30年)のはじめ

与兵衛鮓の初代が握りずしを考え出した、と明治43年に与兵衛鮓の主人が書く

家庭 鮓のつけかた

文政の末ごろ

大坂に江戸風の握りずしの店ができる

守貞謾稿

1836年

両国の与兵衛鮓で、客が席を争う

江戸名物詩

1842年

松の鮓と与兵衛鮓が召し捕られる

家庭 鮓のつけかた が引く「聞のまにまに」

江戸の終わりごろ

江戸のすしは握りずしだけに。おおよそ八文、玉子巻は十六文

守貞謾稿

1901年

名高いすし屋は松の鮓、毛ぬき、与兵衛鮓

東京風俗志

1923年

関東大震災で与兵衛鮓と毛抜鮓が焼ける

大正震災志

『古事類苑』の鮓の項を手がかりに

すしの話は、料理の本、食べものの事典、町の名物を集めた本、暮らしの記録とあちこちに散らばっているので、明治から大正にかけて国が編んだ百科事典『古事類苑(こじるいえん)』を索引がわりにしました。古い本の文章を項目ごとに抜き書きして並べた事典で、その飲食部に「鮓」の項があります(NDL PID:897868 コマ54〜64)。

『古事類苑』飲食部コマ54の見開き。左ページのなかほどに見出し「鮓」
『古事類苑』飲食部の見開き。左ページのなかほどに見出し「鮓」が立ち、その左に編者のあらすじが続く。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『古事類苑』飲食部6・神宮司庁編・大正2年・NDL PID:897868 コマ54・著作権保護期間満了)

項のはじめに編者が書いたあらすじは、「鮓ニハ馴鮓ト早鮓ト二種アリ、古ヘニ謂ユル鮓ハ皆馴鮓ナリ」と始まり、すしには馴鮓(なれずし)と早鮓(はやずし)の二種類があって、昔のすしはみな馴鮓だった、と言い切っています。ページをまたいだ結びは「德川幕府時代ニ至リ、江戸ニテ握鮓、卷鮓等ヲ製リ、京坂ヲ始メ一般ニ流行シ、馴鮓大ニ衰ヘタリ」(コマ54〜55)で、江戸で握りや巻きずしがつくられて京・大坂をはじめ広くはやり、馴鮓は大いにおとろえた、という筋書きです。馴鮓、早鮓、握りずしというこの三段のあとに、もとになった本の文章が並んでいるので、それを一冊ずつ原本で開きました。

木の札に書かれた馴鮓

いちばん古いすしは、本ではなく木の札に書かれています。

奈良時代の木簡。細長い2枚の板の写真で、右の面に墨の字が縦に並ぶ
奈良の平城宮跡から出た荷札の木簡(平城宮399号木簡)。表と裏を並べて写した写真。奈良文化財研究所の釈文では、表に「若狭国遠敷郡/青里御贄/多比鮓壱塥」、裏に「秦人大山」とある。
出典:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)平城宮399号木簡・奈良文化財研究所所蔵・CC BY

奈良の平城宮跡から出た、荷物につける札で、所蔵する奈良文化財研究所の釈文は「若狭国遠敷郡/青里御贄/多比鮓壱塥」です。若狭国(今の福井県の一部)から都へ納めた荷に「多比(たい)」の「鮓」とあり、研究所の解説はこれを鯛のナレ鮨の荷札としています。平安時代の辞書『和名抄(わみょうしょう)』も「鮨」の字に「須之(すし)」の読みをつけていて、字の話は鮨の漢字の由来の記事でくわしく読みました。

馴鮓のつくり方を、『古事類苑』のあらすじはこうまとめています。魚に塩をして一晩押して水気をぬぐい、冷ました飯といっしょに桶におさめ、重石をかけて何日か置いて、味が熟したら食べる(コマ54)。名高いものには、近江の鮒鮓、大和吉野の鮎鮓、山城宇治の鰻鮓が挙がっています。

一晩でならす工夫と、少しの酢

何日も待たずに済ませる工夫は、江戸時代のはじめにはもう料理の本に載っていました。『料理物語』は、大正4年(1915年)の『雑芸叢書』に活字で入っていて、底本は寛文4年(1664年)の版です。

『料理物語』(雑芸叢書)コマ175の「夜ずしの仕樣」の大写し
右が上の段の末尾の二列「〔夜ずしの仕樣〕あゆをあらひ、めしをつねの鹽かげ/んよりからうして、うほに入、草づとにつゝみ、庭に」。左が下の段のはじめの四列「火をたき、つと共にあぶり、其うへをこもにて二三べ/んまき、かの火をたきたるうへに置、おもしをつよく/かけ候、又はしらにまきつけつよくしめたるよし、一/夜になれ申候」。二か所を切り出して並べた。この活字本の見出しは「夜ずしの仕樣」。江戸後期の『嬉遊笑覧』は同じ箇所を「一夜ずしの仕樣」として引いている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『料理物語』・国書刊行会編『雑芸叢書』第一・大正4年所収・NDL PID:945792 コマ175・著作権保護期間満了)

「あゆをあらひ、めしをつねの鹽かげんよりからうして、うほに入、草づとにつゝみ、庭に火をたき、つと共にあぶり」とあって、いつもより塩からくした飯を鮎に詰め、わらの包みにくるんで庭の火で包みごとあぶります。その上をこもで二、三べん巻いて火をたいた場所の上に置き、「おもしをつよくかけ候」、柱に巻きつけて強くしめてもよいとしたうえで、「一夜になれ申候」と結んでいます。温めて強く押すことで一晩でならすやり方で、酢はまだ出てきません。

酢が出てくるのは、元禄10年(1697年)の『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』です。医師の人見必大(ひとみ・ひつだい)が食べものを一つずつ論じた本で、巻九に「魚鮓」の項があります。

『本朝食鑑』巻九コマ47の見開き。漢文に返り点と送り仮名のついた版本
『本朝食鑑』巻九の見開き。「魚鮓」の項のつづきで、右ページにつくり方が書いてある。ページの端の柱に「本朝食鑑巻九」とある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』巻九・人見必大・元禄10年刊・NDL PID:2557334 コマ47・著作権保護期間満了)

必大はまずふつうのつくり方として、白い米を炊いて冷まし、鮓桶に入れて魚を埋め、蓋に石を二つ三つのせて押す、と書きます。「經兩三日而鮓水溢于蓋上 復經一兩日而熟」、二、三日で鮓の水が蓋の上にあふれ、さらに一、二日で熟すというのだから、あわせて三日から五日かかる計算です。そのすぐあとに、もっと早いやり方が出てきます。

『本朝食鑑』巻九コマ47、右ページ左端の四列と翻刻
「也 復有早成法 有一夜鮓法 倶切魚肉令細薄 或/加用鰒鰕橙蓼薑之類 各浸煖鹽水者 飯熟時 飯/熟而取出鹽水之切肉 以(一字略)乾之 待飯半冷而抹/魚肉 合好醋少許 混雜入鮓桶 掩蓋載小石壓于」。略した一字は読めなかった。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』巻九・人見必大・元禄10年刊・NDL PID:2557334 コマ47・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

也 復有早成法 有一夜鮓法 倶切魚肉令細薄 或加用鰒鰕橙蓼薑之類 各浸煖鹽水者 飯熟時 飯熟而取出鹽水之切肉 以(一字略)乾之 待飯半冷而抹魚肉 合好醋少許 混雜入鮓桶 掩蓋載小石壓于

現代語訳

また、早く仕上げる方法、一夜鮓の方法がある。どちらも魚の身を細く薄く切る。鮑、海老、橙、蓼、生姜のたぐいを加えることもある。それぞれ温かい塩水に浸しておき、飯が炊けたら切り身を塩水から取り出して水気を取る。飯が半ば冷めたところで魚の身にまぶし、よい酢を少し合わせ、混ぜて鮓桶に入れる。蓋をして小石をのせ、押す。

「復有早成法 有一夜鮓法」とあり、魚の身を細く薄く切って温かい塩水に浸し、半ば冷めた飯をまぶして、「合好醋少許」、よい酢を少し合わせるのが一夜鮓です。

『本朝食鑑』の「有一夜鮓法」と「合好醋少許」の大写し
右が「有一夜鮓法」、左が「合好醋少許」。コマ47の右ページから二か所を切り出して並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本朝食鑑』巻九・人見必大・元禄10年刊・NDL PID:2557334 コマ47・著作権保護期間満了)

混ぜたものを鮓桶に入れて蓋に小石をのせ、暖かいところに置けば、「倶不過一日夜而熟成焉」、どれも一昼夜を過ぎずにできあがる。飯に酢を合わせるすしは元禄の本にもう載っていたことになりますが、まだ桶に入れて押し、一昼夜待つすしでした。

江戸の鮓売りの桶の中身

町で売られていたすしは、喜多村信節の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に出てきます。江戸の暮らしや遊びを古い本を引きながら書きとめた本で、自序の日付は文政13年(1830年)、その飲食の巻にすしの一段があります。信節は「むかしの鮓は飯を腐らしたるものにて みな源五郞鮒の鮓の如し」(NDL PID:992505 コマ242)と書き、昔のすしは源五郎鮒のすしのようなもので、早鮓といっても一夜ずしのことだ、と続けて、さきほどの『料理物語』を引いています。

町のすし屋については、貞享4年(1687年)の『江戸鹿子』から、舟町横町の近江屋と駿河屋の二軒を拾い、さらに『後は昔物語』を引きます。

『嬉遊笑覧』巻十上コマ243の四列と翻刻
「におまん鮓も寶曆のころよりと覺ゆ 京橋中橋おまんがべにといふ言より居所の地によりて/おまん鮓といふなるべし 此頃までは當座鮓を賣ことは希なり 鮓賣といふは丸き桶のうすき/に古き傘の紙を葢にして幾つも重ねて 鰺のすし鯛のすしとて賣あるきしは數日漬こみたる/古鮓なりといへり」。右の列の頭の「に」は、前の列の末尾の〔後はむかし物語〕から続く。助詞の「は」は、この本では変体仮名で刷られている。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』下・喜多村信節・明治36年の活字本・NDL PID:992505 コマ243・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

におまん鮓も寶曆のころよりと覺ゆ 京橋中橋おまんがべにといふ言より居所の地によりておまん鮓といふなるべし 此頃までは當座鮓を賣ことは希なり 鮓賣といふは丸き桶のうすきに古き傘の紙を葢にして幾つも重ねて 鰺のすし鯛のすしとて賣あるきしは數日漬こみたる古鮓なりといへり(以下略)

現代語訳

おまん鮓も宝暦のころからと覚えている。(中略)このころまでは、その場でつくる当座鮓を売ることはまれだった。鮓売りというのは、薄い丸い桶に古い傘の紙で蓋をしたものをいくつも重ね、鰺のすし、鯛のすしと言って売り歩いたが、それは数日漬けこんだ古鮓だったという。

そこには「此頃までは當座鮓を賣ことは希なり」とあって、宝暦(1751〜1764年)のころまでは、その場でつくる当座鮓を売ることはまれだったといいます。鮓売りは薄い丸い桶に古い傘の紙で蓋をして、いくつも重ねて持ち歩き、「鰺のすし鯛のすしとて賣あるきしは數日漬こみたる古鮓なり」。アジだタイだと呼び声をあげて売り歩いていた中身は、数日漬けこんだ古鮓でした。18世紀のなかばになっても、江戸の町のすしは漬けて待つすしだったわけです。

深川の松がすしで「世上すしの風一變し」

同じ一段の少しあとの列で、話が急に変わります。

『嬉遊笑覧』コマ243の「文化のはしめ頃深川六軒ぼりに松がすし出きて世上すしの風一變し」の大写し
右が「文化のはしめ頃深川六軒ぼりに松がすし」、左が「出きて世上すしの風一變し」。コマ243の右ページ左端の一列を、上下二つに切って並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『嬉遊笑覧』下・喜多村信節・明治36年の活字本・NDL PID:992505 コマ243・著作権保護期間満了)

「文化のはしめ頃 深川六軒ぼりに松がすし出きて 世上すしの風一變し」。

文化(1804〜1818年)のはじめごろ、深川の六軒堀に「松がすし」ができて世の中のすしのありさまが一変した、と書くのですが、信節のすしの話はここで終わっていて、何がどう変わったのかは書いていませんし、「握り」の字も出てきません。ただ、この店のすしは絵に残っていて、冒頭の国芳の一枚がそれです。

国芳「縞揃女弁慶」の皿の部分。染付の皿に、海老をのせたすしと黄色い玉子巻き、箸
冒頭の絵の、皿の部分。いちばん上に海老をのせたすし、その下に黄色い玉子巻きが見える。
出典:東京都立中央図書館(TOKYOアーカイブ)「縞揃女弁慶」[安宅の松]・歌川国芳・天保15年・請求記号 K662-20-9・パブリックドメイン

都立中央図書館の解説は、皿のすしを海老と青魚の握りと玉子巻きとし、松ずしを当時たいへん人気の高級ずしとしています。天保7年(1836年)の序がある『江戸名物詩』も、この店を取りあげています。江戸の名物の店を一軒ずつ漢詩のかたちの戯れ歌にした本です。

『江戸名物詩』初編コマ31の「安宅松鮓」の三列の大写し
右から「安宅松鮓 御舩蔵前」「本所一番安宅鮓 高名當時莫可并 權家」「進物三重折 玉子如金魚水晶」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『江戸名物詩』初編・方外道人・天保7年序・NDL PID:8929318 コマ31・著作権保護期間満了)

「本所一番安宅鮓 高名當時莫可并」、本所で一番の安宅(あたけ)の鮓はその名の高さにならぶものがない、とほめ、「權家進物三重折 玉子如金魚水晶」と続けて、力のある家への進物は三重の折詰で、玉子は金のよう、魚は水晶のようだ、と詠んでいます。屋台でつまむものではなく、贈りものにする折詰のすしでした。

両国の路地の奥の与兵衛鮓

同じ本の少し前のページには、もう一軒のすし屋が出てきます。

『江戸名物詩』初編コマ17の「與兵衛鮓」の三列と翻刻
「與兵衛鮓 向両国元丁/流行鮓屋町々在 此頃新開兩國東 路次/奥名與兵衛 客來爭坐二間中」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『江戸名物詩』初編・方外道人・天保7年序・NDL PID:8929318 コマ17・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

與兵衛鮓 向両国元丁流行鮓屋町々在 此頃新開兩國東 路次奥名與兵衛 客來爭坐二間中

現代語訳

与兵衛鮓(向両国元町)。はやりの鮓屋は町々にある。近ごろ新しく開いたのが、両国の東。路地の奥、その名は与兵衛。客が来ては、二間の店のなかで席を争う。

「流行鮓屋町々在 此頃新開兩國東」、はやりのすし屋は町々にあり、近ごろ新しく開いたのが両国の東で、「路次奥名與兵衛 客來爭坐二間中」、路地の奥のその名は与兵衛、客が来ては二間の店のなかで席を争う、という詩です。天保7年の序がある本に「近ごろ開いた」店として出てくるのが与兵衛鮓で、路地の奥の狭い店に客が詰めかけていました。

守貞が描いた握りずしと値段

握りずしそのものを絵つきでくわしく書きとめたのが、喜田川守貞(きたがわ・もりさだ)の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』です。京・大坂と江戸の暮らしを絵をまじえて書きとめた手書きの本で、江戸時代の終わりごろの様子が分かり、食べものを集めた後集巻之一にすしの項があります。

『守貞謾稿』後集巻之一コマ26、すしの項のはじめの三列と翻刻
「スシノコト生業ノ条ニ詳カニセル如ク 三都トモ押鮓也シガ 江戸ハイツ比ヨリ歟/押タル筥鮓廃シ握リ鮓ノミトナル 筥鮓ノ廃セシハ五六十年以来漸クニ/廃スト也 筥鮓ト云ハ方四寸許ノ下圖ノ如キ筥ニ 飯ニ酢ト塩ヲ合セ先半ヲイレ」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ26・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

スシノコト生業ノ条ニ詳カニセル如ク 三都トモ押鮓也シガ 江戸ハイツ比ヨリ歟押タル筥鮓廃シ握リ鮓ノミトナル 筥鮓ノ廃セシハ五六十年以来漸クニ廃スト也 筥鮓ト云ハ方四寸許ノ下圖ノ如キ筥ニ 飯ニ酢ト塩ヲ合セ先半ヲイレ

現代語訳

すしのことは生業の条に詳しく書いたとおり、三都とも押しずしであったが、江戸はいつごろからか、押した箱ずしがすたれて握りずしだけになった。箱ずしがすたれたのは、この五、六十年のあいだにだんだんと、ということだ。箱ずしというのは、四寸四方ほどの下の図のような箱に、酢と塩を合わせた飯をまず半分入れ(るものである)。

「三都トモ押鮓也シガ 江戸ハイツ比ヨリ歟 押タル筥鮓廃シ握リ鮓ノミトナル」。京・大坂・江戸の三都とも押しずしだったのに、江戸ではいつごろからか、押した箱ずしがすたれて握りずしだけになった、という一文で、守貞は「イツ比ヨリ歟」と書くだけで、握りずしがいつ始まったのかは書いていません。箱ずしがすたれたのは「五六十年以来漸クニ」、この五、六十年のあいだにだんだんと、と聞いた話のかたちで添えているだけです。ページをめくると、握りずしの絵が出てきます。

『守貞謾稿』後集巻之一コマ27の見開き。左ページに握りずしの絵が縦に並ぶ
『守貞謾稿』後集巻之一の見開き。左ページの右寄りに、握りずしと巻きずしの絵が縦に並んでいる。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ27・著作権保護期間満了)
『守貞謾稿』の握りずしの絵の大写し。玉子、玉子巻、海苔巻、アナゴ、白魚、刺身、コハダ
握りずしの絵を、上半分(右)と下半分(左)に切って並べた。右は上から「玉子」「玉子巻」「海苔巻」「同麁」「アナゴ」。左は上から「白魚」(わきに「中結干瓢」)、「刺ミ」、「コハダ」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ27・著作権保護期間満了)

上から玉子、玉子巻、海苔巻が二つ、アナゴ、白魚、刺身、コハダと、飯の上にタネをのせた形で描かれていて、白魚は干瓢(かんぴょう)で真ん中を結んであります。刺身とコハダのわきの小さな書き入れは「刺身及ビコハダ等ニハ 飯ノ上肉ノ下ニ山葵ヲ入ル」で、ワサビは飯と身のあいだに入れていました。絵の右の列には、タネの名前が並びます。

『守貞謾稿』後集巻之一コマ27、握りずしのタネを並べた二列と翻刻
「江戸今製ハ握リ鮓也 雞卵焼 車海老 海老ソボロ 白魚 マグロサシミ コハダ/アナゴ甘煮長ノマヽ也」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ27・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

江戸今製ハ握リ鮓也 雞卵焼 車海老 海老ソボロ 白魚 マグロサシミ コハダアナゴ甘煮長ノマヽ也

現代語訳

江戸の今のすしは握りずしである。玉子焼き、車海老、海老のそぼろ、白魚、マグロの刺身、コハダ、アナゴの甘煮(長いまま)。

「江戸今製ハ握リ鮓也」と書いたあとに並ぶタネは、雞卵焼(玉子焼き)、車海老、海老ソボロ、白魚、マグロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮です。マグロの刺身が入っているのは目を引くところで、江戸でマグロが下魚あつかいだった話は別の記事で読みました。コハダはコノシロの小さいものです。値段も書いてあります。

『守貞謾稿』コマ27の「以上大畧價八文鮓也」と「其中玉子巻ハ十六文許也」の大写し
右が「以上大畧價八文鮓也」、左が「其中玉子巻ハ十六文許也」。コマ27の左ページの一列を、上下二つに切って並べた。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ27・著作権保護期間満了)

「以上大畧價八文鮓也 其中玉子巻ハ十六文許也」。

以上はおおよそ八文のすしで、玉子巻だけは十六文ほど――。添えるのは新生姜の酢漬けと姫蓼(ひめたで)で、仕切りには熊笹を使う、と守貞は続けています。すし屋の数についての書き方も具体的です。

『守貞謾稿』後集巻之一コマ27、左ページ左端の二列と翻刻
「江戸ハ鮓店甚ダ多ク 毎町一二戸 蕎麦屋一二町ニ一戸アリ 酢屋名アルハ屋/體見世ヲ置ズ 普通ノ見世ハ専ラ置之 又屋タイミセノミニテ売モ多シ」。「酢屋」は原本の字のまま。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ27・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

江戸ハ鮓店甚ダ多ク 毎町一二戸 蕎麦屋一二町ニ一戸アリ 酢屋名アルハ屋體見世ヲ置ズ 普通ノ見世ハ専ラ置之 又屋タイミセノミニテ売モ多シ

現代語訳

江戸は鮓の店がとても多く、町ごとに一、二軒ある。蕎麦屋は一、二町に一軒である。名のある店は屋台見世を置かない。ふつうの店はもっぱらこれを置く。屋台見世だけで売る者も多い。

「江戸ハ鮓店甚ダ多ク 毎町一二戸 蕎麦屋一二町ニ一戸アリ」とあって、すし屋は一つの町に一、二軒、蕎麦屋は一、二町に一軒というのだから、すし屋のほうが蕎麦屋より多かったことになります。信節が貞享4年の本から拾ったすし屋は二軒でした。名のある店は屋台見世を置かないが、ふつうの店は置き、屋台見世だけで売る者も多い、とも守貞は書いています。

広重の錦絵の一部。「寿し」と大きく書いた看板の屋台。台の上にすしが並び、奥に桶
歌川広重「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」(三枚続き)のうち、右の一枚の部分。「寿し」の看板を出した屋台の台に、すしが並んでいる。
出典:ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」歌川広重筆・東京国立博物館所蔵・CC BY

歌川広重の三枚続きの錦絵「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」でも、海辺にならぶ屋台のなかに「寿し」の看板が見えます。守貞の次の見開きには、名のある店が並びます。

『守貞謾稿』後集巻之一コマ28、名のあるすし屋を挙げた五列と翻刻
「江戸鮓ニ名アルハ本所阿武蔵ノ阿武松ノスシ 上畧シテ松ノ鮓ト云 天保以来ハ/店ヲ浅草第六天前ニ遷ス 又呉服橋外ニ同店ヲ出ス/東両国 元町 与兵衛鮓/ヘッツイ川岸 毛抜鮓ハ一ツ六文ニテ各々笹巻ニス 巻テ後桶ニ積ミ石ヲ以テ圧之/深川 横櫓 小松鮓」。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『守貞謾稿』後集巻之一・喜田川守貞・写本・NDL PID:2592417 コマ28・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

江戸鮓ニ名アルハ本所阿武蔵ノ阿武松ノスシ 上畧シテ松ノ鮓ト云 天保以来ハ店ヲ浅草第六天前ニ遷ス 又呉服橋外ニ同店ヲ出ス東両国 元町 与兵衛鮓ヘッツイ川岸 毛抜鮓ハ一ツ六文ニテ各々笹巻ニス 巻テ後桶ニ積ミ石ヲ以テ圧之深川 横櫓 小松鮓

現代語訳

江戸のすしで名のあるのは、本所の「阿武蔵」の「阿武松」のすし。上を略して松の鮓という。天保からは店を浅草の第六天前に移した。呉服橋の外にも同じ店を出している。東両国元町の与兵衛鮓。へっつい河岸の毛抜鮓は一つ六文で、一つずつ笹で巻く。巻いてから桶に積み、石で押す。深川横櫓の小松鮓。

筆頭は松の鮓で、天保からは浅草に店を移したとあり、次が「東両国 元町 与兵衛鮓」です。三軒めのへっつい河岸の毛抜鮓(けぬきずし)は「一ツ六文ニテ各々笹巻ニス」、一つ六文で一つずつ笹で巻き、巻いてから桶に積んで石で押すすしで、四軒めに深川の小松鮓の名があります。

握りずしは江戸の外へも出ていきました。守貞によれば、文政の末ごろ大坂の戎橋の南に「松ノ鮓」という店ができて江戸風の握りずしを売り、「是大坂ニテ江戸鮓ヲ売ルノ始メ也」(コマ27)。自分が大坂にいたころはこの一軒だけだったが、いまはあちこちで売っているそうだ、と守貞は書き添えています。

握りずしを始めたのは誰か

ここまでの本では、『嬉遊笑覧』が松がすしで「世上すしの風一變し」と書きながら握りとは書かず、『江戸名物詩』は与兵衛鮓を「此頃新開」の店として詠み、『守貞謾稿』は江戸が握りずしだけになった時期を「イツ比ヨリ歟」とぼかしていて、握りずしを始めた人を名指しした一行はどこにもありませんでした。

名前が出てくるのは、明治43年(1910年)の『家庭 鮓のつけかた』で、扉に「與兵衛壽し主人著」とあります。あの与兵衛鮓の主人が書いた、家庭向けのすしの本です。

『家庭 鮓のつけかた』の扉。筆文字で「與兵衛壽し主人著 家庭 鮓のつけかた 東京 大倉書店發行」
『家庭 鮓のつけかた』の扉。右に「與兵衛壽し主人著」、左に「東京 大倉書店發行」。左下の丸い印は図書館の受け入れ印で、「明治43.7.26」とある。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『家庭 鮓のつけかた』・小泉清三郎(迂外)・大倉書店・明治43年・NDL PID:848995 コマ1・著作権保護期間満了)

巻末の付録「鮓の變遷」に、その一文があります。

『家庭 鮓のつけかた』コマ93、「握鮓の流行」の節のはじめの四列と翻刻
「●江戸に握鮓の起つたのは文政(今を距る九十年前)の初めで、今の與兵衛鮓の初代/が此新法を案出したと舊記にあります。尤も與兵衛以前に之の法を企てた者も/二三はありましたやうですが、皆失敗に歸して市人の嗜好に適さなかつたやうで/す。」。振り仮名は略した。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『家庭 鮓のつけかた』・小泉清三郎(迂外)・大倉書店・明治43年・NDL PID:848995 コマ93・著作権保護期間満了)
翻刻と現代語訳をテキストで読む

翻刻

●江戸に握鮓の起つたのは文政(今を距る九十年前)の初めで、今の與兵衛鮓の初代が此新法を案出したと舊記にあります。尤も與兵衛以前に之の法を企てた者も二三はありましたやうですが、皆失敗に歸して市人の嗜好に適さなかつたやうです。

現代語訳

江戸に握りずしが起こったのは文政(今から九十年前)の初めで、今の与兵衛鮓の初代がこの新しいやり方を考え出したと、古い記録にあります。もっとも、与兵衛より前にこのやり方を試みた者も二、三はあったようですが、みな失敗に終わって、町の人の好みに合わなかったようです。

「江戸に握鮓の起つたのは文政(今を距る九十年前)の初めで、今の與兵衛鮓の初代が此新法を案出したと舊記にあります」。

握りずしは文政(1818〜1830年)のはじめに与兵衛鮓の初代が考え出したと古い記録にある、と言ったすぐあとで、主人はこう続けます。

「尤も與兵衛以前に之の法を企てた者も二三はありましたやうですが、皆失敗に歸して市人の嗜好に適さなかつたやうです」。

与兵衛より前にも試みた者が二、三はいたが、みな町の人の好みに合わずに終わった、と当の店の主人が自分で書いているのが面白いところで、そのうえで、真価を世に知らせたのは与兵衛だから「握鮓の始祖とも云ふべき」だ、という言い方に落ち着いています。

同じ付録は、『嬉遊笑覧』の喜多村信節が書いた『聞のまにまに』から、天保13年(1842年)4月18日の記事も引いています。値の張る品を売る店が次々に召し捕られたという記事で、そのなかに「大橋安宅の松の鮓・兩國元町の與兵衞が鮓是等も召捕れたり」(コマ94)とあり、松の鮓と与兵衛鮓はならんで取り締まりを受けるほどの店でした。

いまの事典や図書館の解説も、一人には決めていません。コトバンクの「与兵衛ずし」のページが引く『世界大百科事典』は、握りずしは与兵衛ずしの初代、花(華)屋与兵衛の創案とする説があるが、それ以前にも何人かが試みていたという説もある、としています。国芳の絵を所蔵する東京都立中央図書館の解説も、『嬉遊笑覧』の一文を根拠に松がすしを考案者とする説があるとしたうえで、両国の与兵衛説も有力なので「一軒の店に断定しない方がよさそうである」と書いています。

明治の本に残った三軒、震災で焼けた二軒

守貞が名を挙げた四軒のうち三軒は、明治の本にも出てきます。明治34年(1901年)の『東京風俗志』は、すし屋には道ばたに屋台を構えて商うものが多く、料理屋のような構えの店も少なくないと書いたうえで、「就中著るきは、淺草の松の鮓、日本橋の毛ぬき、兩國の與兵衛鮓等なり」(NDL PID:992087 コマ101)と続けていて、守貞の一覧のはじめの三軒とそっくり同じ顔ぶれです。与兵衛鮓の主人の本の巻頭には、すしを盛り合わせた図があります。

『家庭 鮓のつけかた』の巻頭の図。頭と尾のついた魚のすし、海老のすし、渦を巻いた巻きずしなどの盛り合わせ
『家庭 鮓のつけかた』の巻頭の図。頭と尾のついた魚のすし、海老のすし、渦を巻いた巻きずしなどが盛り合わせてある。白と黒だけで撮影された画像なので、色は分からない。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『家庭 鮓のつけかた』・小泉清三郎(迂外)・大倉書店・明治43年・NDL PID:848995 コマ3・著作権保護期間満了)

大正12年(1923年)の関東大震災の被害をまとめた内務省の『大正震災志』は、焼けた名店を数えあげるなかに「兩國の與兵衞鮓、竈河岸の毛拔鮓」の名を入れ、蕎麦屋の名を続けたあと、その列を「盡く燒失し」と結んでいます(NDL PID:981915 コマ284)。天保7年の戯れ歌で路地の奥に客が席を争っていた店の名は、震災で焼けた店の列のなかに、毛抜鮓とならんで記されていました。

すしの字の話は鮨の漢字の由来、握りずしのタネになった白魚は江戸の白魚は「蒔いた」魚、「江戸前」という言葉は江戸前の由来の記事へ。『嬉遊笑覧』が松がすしの話のすぐあとに書いている、日本橋の屋台の天ぷらの話は天ぷらの語源の記事で読みました。

この記事でわかったこと

  • 寿司のもとは、魚を塩と飯に漬けて酸味が出るのを待つ「馴鮓(なれずし)」です。

    奈良の平城宮跡から出た荷札の木簡には「多比鮓」と書かれています(ColBase・奈良文化財研究所の釈文)。『古事類苑』飲食部は「古ヘニ謂ユル鮓ハ皆馴鮓ナリ」とまとめています(NDL PID:897868 コマ54)。

  • 握りずしを誰がいつ始めたかは、江戸の本でもはっきりしません。

    『守貞謾稿』は江戸が握りずしだけになった時期を「イツ比ヨリ歟」と書き(NDL PID:2592417 コマ26)、『嬉遊笑覧』は文化のはじめに深川の松がすしで「世上すしの風一變し」と書いています(NDL PID:992505 コマ243)。明治43年の『家庭 鮓のつけかた』は、文政の初めに与兵衛鮓の初代が考え出したとしつつ、それ以前に試みた者も二、三いたと書いています(NDL PID:848995 コマ93)。

  • 『守貞謾稿』は、江戸の握りずしを「大畧價八文鮓也」、玉子巻は十六文ほどと書いています。

    タネは雞卵焼、車海老、海老ソボロ、白魚、マグロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮で、刺身やコハダには飯と身のあいだにワサビを入れるとあります(後集巻之一・NDL PID:2592417 コマ27)。

この記事で開いた原本

どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。

ほかの記事で使った本もあわせて見るなら記事で開いた原本の一覧へ。

共有B!LINE