魚へんに陸の右側で鯥(むつ)|江戸では正しい字がなかった魚
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魚へんに陸の右側、つまり阝(こざとへん)を取った「坴」を書く「鯥」は、ムツと読みます。ところが江戸の本草書を開くと、ムツの項にこの字は見出しとして立っておらず、寺島良安の『和漢三才図会』はムツについて「正字未詳」、正しい字はわからないと書いていました。中国の字書に載る鯥は、牛のような形をした『山海経(せんがいきょう)』の怪しい魚の名前で、ムツとは関係がありません。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『水族四帖』冬・奥倉辰行 著・写本・NDL PID:1287130 コマ7・著作権保護期間満了)
上の絵は江戸の魚譜『水族四帖』のムツで、大きな目と、歯の並んだ大きな口が描かれています。字の方は江戸の本では落ち着いておらず、ムツに当てられていた別の字を学者が「誤り」と退けたり、海のムツを国の名前と同じ音だからと奥州では言い換えたりしていました。鯥がムツの字として名簿の先頭に並ぶのは、明治19年に農商務省がまとめた『水産俗字集』の中です。
中国の字書では、牛の形をした魚
中国で鯥がどんな字だったかは、清の時代の字書『康熙字典(こうきじてん)』の、安永9年(1780年)に日本で刊行された版で確かめました。魚部の八画、つまり魚へんに八画の旁がつく字をまとめたところの、コマ21の左ページの頭に鯥の項があります。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『康熙字典』魚部・安永9年刊の和刻本・NDL PID:2562615 コマ21・著作権保護期間満了)
見出しのすぐ下は「力竹切、音六」で、読みは数の「六」と同じだとしています。続いて引かれるのが中国の古い書物『山海経』で、柢山という山に魚がいて「其狀如牛」、形は牛のよう、「蛇尾有翼」、蛇の尾に翼があり、その羽は脇の下に生え、声は留牛のよう。そして「其名曰鯥」、その名を鯥という、という一節です。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『康熙字典』魚部・安永9年刊の和刻本・NDL PID:2562615 コマ21・著作権保護期間満了)
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翻刻
鯥〔廣韻〕〔集韻〕丛力竹切、音六。〔山海經〕柢山有魚焉、其狀如牛、蛇尾有翼、其羽在脅下、音如留牛、其名曰鯥。〔陳禹謨駢志〕鯥魚陵居。〔郭璞江賦〕……
現代語訳
鯥。『広韻』『集韻』ともに力竹の切、音は六。『山海経』に、柢山に魚がいる。形は牛のようで、蛇の尾に翼があり、羽は脇の下にある。声は留牛のようで、その名を鯥という。陳禹謨『駢志』に、鯥魚は陵(おか)に住む。郭璞「江賦」に……
そのあとには、陳禹謨の『駢志』から「鯥魚陵居」、鯥魚は陵(おか)に住む、という一句も引かれていて、水の中より丘の上にいる生き物として扱われています。食べる魚としての説明はどこにもなく、中国の字書の鯥は、魚屋に並ぶムツとはまるで別の、想像の中の生き物の字でした。
江戸のムツは「正字未詳」
では日本の学者はムツをどの字で書いたかというと、寺島良安の絵入り百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』では、川や湖の魚を集めた巻四十八の終わり近く、コマ15に「牟豆」という万葉仮名のような二字の見出しでムツが出てきます。見出しの上には、岩の間を泳ぐ小さな魚の絵がついています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』巻四十八・寺島良安 編・江戸時代刊・NDL PID:2596381 コマ15・著作権保護期間満了)
見出しの下の割注は「正字未詳」の四字から始まり、続けて『塩嚢抄(あいのうしょう)』という本がムツに使っている字をあげ、それも確かではない、と書いています。肝心のその一字は刷りがかすれていて、拡大しても魚へんの右側の形を確定できませんでした。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『和漢三才図会』巻四十八・寺島良安 編・江戸時代刊・NDL PID:2596381 コマ15・著作権保護期間満了)
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翻刻
正字未詳塩嚢抄用□字未審……
現代語訳
(牟豆の項の割注)正しい字はわからない。『塩嚢抄』は□の字を用いているが、確かではない……(□は刷りがかすれて字形を確定できない字)
しかも良安の牟豆は、谷川の岩の穴にいて浮かんで泳ぎ、大きさは四、五寸(12〜15cmほど)、身はやわらかくて「味不美最下品」、まずくていちばん下の品、という魚です。これは海のムツではなく、谷川の小魚の話です。次に読む『本草綱目啓蒙』も、京でムツと呼ぶのは川の魚だと書いていて、この二冊でまず「ムツ」として出てくるのは川の魚でした。
この「字が決まらない」状態に、はっきり答えを出した本があります。小野蘭山(おの・らんざん)の講義をまとめた『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』に、小原良直が書き足した版の巻之四十、コマ52です。本文はやはり川のムツの話で、石鮅魚という漢名に、京の呼び名としてムツを当て、テリムツ、アカムツ、クソムツ、シロムツと、ひれの色や大きさで呼び分ける名前を並べています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本草綱目啓蒙』巻之四十・小野蘭山 口授・小原良直 増補・NDL PID:2558717 コマ52・著作権保護期間満了)
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翻刻
……ト云〔増〕塩嚢抄ニ鱁ノ字ヲムツニ用ユ非也鱁ハ鱀ノ一名ニシテサメノ類ナリ〔原〕又海魚ニムツアリ一名ロクノイヲ〔奥州國名ヲ避テ……〕
現代語訳
〔増補〕『塩嚢抄』が鱁の字をムツに用いるのは誤りである。鱁は鱀の別名で、サメのたぐいである。〔原文〕また海の魚にもムツがあり、別名をロクノイヲという(奥州。国の名を避けて……)
〔増〕の印がついた書き足しは「塩嚢抄ニ鱁ノ字ヲムツニ用ユ非也」、『塩嚢抄』が鱁(魚へんに逐)の字をムツに使うのは誤りだ、という一文で、鱁は鱀の別名でサメのたぐいだから、と理由を添えています。『和漢三才図会』で読めなかった一字も、この書き足しを信じるなら鱁で、どちらにしても鯥ではありませんでした。江戸の学者がムツに当てた字を検めた二冊のどちらにも、鯥は出てこないのです。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『本草綱目啓蒙』巻之四十・小原良直 増補・NDL PID:2558717 コマ52・著作権保護期間満了)
海のムツは仙台で「ロク」
同じページの〔原〕、蘭山の元の文は、川のムツのあとに「又海魚ニムツアリ一名ロクノイヲ」と続けています。海の魚にもムツがいて、別名はロクノイヲ。その下の割注が「國名ヲ避テ名ヲ易ルナリ」で、奥州では国の名を避けて名前を変えるのだ、というのです。奥州は陸奥(むつ)の国なので、国の名と同じ音のムツを魚の名に使わず呼び変えた、ということです。ロクは陸の字の音読みと同じ音ですが、蘭山はそこまでは書いていません。海のムツについて蘭山は、筑後や肥前の泥の海にいちばん多いと『大和本草』にある、と引いたうえで、形は石首魚に似て小さく紫がかった黒で、うろこが細かく頭と目が大きく、油が多いので煎じて灯油にする、と続けています(文化2年刊の版、NDL PID:2555494 コマ29でも同じ文を確認)。
海のムツを描いたのが、冒頭の『水族四帖』です。灰色の魚の頭の脇に、奥倉辰行は細かい字で産地ごとの違いを書き込んでいて、その中に仙台の名前が出てきます。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『水族四帖』冬・奥倉辰行 著・写本・NDL PID:1287130 コマ7・著作権保護期間満了)
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翻刻
仙臺ロク 江戸ノムツヨリ細長鰭大頭扁ムツハ夏背ニ瘤ヲ出ル此時肉甚アレ……
現代語訳
仙台のロクは、江戸のムツより細長い。ひれが大きく、頭は平たい。ムツは夏に背にこぶを出す。このときは身がひどく荒れる……
「仙臺ロク江戸ノムツヨリ細長」、仙台でロクと呼ぶものは江戸のムツより細長い。蘭山がロクノイヲと書いた奥州の呼び名は、辰行の書き入れでは短く「ロク」になっています。その隣の列は「ムツハ夏背ニ瘤ヲ出ル此時肉甚アレ」で、ムツは夏になると背にこぶを出し、そのころは身がひどく荒れる、冬にはそれがないので寒中がよい、という旬の見立てまで書いてあります。
明治の名簿の先頭に「鯥」
鯥がムツの字として並んでいるのを見つけたのは、明治の水産の役所が作った字の名簿でした。農商務省農務局の編纂課が明治19年(1886年)3月に緒言を書いた『水産俗字集』は、通俗の節用集や往来物などの本から魚介の俗字や異名を集めて、カナの順に並べた本です。緒言は、地方ごとに呼び名が違い、どれが正しいとも決められないので、まず参考として集めたと断っています。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『水産俗字集』・農商務省農務局 編・大日本水産会刊・明治19年緒言・NDL PID:842637 コマ17・著作権保護期間満了)
「ムツ」の見出しの下は鯥で始まり、すぐ下に鱁、そこに「名」の印がついています(引用書目の凡例では『名物類篇』)。そのあとも、花鮎魚、勒魚など、出典の違う字がずらりと続き、古い本がムツに当ててきた字の多さがそのまま一列に並んでいます。『本草綱目啓蒙』が誤りとした鱁も、ちゃんと名簿に残っていました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(『康熙字典』魚部・安永9年刊の和刻本・NDL PID:2562615 コマ21/『水産俗字集』・農商務省農務局 編・NDL PID:842637 コマ17・いずれも著作権保護期間満了)
なぜ鯥がムツになったのかを説明した本には、今夜たどった範囲では行き当たりませんでした。中国の字書で鯥は「音六」、海のムツの奥州での別名はロクで、陸の字もロクと読みますが、この三つを結びつけて字の由来を説いた記述は見つけていないので、ここでは偶然の重なりとして並べるだけにとどめます。確かに言えるのは、江戸の学者がムツに当てた字は「正字未詳」から誤りとされた鱁まで揺れていて、鯥は明治の名簿で先頭に立っていた、ということです。
筆者が市場で見てきたこと
店先に並ぶムツは、アカムツ(ノドグロ)とクロムツが同じくらいです。呼び名は、ムツはムツまたはクロムツと呼ばれ、区別がついていないことが多く、クロムツはクロムツ、アカムツはアカムツかノドグロと呼びます。良し悪しを決めるのは、とにかくサイズと鮮度で、脂はだいたい乗っています。体の赤の色と目の澄みも見ます。値は一年を通してあまり変わりません。
『水族四帖』が夏は身が荒れて寒中がよいと書いたのとくらべると、いまの店先では季節で値が動かないというのが筆者の見ているところで、どちらも書いておきます。江戸の『和漢三才図会』や『本草綱目啓蒙』でまず「ムツ」として出てくるのは川の小魚でしたが、筆者の見る市場でムツの名で呼ばれているのは、クロムツとアカムツです。
関連する漢字
中国の字書では別のものを指していた字には、鰤(魚へんに師)や魳(魚へんに市)があります。江戸の『和漢三才図会』の見出しと世間の字が食い違う話は鰡(魚へんに留)で読んでいます。ほかの字は魚へんの漢字一覧と、魚へんの漢字の由来の索引にまとめています。
この記事でわかったこと
魚へんに、陸の阝(こざとへん)を取った「坴」を書く「鯥」は、ムツと読みます。
明治19年(1886年)に緒言が書かれた農商務省の『水産俗字集』では、「ムツ」の項の最初にこの字が出ています(NDL PID:842637 コマ17)。
中国の字書『康熙字典』では、『山海経』を引いて、牛のような形で蛇の尾と翼をもつ魚の名としています。
読みは「力竹切、音六」です(安永9年刊の和刻本、NDL PID:2562615 コマ21)。
『和漢三才図会』は見出しを「牟豆」とし、「正字未詳」と書いています(NDL PID:2596381 コマ15)。
小原良直が増補した『本草綱目啓蒙』は、『塩嚢抄』が鱁の字をムツに使うのを誤りとしています(NDL PID:2558717 コマ52)。
『本草綱目啓蒙』は海のムツの別名をロクノイヲとし、奥州では国の名を避けて名前を変えるのだと書いています(NDL PID:2558717 コマ52)。
陸奥(むつ)の国と同じ音を避けたという説明です。『水族四帖』にも「仙臺ロク」とあります(NDL PID:1287130 コマ7)。
この記事で開いた原本
どれも国立国会図書館デジタルコレクションで、無料・登録なしで読めます。コマ番号から該当ページが開きます。
- 水族四帖.冬
〔奥倉辰行//著〕
- 康煕字典42卷附字典琢屑1卷字典初學索引1卷.[40]
清凌紹〓等奉敕撰・都賀庭鐘校・附都賀庭鐘撰 安永9
- 和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻.[34]
寺島良安尚順 編 [江戸時代]
- 本草綱目啓蒙.巻40
小野蘭山 著・小原良直 増補
- 本草綱目啓蒙 48巻.[23]
蘭山小野先生 口授・小野職孝士徳 録 文化2 [1805] [跋]
- 水産俗字集
農商務省農務局 編 明20.5
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